第6章
体育館の薄暗がりに、少年の影は鼠のように小さく、ひっそりと潜んでいた。蒼太(そうた)は一人、壁際に寄り添い、膝を抱えて震えていた。汗ばんだ体操服は皺くちゃで、まるで捨てられた雛鳥の羽根のように乱れ、肩は小さく震えている。体育の授業が終わった後、誰もいないはずの体育館に、彼は取り残されていた。
遠くから、かすかに聞こえる周囲の喧騒。嬌声、けたたましい笑い声、そしてバスケットボールが床に当たる乾いた鈍い音。それらは、彼を包み込む現実とはまるで隔絶された、異次元の音響のように、意識の外側を漂っていた。まるで、厚いガラスの向こう側で起こっている出来事のように、現実味が感じられない。
いじめが始まったのはいつだったか、蒼太自身も曖昧にしか覚えていない。最初は些細な事だったろう。意地悪な言葉、突き飛ばされること、ロッカーから大切な物を隠されること。些細な出来事の積み重ねが、いつしか彼を深い闇へと突き落としていったのだ。
しかし、あの日のことは鮮明に覚えている。体育館のロッカー室。上級生たちに囲まれた時のこと。生臭い汗の匂いと、彼らの吐き捨てるような言葉が、蒼太の耳に突き刺さる。屈辱的な嘲笑、侮蔑に満ちた言葉、そして脅迫。言葉の刃は、彼の心を深く切り裂いた。彼はただ、無力に、恐怖に震えながら、その場を耐え忍ぶしかなかった。
あの時の恐怖は、今も彼の心臓を締め付ける。心臓の鼓動は、太鼓の如く、不規則に、激しく胸の中で打ち鳴らされている。息苦しさ、息ができない。彼は何度も深呼吸を繰り返すが、その苦しさは収まる気配を見せない。視界がぼやけていく。足元がふらつく。彼は意識を失いかける。
その日の帰り道、蒼太はいつものように俯き加減で、家路を急いだ。夕焼けの空は血のように赤く染まり、その不穏な色彩は、彼の内面の荒れを映し出す鏡のようだった。燃えるような赤が、彼の瞳に映り込み、さらに彼の心を焦がす。
彼の心は、錆びついた鉄の檻に閉じ込められた鳥のように、絶望に囚われていた。誰にも相談できない。相談したところで、理解してもらえるとは限らない。むしろ、嘲笑されるだろう。そんな思いが、彼の胸を締め付ける。
家庭での暴力、そして学校でのいじめ。二重の苦悩は彼の心を蝕み、彼の瞳を濁った灰色に染めていた。まるで、深い井戸の底に沈んだ石のように、彼の心は重く、沈んでいた。
彼は、もはや笑うことを忘れていた。彼の顔には、いつも影が漂っている。その影は、彼の心を深く覆い、彼を孤独の闇へと沈めていく。それは、深い海の底のように、暗く、底知れぬ闇だった。
野球の練習の時だけは、わずかに、彼の瞳に光が宿る。野球のユニフォームを着ている時だけは、彼は自分自身を取り戻せる気がした。グラウンドの土の匂い、汗ばむ手の中に握りしめたバット、仲間と交わす、短いながらも温かい言葉。しかし、それは束の間の輝きであり、すぐに暗闇に覆い隠されてしまう。
グラウンドで、彼はボールを握りしめ、必死にバットを振る。その姿は、闇夜に飛び立つ、一羽の黒い鳥のようだった。彼は、そのボールに、彼のすべての感情を託していた。彼の怒り、悲しみ、そして、底知れない絶望を。しかし、そのボールは、闇夜に消えていく。彼の叫びは、誰にも届かない。彼の影は、静かに、闇に溶けていく。彼の心は、深い群青色の闇に沈んでいく。 その闇は、彼を完全に飲み込んでしまうかのように、深く、静かに、広がっていくのだった。
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