たかはな先生

 「棚端くん、指定難病とか興味ないかい?」


 長い長い研修医の期間を終えて、晴れて一人前の医者に成れるかなんて頃。大学時代からお世話になってる老年の先生にそう声をかけられた。


 はあ、と返事をしながら、軽く思考を巡らせてこの質問の意図を探る。


 「院内の政治関連の話ならお断りしたいんですけど」


 研修医の時点で想ったことは、やっぱりどの世界にも人間関係のめんどくさい部分はあると言うこと。一応、この国でそこそこ頭がいい奴が集まってるはず医学会でも、そこんとこはあんまり変わらない。むしろ変に頭が回る分、ややこしいイメージの方が強い。


 私は、そういうのに巻き込まれるのはごめんだった。指定難病を管理しているのはあのお偉いさんで、事実上にその傘下に入るってことは、こっちのお偉いさんと別派閥になることで……、なんてごたごたは正直勘弁してほしい。


 そんな私の答えに、老練の先生は愉快そうに笑った。


 「ああ、そういうのじゃない。普通に向いてると想ってるから聞いたんだよ。むしろ離れ小島みたいな領域だから、政治系とは縁遠いくらいさ」


 「なるほど、なら興味あるかもしんないです。ちなみに推薦理由を聞いてもいいもんですか?」


 めんどくさいごたごたから離れられるのなら、それは確かに悪くない。ただ、この頼りがいがあって、老獪で、聡明で、思慮深い先生が、単純に楽だから勧めてるとも考えづらい。


 「ああ、理由はね、君が今期の新人の中で、一番ほら―――適当そうだったから、かな」


 「……褒めてます?」


 「すっごい褒めてる」


 「んなわけねえでしょ……」


 とまあ、こんなやり取りをしておいてなんだけど。結局話は聞いてみることになった。


 我ながらひねくれてるなあと、想うわけだけど、そういう性分なので仕方ない。


 女の身体に男の脳みそが入っているような奴なのだ。さもありなんって感じでしょ。






 指定難病『恒常的低体温症』。




 通称、『雪女症候群』。





 症状は体温が、平均28度、低体温症のラインまでしか上がらないこと。そして、それにまつわる、内臓器官の不調、身体活動の限界、そして27歳前後で低体温から始まる突然の衰弱死。


 現在確認されている、存命の患者は三名。いずれも血縁、っていうか親子。


 現状、明確な治療手段はなく、対処療法的なアプローチに留まる。それも寿命問題を先延ばしにすることすらできてないのが実際の所。


 ここまではまあわかる。なにせ悲しいかな、成人するまで生きられない難病とか世の中には溢れかえってるから。普通の生活が出来て27まで生きられる時点で、まだましかなとか想っちゃうのは、私の感覚がバグってきているせいなのか。


 ただまあ、問題はここから。


 雪女症候群の患者は、愛する人と接吻あるいは性交することで、その命をもらい受け、寿命を延ばすことができる……。


 「なんか急にオカルトになってません?」


 「まったくね。しかも全部口伝だ、迷信と断じたいのも山々だがそれだと治療が進まない」


 「…………はあ、もしかして、適当なほうがいいって、こういうわけわからんことに順応しなきゃいけないからです?」


 「はっはっはっは」


 腐っても科学的な諸々を勉強してきた端くれとしては、そんな根拠もないあやふやなことを認めたくはないのだけれど。ただそう渋る私に、先生は少し意地悪な笑みを向けていた。


 「原因が愛かは確かに分からない。しかし実際に体温は上がってる、寿命も延びてる、それはつまり臨床的な事実があるということだ。理屈はわからずとも、法則はある。となれば、その法則を一つずつ確かめていくのが、君の役割なんじゃないのかな?」


 「…………言わんとすることはわかりますがね」


 にしたって、限度があるでしょう。


 カルテに書き込まれた、非現実的なあれやこれやに顔をしかめながら、私はただため息をついていた。


 はあ、雪女、ねえ。






 「というわけで、今日から担当になりました、棚端 高華です。よろしくお願いします」


 そんなこんなで初めての顔合わせ、先生から軽い紹介を受けて、頭を下げる。


 こんな新米のぺーぺーを当てられて、さぞ落胆しているかと想ったら、件の患者はころころと楽しそうに笑ってた。


 「はい、こちらこそ。よろしくお願いします、こうか先生」


 書類上では三十も半ばのはずだけど、見栄えはなんか異様に若い、何より目を引くのが、まっしろできめ細かく皴一つない肌だった。


 普通、それくらいの年齢の人間は、化粧をしても隠せないような、皴や傷が残るものだけど。欠片ほどもそれが見当たらない。17歳の少女と言われても納得がいく、いや普通の17歳の肌ですらもうちょっと傷がいっているものだ。


 だけど、彼女の肌にはそれが一つも見当たらない。髪は枝毛の一つもないんじゃないかってくらい、非現実的な美しさを保ってる。


 なるほど、命を吸ってると言われても納得がいってしまう。


 たしかに雪も吐かない、吹雪も起こさない。それでも、彼女が異様の存在なのだと認識するのには十分だった。


 ただまあ、話してみると意外と人懐っこいだけのお姉さんだったけど。


 そんなこんなで、数回の診察には、上司の先生にも同席してもらったけれど、実際やっていたのはとりとめもない会話ばかり。しばらくすると、いつのまにか先生は席を外すようになって、私一人で問診をするようになっていた。


 「でね、先生。聞いてくだいよ、うちの旦那がね―――」


 「ましろのピアノの発表会、なんか私涙出てきちゃって。で、その後すぐ倒れるから、今度は別の理由で泣いちゃって――」


 「まふゆがね、旦那とキスしてるとね、すんごい冷めた目で見てくるの。ひどくない? でもでもあの子は―――」


 まあ問診って言っても、正直大半は世間話だ。彼女の日常、子ども達の日常、それを一応記録という体で残しているだけのこと。


 こんなことに何の意味があるのやら、と想わなくもないけれど、それは同時に現代医療がこの病気に対して打つ手がないということの証明でもあった。


 するべき治療がないから、健康診断と、一応の対処療法、それと問診という名の世間話くらいしかすることが無い。体温を保つ薬や漢方も律儀に呑んでくれているけれど、本当に効いているのやら。


 私は自他ともに認める適当なやつだけど、まあちょっとやるせなさを感じるのも正直なとこだ。暖簾に腕を押し続けていると言うか、雪山の中でマッチ一本で火をつけているような気分に近い。吹雪が吹くたびに、マッチの日は無情にも容赦なく消えていく。周りには雪ばかりで薪の一つすら見当たらない。


 こんなことに意味があるのかと、嫌な思考がよぎることも、ほどほどにあった。


 「難病と付き合うと言うのはね、とても長い長い戦いだ。しかも、大半は成果すら得られない、完全治療なんて夢のまた夢だ。医者としての生涯をかけて、寿命を五年伸ばせたら大偉業といってしまえるくらいにはね」


 「だから、適当なやつがいいってことですか? どうせ成果なんて得られないから?」


 職場からの帰りに、先生に連れられた居酒屋でちょっと愚痴ったら、老人は酒で顔を赤らめながらゆっくりと首を横に振った。


 「まさか、そんな消極的な理由で、優秀な人材を配置しないよ。私が君を推薦したのは、本当に適任だと想ったからだよ」


 「優秀? 私が?」


 成績はいつも中の下だったはずだけど。ただそんな私の疑念をよそに、先生は酒をちびちびとすすっていた。


 「こういった長期的な、終わりのない撤退戦のようなものに取り組む時、もっとも必要な資質は何だと想う?」


 「さあ……諦めない根気とか?」


 私には縁の遠い物のような気もするけれど。


 ただ、そんな私の答えに、先生はまた首を静かに横に振った。


 「それはね、引き際を知ることだよ。これ以上は頑張れない、これ以上は大事な物を失ってしまうと言う時に、全てをかなぐり捨てて逃げる資質だ。もちろん、そうなる前に、ほうぼうに助けを求めて、対処を考える行程も必要だけどね。君にはそれがあると想った」


 いまいち要領のえない言葉に、私は、はあと思わず唸る。


 「実験とか、投薬の話ですか? それはまあ、引き際は大事だと想いますけど、それが飛びぬけて重要な資質かっていうと……」


 いまいちそうは思えない。


 そう言おうとした矢先に。




 「





 短く、鋭く、刺すように先生はそう言った。


 「…………?」


 「……医者もね、当たり前だが一人の人間だ。泣きもするし、疲れもする、酒も飲む。一生をかけて、成果があるかすらわからない仕事に取り組むなんてのはね、普通は心が折れるものだ。それが自然な心の流れだ」


 「…………」


 「それでも世間は我々に献身を求める。高い給料を貰っているから、お前の無理で人の命が救えるのだからとね。もちろん、それは確かな事実ではあるんだが」


 「…………」


 「でもね、それでもやっぱり我々も一人の人間なんだ。人間には誰しも、自分の幸福を願う権利がある。人に尽くす仕事をしていると忘れがちだがね、自分という人間が壊れてまで、人に尽くす必要はないんだよ」


 「…………」


 「もしも、本当にいざという時、君は君自身をちゃんと大切に出来る人だ。長い長い戦いの中で、もしも本当にダメになった時、君はちゃんと自分を守れる人だ。だから、私は君にこの仕事を任せたんだよ」


 「…………なるほど」


 ようやく、先生の言わんとすることが、少しだけわかった気がする。


 これはいわば、果てもない、終わりもない、マラソンのようなもの。少しの無理が、ちょっとした無茶が、自分自身を少しずつ蝕んでいく。それをどこまで見極められるか、それをどこまで弁えられるか。そして、本当に限界の時に、ちゃんと逃げられるか、そういうことを言いたいんだろう。


 「いい意味でね、誰にだって代わりはいるんだ。誰かがダメになった時、他の誰かが代わりにその仕事を請けおえる。それはとても喜ばしいことだ、お互いが助け合って生きていく、そのためにヒトという動物は群れをつくって生きているんだから」


 私は少し酒を口の中に含んで、軽く笑いながら、頷いた。


 「なるほど、で、先生。酒の限度を知るのも、自分を大切にするのに含まれていると想うんですが……?」


 すっかり酔っぱらって、弱いくせに日本酒がばがばいくから、しっかり出来上がってしまった先生にそう告げる。もう頭は完全に机の上で横向きになっていて、私の方を見ている視点もあいまいだ。


 「……私が立てなくても、棚端くんが代わりに立ってくれるから……うぷ」


 「まあ、肩くらい貸しますが。帰りはちゃんとタクシーで帰ってくださいね」


 「うう……ごめん」


 「はは、ま、ちょっとためになるお話は聞けたんで、いいですよ」


 そんな話をしながら、酔っぱらった上司をタクシーに詰め込んだ。


 確か、12月に入って、すっかり冷え込んだ夜のことだったと想う。


 帰りに独り、ふらふらと夜道を歩きながら、ぼんやりと昔のことを考えていた。


 いつかの日、今日みたいな冬の日に、両親にもっと女らしくしろ、女の服を着ろ、女としての自覚を持て、どうしてお前はそうなんだと詰られた時のこと。


 確かあの時、私は机を蹴っ飛ばして「そんなもん私が知るかばーか!!」とか言って、家を独りで飛び出したのだった。財布どころかコートすら持たないまま。


 で、そのまま、夜の街をひた走って、結局夜明けまで走り続けていたような気がする。確か明け方に体力が尽きたところを、犬の散歩をしていた爺さんに病院まで運んでもらったんだっけ。我ながら、よく低体温症で死ななかったな。


 まあ、おかげでまじで行方不明になったと想った両親は大慌てで、警察にまで連絡したらしい。そんで警察や医者が間に入ったことで、私の身体と心の問題にちゃんと家族全員で向き合うことがようやくできるようになったんだったよね。


 なるほど、確かに私はいざって時は、どこまでも逃げる奴だ。先生の見立て通りに。


 ただ、逃げるときに、本気で何もかもかなぐり捨てるのが玉に瑕……いや、この場合は、逆にそっちの方がいいのかな。


 きっと、あの日、逃げるときコートを惜しんでいたら、両親も本気で私を探そうとはしなかったろうから。


 きっと、本気で逃げるときは、本当に全部かなぐり捨てないといけないのだ。


 家が火事で燃えてる時に、財布を取りに帰ってはいけないように。


 そんなことを考えて独りほくそ笑みながら、冬の風が流れる夜の街を歩いてた。


 






 ※



 



 難病と向き合うこと、彼女雪女たちの向き合うことは、その人生と向き合うことに等しい。


 無理も無茶も禁物だ。走り疲れて足を止めるより、長い時間をかけてゆっくりと歩くように進む方が大事だ。


 体調をつぶさに観察して、彼女たちの動向に耳を傾けて、少しでも糸口を探るために小さな実験を繰り返していく。成果が想ったように出なくても焦らない。ゆっくりと小さな芽が、顔を出すまでじっと待つように。


 そして、本当に大事な時はちゃんと逃げること。ま、幸いそういう線引きは得意な方だ、まったりやるさ。


 そして、医者として、ほんとはもっといろんな実験がしたいけど、あまり過激すぎるのは人道的に難しいのが悩みどころだ。欲を言うならもっと統計とかとれるくらいサンプルを増やしたいんだけれど……。


 そんなことをぐちったら、患者は―――まさごはおかしそうに笑ってた。


 「なんか先生、最近、話しやくすくなったよね?」


 「そう……かな? まあ、さすがに数年一緒に居るとね」


 「そっか、じゃあ、仲良くなった証に、あだ名でもつけましょっか」


 「あだ名……?」


 「ほらなんかないの? 今まで呼ばれてたやつとか」


 「あ―……、ばたさんとか、たなとか、……たかはなさんとか」


 「……おー、ばたとたなはわかるけど、『たかはな』ってどういう経緯?」


 「……昔は結構、勉強のできる令嬢だったんだよ。こー見えてね、女らしい格好してたし、高嶺の華のたかはなさんなんて呼ばれてることもあった。ま、名前が高華だしね。つっても、もうただのアラサー独身だから、今更そんなキャラでもないけど」


 そうやって、軽く肩をすくめたら、まさごはおかしそうに笑ってた。


 「ふーん、よし、決めた。たかはな先生で」


 「……聞いてた? 今の話」


 「えーいいじゃん、凛と咲いて、我が道を行く孤高の、高嶺の華、先生にぴったりだよ」


 そう言ったまさごは随分とご機嫌そうで、ま、患者がご機嫌なら医者として文句はないけどね。しかし、たかはな呼ばれるの一体いつ振りだったっけ。ふつーに、10年以上たってるな。


 当時は、正直、距離感のある気分のいいあだ名ではなかったけれど。今となっては、随分と距離感の近い高嶺の華だ。ま、それくらいの方が親しみやすくていいのかな。


 「…………いや……まあ、いいか。好きに呼んで」


 「へへ、娘や旦那にも教えちゃおー、これからはたかはな先生だよーって」


 「はいはい、あ、そうだ、まさご。今度は旦那も連れて来てほしいかな、色々検査したいし、話しておきたいこともあるから」


 「はい、りょーかいしました、たかはな先生」


 「なんで、そんなに気に入ってるのやら……まあ、いいけど」


 けらけらと楽しそうに笑う、まさごを見ながら、やれやれとため息をつく。どうしてか、私自身、ほくそ笑んでいることだけは自覚しながら。




 人生は長い旅路だ。そして何の因果か私の人生は、この雪女達の家族と並んで歩くことになった。


 この時はまだ私が担当について二・三年。


 ゆうじの癌がわかって、家族が離れ離れになったのが五年ごろ。


 その翌年に、ましろがパートナーを作らないことを決めて。


 まさごが入院生活をするようになったのが、大体十年も経った頃。


 それから随分と長い時間が経って。




 診察室のデスクで、私はぼーっと手にした折り紙を眺めてた。


 花の形におったそれは、私の20年近い時間の中で、ようやく見つけた小さな成果。


 長い長い吹雪の向こうに、ようやく見つけた小さな灯。


 きっかけはましろとこのかの出会いと、それにまつわる色々と。


 ゆっくりと息を吐く、20年の時間で溜まった、心の澱を吐き出すように。


 先生の言葉にならうなら、きっとこれは大偉業なんだろう、まあ見つけたの私じゃないけど。


 ただ、もちろん、まだ終わらない。


 解決するべきことは山ほどある。


 折り紙の安定的な供給。どの程度の形まで許容されるか。どれくらい体温がもつか。本当に彼女たちの寿命に影響するのか。それらのめどが立ったら……ゆうじにも連絡しないと。


 考えるべきことは山のようにあるけれど。


 今は少しだけ休んでもいいだろう。


 何せ20年も頑張り続けてきたのだから、これからまだまだ長い旅路だ、無理は禁物なのだから。


 希望は見えた、光明も。


 あとはそれを頼りに、また少しずつ長い時間をかけて前に進んでいくだけだから。


 その過程で、自分の幸せも忘れぬように。


 だから今は少しだけ、気を抜こう。ゆっくりしよう。


 そう想って眼を閉じた。


 微睡むような眠気の中、何かをこめた折り紙を握ったまま。


 意識の狭間に誰かの声を聴きながら。






 「こんにちはー……って、あれ、たかはな先生寝てる?」


 「珍しいですね、どうします、ましろさん?」


 「んー、疲れてるのかな、ちょっとだけ寝かしてあげよっか」


 「そーですね、ニヤニヤ寝顔見ながら待っときましょ」


 「ふふ、そーだね、起きたらびっくりするかなー」








 夢の中、吹雪の向こうで、「たかはな先生」と、私を呼ぶ誰かの声がした。

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