雪女の私とそばにいたあなたたち

キノハタ

お父さん

 小さい頃出会ったまさごさんと、僕は結婚した。


 彼女が雪女であることは幼いころからの付き合いで知っていたし、それにまつわる覚悟もしてた。


 もちろん、命の半分、その重さを知らなかったわけじゃない。


 それでも、他の誰でもない、大切な彼女が生きることができるなら。


 彼女と、彼女との間に生まれた娘たちが、幸せになれるならそれでいいと想ってた。


 想っていたのに。


 ズレを感じたの何時からだろう。


 ましろとまふゆが産まれてからだろうか。


 二人のお迎えに仕事で行けなくて、そのことで口論した日だったろうか。


 どうしてか段々と喧嘩が増えて、うまく体温の受け渡しができなくなったころだろうか。


 それとも。


 なんて思考を最近ずっと繰り返していた。


 後になって考えればそれが一つの前兆だったのだと、そう想う。


 「ゆうじ―――」


 「あ、たかはな先生。最近、すいません、どうも調子が悪くて、それで呼び出しってなんですか? この前も検査とかしましたけど―――」







 「







 どうやら。


 雪女たる彼女の命より、僕の命の方が長くなかったらしい。


 彼女の寿命を心配していたら、僕の方が先に寿命が来た。


 皮肉にしては少し笑えない。




 ※



 当然の話ではあるけれど、雪女と添い遂げると言うことは寿命の半分を差し出すのに等しいことだ。


 覚悟だってした、愛にだって自信はあった、想いは何度も何度も飽きるほど伝えてきた。


 君がいない残り60年より、君がいる30年の方がいい。


 結婚指輪を渡すときに告げた言葉は決して嘘ではなかったはずだ。


 だけど、実際は―――。


 「癌の進行と、身体の衰弱が掛け算になって、お前の身体はかなり危ない。前例がないから何とも言えんが、仮に一年後に容態が急変してぽっくり逝っても、私は『そうだろうな』としか言えん。それくらいには今の状況はぎりぎりだ。前の検査から急激に悪くなってきてる」


 一年――――。


 「言いたくはないが、ゆうじ。ここがお前の命の瀬戸際だ―――。今、まさごから離れれば、癌は初期症状で抑えられる。今後も治療は続くだろうが、運が良ければそのまま数十年生きられる。ただ、このまま、まさごに命を渡し続ければ―――」


 ここが、僕の――――。



 「十中八九、二・三年の内に―――お前は死ぬ」



 命の。



 「…………どうする?」



 そう言ってくれたたかはな先生の声が、遠く向こうで響いてるみたいで、うまく答えは言えなかった。


 







 ※


 君がいない60年より、君がいる30年の方がきっといい。


 その想いはきっと今だって変わらない。そこに嘘はないはずだ。


 でも、僕の命はもう本当に終わりかけだったらしい。


 そう言われれば、なるほど。最近どうもおかしかった。


 君にキスしても、君の体温がさっぱり上がらない。


 だから君は僕の想いを疑う。そりゃそうだ、雪女の体温が上がるかどうかは、パートナーの愛情の多寡できまる。君が僕の愛を疑うのはあんまりに、当たり前で。浮気だの、愛想が尽きただの、そんな喧嘩を繰り返してばかりだった。


 そんなやり取りに嫌気がさして、僕自身、自分の中に愛がなくなってしまったのかな、なんて考える日も随分と増えたけど。


 でも実際の所、蓋を開けてみたら、尽きかけていたのは僕の愛じゃなくて、命の方だった。


 なんだよ、それ。


 おかしいだろ、こんなの。


 だって、まだ、しなきゃいけないことがたくさんあるんだ。


 まさごと今度、喧嘩の仲直りにちょっと高いディナーを予約したんだ。この前行きたいって言ってた鉄板焼きのお店でさ。高いビルの上の景色のいい場所でさ。


 それから、ましろのコンクールが今度あるんだ。最近、どんどんピアノが上手くなって、賞だってとれるかもって、先生だって褒めてくれてたんだ。当日用のドレスまで買いにいって、ステージに上がった姿を想像したら、それだけで泣きそうになった。


 まふゆの誕生日も近いんだ。あの子は察しがいいし頭もいいけど、なにかと独りで抱え込みがちな子だから、今度二人でキャンプでも行こうって話をしてたんだ。誰もいない山の中なら、まふゆだって心を開いてくれるかもしれない。思春期も近い女の子にそれは難しいかもしれないけど、焚火でも囲んで話してたらもしかたらなんて。



 今度。



 今度、ましろとまふゆに、雪女がどういう生き方をしてるのか。



 ちゃんと伝えなきゃねって話をしてたんだ。



 辛い運命だけれど、大丈夫って、きっとお父さんとお母さんみたいに素敵な出会いがきっとあるからって。



 僕達はあと10年しか隣に入れないけれど。



 辛いことも苦しいこともあるけれど、それでも、きっと、きっと。



 お前たちは、幸せになれるんだって。



 そうやって伝えよう言ったら、まさごさんはちょっと夢詰め込み過ぎだって呆れてて。



 じゃあ、どうする、ああいうか、こういうか。色々悩んで、ようやくするべき話をまとめて。 



 そんな大事な話を――――しなきゃいけなかったのに。



 どうして―――。


 





 ※






 自分の命か。


 愛する人の命か。


 そんなこと言われなくても解ってる。


 そうだろう、決まりきってる。


 考えるまでもない。


 答えなんてとっくに出てる。


 萎みそうになりそうな喉を必死に振るわせて。


 僕は―――。



 「



 「え―――?」



 病院から帰って、病状を告げた僕に、君は―――まさごさんは一言、そう冷たく言い放った。


 頭の整理が追いつかない。感情が行き場を失って、どんな表情をすればいいかすら分からない。


 だからただ茫然と、だからただ漠然と、震えかけた表情で。




 ――――――。




 彼女に無言で平手を打たれるのを、ただ黙って受け入れることしか出来なかった。


 昔からそうだ。僕はいつも考えるのに時間がかかりすぎて、答えを出すのが酷く遅い。


 その癖、融通も利かないから、いつも強情だ、馬鹿だと、貶さればかりだった。


 それを君が。


 『強情? 一途だってことでしょ、素敵じゃない?』


 君だけが。


 『君の想いね、すっごい伝わる。まっすぐで、一度決めたらそう変わらないだろうなって言うことも。だって、私、そういう生き物雪女だから』


 なんにもない僕に価値をくれていたのに。


 『いいの? 命の半分だよ? ほんとにいいの? ―――ごめんね、でも嬉しい』


 その想いだけは裏切らないはずだったのに。




 「出て行きなさい!! 今!! すぐに!! 出て行って!! この家から! もう!!! 早く!!! 二度と私たちの前に顔を出さないで!!」




 わからない。



 どうしてだろう。



 どうして彼女はこんなことを。



 どうしてこんなに怒っているのだろう。



 僕がいけなかったのかな。



 癌になんてなってしまったから、彼女への愛が足りなかったから。それか彼女にちゃんと愛される存在になれなかったから。



 それとも自分の愛を疑ってしまったから―――?。



 わからない。



 わからないんだ。



 何も言えず、何も答えられず、ただ彼女の剣幕に押されるまま部屋を出て。



 そこに立っていたましろとまふゆを見て。



 そこに立っていた、漠然とどこか絶望に染まった彼女雪女たちに、どう言葉を掛ければいいのかすら分からなくて。



 ほんとは、言わなくちゃいけないことがたくさんあったはずなのに。



 お前たちはちゃんと幸せになるんだよって、僕達みたいにって。



 これから苦しいと想うけど、ちゃんと幸せに。



 お父さんの命はもう長くはないけれど――って。

 


 そう言わなきゃいけないはずだったのに。



 泣くように、縋るように、膝を落として漏れた言葉は。



 ただ、この理不尽と不幸の中を、溺れながら喘ぐような言葉だけで。



 「どうして――――っ。……君たちが雪女なんかじゃなければ」



 もし、そうだったなら。



 僕は君たちとずっと一緒に居られたのだろうか。



 初めて見る愛する人の怒るような憎むような姿の前で。



 絶望に染まってしまった娘たちの姿の前で。



 僕もそれ以上何もできないまま。



 逃げるようにその場を去ることしか出来なかった。
















 ※


 

 そのまま数日時間が経って。


 落ち着いた頃に僕はようやくなんとなくの答えに思い至った。


 そうか、まさごさんはああやって怒ることで。


 無理矢理、僕をあの家族から引き離したんだ。


 僕の命を守るために。


 都合のいい解釈かもしれないけれど。


 僕の知るまさごさんは、そういう人だ。どこまでも誰かのために優しい人だ。


 それをたかはな先生に告げたら、ゆっくりと首を横に振られた。


 「『命の残量がないパートナーに用はない、愛想が尽きた。次のパートナーを探すから、あれは要らない』」


 「………………」


 「って、阿保ほど泣きながら言われたよ」


 「……………………やっぱり」


 昔から、一つ決めると強情な人だった。僕と同じくらいには。


 僕と一緒になることを義父母に反対された時には、大喧嘩して、なんでか僕が仲裁をやることになったっけ。あれからちっとも性格が変わってない。


 おかげで娘二人も大分強情に育ってしまったけれど。


 だから、あれは彼女なりの優しさだったんだろう。僕が自分の命より彼女たちを優先しないように。僕がこれ以上、命をすり減らさないで済むように。


 「なんにしても、方針は決まったね。君の治療は別の施設で行うことになる。山の中の病院だがいいとこだよ、夏には蛍が飛んだりする」


 「………………」


 「ご丁寧に、生活用品一式は向こうが送ってきたから、君は手ぶらで行けばいい。財産分与もまさごのやつしっかりとやってたみたいでね、一緒に詰めとくから後で確認してくれ。……ってまあ、うちは弁護士じゃないから、本来こういうことはしてないんだが」



 「………………たかはな先生、やっぱり僕は―――」


 それでもやっぱり、最後のお別れと説明はするべきじゃないのかな。


 ましろとまふゆにもきっと酷いことをしてしまった、約束だって破ってる。あの子たちに謝らなくちゃ。きっと辛い想いをしてる。


 そして、もし叶うなら、もう一度―――。


 「…………悪いな。お前が、『やっぱり』なんて言い出したら絶対に聞き入れない、とまさごと約束してしまったんだ」


 「…………」


 少し呆気に取られた。


 どうして、そこまで―――って。


 「『あの人強情だから、一回、『やっぱり』を許したらきっとどこまでもずるずる引っ付いてくるから』」


 「…………う」


 「『その後、どうせなんやかんやで家にもっかい居ついて、死ぬまで私のそばを離れようとしないから。絶対一歩たりとも譲歩しないでください。もうお別れだって』」


 「………………ぐ」


 「『もう、私は充分あの人から、命以上のたくさんのものを貰ってしまったから』」


 「…………」


 「『だから、私のことなんて、早く忘れてもう一度ちゃんとした人と幸せになってって。娘たちは私が絶対に幸せにするからって……そうたかはな先生が言ったことにして伝えてください』」


 …………あれ。


 「…………それ、そのまま伝えて大丈夫な奴なんですか? たかはな先生」


 僕の言葉に、先生は軽く肩をすくめて、ポケットからキャンディを出して、口に詰め込んだ。


 「さあ? 私は言われたことをそのまま録音テープよろしく流してるだけだ。内容の如何までは責任なんぞ持ってない」


 吐いた息に少し熱が灯って、どうしてか弱く震えていた。こみあげてくる感情に上手く名前も付けられなくて、どうすればいいのかわからない。いつもの僕だ。


 小さい頃からそうやって、感情の置き場が解らなくて、泣くことが多かった。


 そんな僕の隣で、なんてことはない顔で、一緒に居てくれたのが彼女だった。


 そうやって、少し感情の処理の追いついてない僕に向けて、たかはな先生はポニーテールを軽く揺らしながら、ゆっくりと首を横に振った。


 「もしできるなら許してやってくれ。幼馴染で数十年以上一緒に居た奴の縁を切らなきゃいけなかったんだ。だらだらとやっていたら、あいつの方が迷って離れられなくなる。突然裏切ったように見えたかもしれんが、それでもまさごが君の幸せを願ってやったのは本心だよ」


 「………………はい。でも、これから彼女は、娘たちは…………」


 どう生きていくんだろう。僕から命を受け取らなければ、じきに彼女自身もそう長くはない。そして娘たちもいずれ雪女としての身体のことと向き合っていかなくちゃいけない。


 それなのに、僕は、僕は自分の命のことしか面倒もみれない、隣にも入れない、無力なままだ。


 「……いつも言っていただろう? いつだって逃げ出していいと。そこから先は、彼女たちの人生で私達の仕事だとね。想うなというもの難しいかもしれないが、君は今は、自分の人生のことだけを考えていなさい」


 「………………でも何かまだ僕にも出来ることが」


 少しでもいい。元気な時だけでもいい。


 彼女に命を分け与えたり、金でも人手でも、少しでも、何か力になれれば。


 そう想って縋るように先生をみたけれど、ゆっくりと首を横に振られた。


 「…………ゆうじ、個人的な教訓の一つだが、逃げるときにもコツがあるんだ」


 「は? …………コツ?」


 首を傾げた僕に、たかはな先生は少し天井を仰いで、ちろちろとキャンディをゆっくり揺らした。


 「火事があった時に、例えば家の中に財布を忘れてきたとしよう。で、それを取りに帰ろうと燃えた家の中に戻ったりすれば、当然火に巻かれて死んでしまうわけだよな?」


 「ま…………まあ、そうですね」


 「ここから得られる教訓は、ちゃんと逃げるときは何も惜しむな、ってことだ。半端に惜しめば身を亡ぼす。だから逃げなきゃいけない時は、全部捨てて、本当に何も躊躇わずに逃げなさい。その先のことは逃げた後で考えればいい」


 「………………」


 「厳しいことを言うが、君が半端に戻ることで。彼女たちは君が家に戻るかもしれないという叶わない幻想を抱き続けることになる。それで君の病状が本格的に悪くなり命を落とせば、今度取り返しのつかない疵を心に負うのは誰だ? そして何より君自身の幸せは、もう手に入らない。死んでしまうんだからね、当たり前だ」


 「…………………………」


 たかはな先生の言っていることは、何も間違えてなどいない。


 わかってる、そんなことは。僕がこれ以上、あの家族にできることが無いことは。もうそれをするにはこの身体は、あまりにも命が潰えてしまっているということは。


 ……わかってはいるけど。


 手紙の一つでもとごねてみたけど、何も受け取れないと首を横に振られた。それがまた未練になるからと。


 「納得がいかないと言うのなら、一つだけ約束をしよう」


 「……約束ですか?」


 僕の言葉にたかはな先生は天井を仰いでいた顔をこっちにもどすと、ゆっくりといつもの淡々とした調子で頷いた。


 「まさごと色々約束したんだ、ゆうじとだけ約束しないのも卑怯だろう? ただし、この約束が叶えられるまで、君は自分の治療に尽力するのが条件だ。そしてその間、家族への未練は忘れること、いいかい?」


 「………………はい」


 そう言ったたかはな先生の顔はとても、静かな表情で。


 この先生が今までなんやかんや言いながら、よくしてくれているのはずっとしっていたから。


 僕はじっと頷いた。


 もちろん。


 全てを納得できたわけじゃない。


 本当にこれでいいのかもわからない。


 ただ今の僕にそれをどうにかすることはできないのは、わかった、気がする。


 ただ、それでも、希望があるのなら。


 それに縋ってまだ生きていけるなら。


 それがいいと、そう想った。


 何せ、僕は自他ともに認める、強情ものなのだから。


 今はただここから逃げて。


 そうして逃げた先でいつか。


 もう一度、なんて。


 淡い願いを抱いてた。










 ※




 「もし、雪女の寿命の問題が解決したら―――」


 「ここでいう解決は、命を受け渡す側のリスクが今の半分以下になった時。あるいは他者から分散して命を回収する手立てを見つけられた時」


 「その時は、君をもう一度、あの家族と出会わせると約束しよう」


 「残念ながらいつになるかはわからん。全力は尽くすがね、十年後か二十年後か、まさごの寿命に間に合わないことも、当然考えられる」


 「それでいいな? ああ、約束だ、絶対だ」


 「そして当たり前だが、それまで君が生きてないと話にならんからな? 精々治療を頑張れよ」


 「それとね―――、ずっと何かしなきゃと罪悪感に当てられてるみたいだから言っておくけど」


 「ゆうじ、君はもう20年も頑張ったんだよ」


 「20年の時間を費やして、寿命も20年彼女に渡した。累計で見れば40年か? もう十分すぎるほどに君は頑張ったんだ」


 「だから、残りの人生くらいちゃんと君のために使いなさい」


 「強情なのは結構だがね、君はいささか献身的すぎる。雪女のパートナーとしては理想的だが、それじゃあいつか壊れてしまう。それは彼女たちも望んでない」


 「だから、君はこれから治療を経て、もう一度ちゃんと自分のために人生を使いなさい」


 「もう誰かのための人生は充分に頑張ったんだから」


 「残りの人生、どれくらいあるかは、君の頑張り次第だが。どうすれば自分のためになるか、もう一度よく考えなさい」


 「だってな、ゆうじ、君、最近、笑いがぎこちなくなってたぞ?」


 「辛いこと、痛いこと、苦しいこと、失ったこと、誰かに伝えられてたかい? 本当に弱音は吐けていたかい? 命を捧げるというのは、そんなに軽いものじゃないはずだ。見えないしこりが必ずどこかに溜まってる」


 「まさごのため、娘のため、家族のため、あれをしなきゃ、これをしなきゃ。最近の君の口から出ていた言葉はそればかりだったよ? 君自身が何かをしたいなんて言葉を私はここ数年聞いていない」


 「こうして病に当てられたのは、まぎれもない不幸だけれど、もしかすると良い機会なのかもしれない」


 「幸いなことに時間はたっぷりとあるだろう、ゆっくりと考えなさい」


 「君のための人生を、どうすれば生きられるのか。どうすれば君自身が幸せになれるのか」


 「彼女たちの幸せには、君の幸せも当たり前だが含まれているのだから」



「よく考えなさい、もう一度、ちゃんとね」















 ※


 正直に言うと僕はあまり頭の出来が良くないから、たかはな先生の言葉をちゃんと理解するのに大分時間を要してしまった。


 病院を移って、何度か手術をしたり、入院生活を過ごす中でぼんやりと言われた言葉をゆっくりゆっくり時間をかけて考えていた。


 僕は、今までずっと、家族のためにこの人生を使ってきた。


 子どものころ出会ったまさごの運命を知ってから、彼女が泣かないで済むようにずっとずっと。


 それが間違ってたとも想わない、彼女の笑顔を見ると胸がふっと暖かくなったし、それは娘たちも同様だった。彼女たちには絶対に幸せになって欲しい。


 自分の幸せは家族の幸せ。もちろん、それはまぎれもない事実のはずだったけれど。


 たかはな先生に問われて、初めて、自分の後ろ暗いところに、ふっと意識が向いた気がした。


 始めから存在していた、その暗がりに、些細なズレに人生も折り返しをすぎてようやく気が付いたような。


 だって、よくよく考えれば。


 時々、「どうして」と想うことがあった。


 どうして、こんなに尽くしているのに彼女たちはあれをしてくれないんだろう。


 どうして、こんなに僕だけが頑張っているんだろう。


 どうして、どうして、こんなに大事な物を、僕の命を渡しているのに彼女は、僕を疑って、なんで―――――。


 ……なんだろう。とはいっても、具体的に何かして欲しかったのか、ただ漠然とした期待と贖罪を望んでいたかはよくわからない。曖昧な暗い感情は降り積もった澱のように溜まっているだけだ。


 そして、僕はそういった曖昧な暗い感情から、自分の大事な自分自身が失われていく感覚から、ずっと目を背け続けていたみたいだった。


 辛いとは言えなかったことがあった。


 苦しいとは伝えれないことがあった。


 虚しいと口を動かせないことがあって。


 嫌いだと君に対して想ってしまうことが、僕は何より辛かった。


 そうやって、自分の感情を一つ一つ確かめながら、病院のベッドで独り、ふうと軽く息を吐く。


 僕が、心がよくわからない。今も昔も。


 それでも、あんなことがあった今でも、まさごさんのことが好きなことは変わらない。


 でも当たり前ではあるんだけれど、僕達はもうすっかり大人になっていて、16歳の少年少女と同じような単純な好き同士でもいられない。


 意見のすり合わせで困ることがあって、身体の変化ですれ違うことがあって、お金や実際の役割なんかで上手くいかないことも山ほどあって。


 心は同じじゃいられない。


 永遠の想いなんてどこにもない。


 尽きない愛も今じゃ命と一緒に在庫切れだ。


 綺麗なガラス玉みたいだった、好きという想いは、山道のような人生を転がって、あぜ道のような日常を転がって、アスファルトのような生活を転がって、きっと今では原型が保っているかも怪しいようなものになっている。


 でも、それでも不思議なことに。


 好きだと言う気持ちに、未だに偽りはないと、そう想う。


 汚れて、欠けて、削れて、なにかくっついて。


 心がどうなるかはわからない。一年前の僕に、今の僕の心は想像できないように。


 ただ、それでも、まだ彼女のことを好きと言えるんだ、不思議なことに。


 それから、ふと考える。


 もし僕の病気が治って、もし雪女の寿命が解決した時。


 僕はまだ、彼女たちを好きでいられるだろうか。


 わからない。


 もし16歳の頃の僕にこんなことを相談しても、そもそも、ちっとも信じくれなさそうだ。自分の告白が成功することすら、想像できないに違いない。


 だから、きっと何年も後の僕の心も、今の僕にはさっぱりわかりはしないんだろう。


 でも、それでもいいらしい。


 わからないままに進みなさいと、逃げるならちゃんと逃げ切りなさいと。


 そうして自分の人生をもう一度考えなさいと、そう言われたから。


 答えは、まだうまくはでない。


 そもそも今の病気がちゃんと治るかさえわからない。


 わからないまま、今日、僕は息をする。


 いつか彼女たちにもう一度出会えることができたなら。


 そんなことを考えながら。
















 たかはな先生から手紙が届いたのは、それから14年も先のことだった。


 

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