第10話 恐怖を乗り越える - 話せる自分を少しずつ取り戻す

Aさんが「話すこと」への恐怖を少しずつ乗り越えていった姿は、私にとって大きな学びでした。それは決して一夜にして成し遂げられるものではなく、ほんの小さな一歩を積み重ねる地道な過程でした。彼女の努力と心の変化には、多くの葛藤がありましたが、それがまた彼女の強さを教えてくれたのです。


最初の勇気ある挑戦


中学2年生のある日、彼女は放課後の教室で、自分の名前を声に出して言う練習を始めました。教室には誰もいません。誰にも聞かれない安心感の中で、自分の声を取り戻す努力をしていました。


「最初は、自分の声が自分じゃないみたいに感じた」と彼女は言います。それでも、「こんにちは」「ありがとう」といった簡単な言葉を繰り返すことで、少しずつその恐怖を和らげていきました。


恐怖の正体に向き合う


彼女が恐れていたのは、話したときにどう見られるか、どう評価されるかという他者の視線でした。「間違ったことを言って笑われるのが怖い」「何を言っても無視されるかもしれない」という恐れが、彼女を話せなくさせていたのです。


専門家の助けを借りて、彼女はその恐怖の正体を一つずつ分解して考えることを始めました。例えば、「笑われることが本当に怖いのか?」と自分に問いかけ、その状況が現実的にどれくらい起こり得るのかを冷静に分析しました。この作業は簡単ではありませんでしたが、彼女にとって大きな一歩でした。


小さな成功が自信になる


ある日、家庭科の授業中、隣の席の子が「この糸、どうするんだっけ?」と尋ねたとき、彼女は勇気を振り絞って「こうするんだよ」と小さな声で答えました。それは教室のざわめきの中では聞こえないほどの声でしたが、隣の子は気づき、「ありがとう」と笑顔で返してくれました。


その瞬間、彼女は「話してもいいんだ」と感じたそうです。その小さな成功が、次の一歩への自信となりました。自分の声が誰かに届くという体験が、彼女にとっては大きな変化をもたらしたのです。


失敗を受け入れるという挑戦


もちろん、すべてが順調に進んだわけではありません。話そうとして声が出なかったり、思い切って話したのに無視されることもありました。彼女はそのたびに自信を失いかけましたが、同時に「失敗してもいい」という考え方を少しずつ身につけていきました。


「失敗しても、それで終わりじゃないって気づいたとき、少し楽になった」と彼女は言います。話せなかった日があっても、次の日にもう一度挑戦すればいい。そんなふうに、自分を許すことを覚えたのです。


自分を取り戻していく過程


話せない恐怖を少しずつ手放していくことで、彼女は自分の可能性を広げていきました。「話せるようになる」というゴールに向かうのではなく、「話してもいい自分」になることが、彼女の本当の目標だったのかもしれません。


恐怖を超えた先に


Aさんの姿を見ていると、「恐怖を乗り越える」というのは、決して恐怖を消し去ることではなく、それを抱えたまま一歩踏み出すことだと感じます。彼女の一歩一歩が教えてくれるのは、どんなに小さな成功でも、それが未来への大きな力になるということです。


次回は、場面緘黙症の経験を通して、Aさんが気づいた「話すこと以外の大切なもの」についてお話しします。

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