第4話 揶揄の代償 - 花摘み者と呼ばれた私たち
学生時代、私は「花摘み者」と揶揄される存在でした。誰も近づきたがらない、いわば教室の片隅にひっそりといるだけの存在。いつの間にか、そのあだ名が私に向けられるようになり、クラスの中での立場は自然と決まっていました。「ここにいてはいけない」と感じさせられる場所、それが私の学生時代の教室でした。
そんな中、友人と呼べる存在がひとりだけいました。それがAさんです。彼女は場面緘黙症のために言葉を失い、私はいじめのために心を閉ざしていました。ふたりとも、自分たちの痛みを言葉にすることはできず、周囲から「変わった子」として扱われる日々を送っていました。
花摘み者としての私の日常
「花摘み者」とは、控えめで、どこにも属さない者への皮肉のような呼び名です。何をしても誰にも気づかれない、話しかけられたかと思えば冷ややかな目で見られる。そんな扱いを受け続けるうちに、私は教室の隅に逃げ込むようになりました。席に座っているだけで「そこにいるの?」と茶化される。自分の存在が透明になるような感覚でした。
そのとき私は、Aさんの隣に座ることを選びました。彼女もまた、誰にも話しかけられず、一人で俯いていました。何も話さなくても、彼女の隣にいると、不思議と心が少しだけ楽になったのを覚えています。
友人という存在の意味
私とAさんは、会話をほとんど交わさなくても、互いの痛みを感じ取ることができました。彼女のフリーズした姿を見ても、それがどれだけ苦しいものかが、私には直感的に伝わってきました。彼女が誰にも話しかけられず、笑われるたびに、まるで自分の心がえぐられるような気がしました。
Aさんにとって、教室は安全な場所ではありませんでした。私にとってもそうです。でも、ふたりで一緒にいることで、少しだけその教室が居心地の悪くない場所になったような気がします。友人と呼べる存在が彼女だけだったからこそ、私は彼女の痛みに共感するだけでなく、それを自分のもののように感じることができました。
無視と揶揄が奪うもの
クラスメートの中には、私たちを遠巻きに見て「どうせまた花摘み者同士で何かやってるんだろ」と笑う人もいました。声を上げる勇気もなく、それに耐えるしかなかった私たちは、ますます教室の隅に追いやられていきました。
彼女は話せない自分に対して「どうしてできないんだろう」と自問自答を繰り返し、私は「何もできない自分」を責め続けていました。揶揄や無視は、私たちから自信だけでなく、生きるエネルギーさえも奪っていったように思います。
Aさんとの関係を振り返るたびに、私は彼女に救われていたことを感じます。私たちは共に痛みを抱え、共に耐え、そして共に少しずつ前を向こうとしていました。花摘み者として扱われることのつらさ、それをわかってくれるのは彼女だけでした。そして、彼女もまた、私の痛みを理解してくれていたのだと思います。
次回は、Aさんが教室で受けた揶揄がどれだけ深い影響を与えたのか、彼女の言葉を借りながら掘り下げていきたいと思います。
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