第18話 蛾と蝶と
「ひぁああああぁあああああ‼」
男の絶叫とともに、大きな背中が反り返る。
アッキちゃんが思わず後ろにはね跳んで逃げる。
スタッフは男にしがみついたまま、「お客さん! お客さんどうしました!」と叫びながら声をかけている。
あたしの足は無意識に駆け出す。
アッキちゃんのところへ。
男のよこを通るときに、くにゃくにゃとしたおかしな動きで悶えるのが見えた。
グレーのTシャツの背中にひろがった汗ジミが、アメーバーみたいに形を変えている。
踊る男の背中で、同じように踊るアメーバー。
なんらかの緊急事態が起こっているというのに、あたしはのんきにそんな感想を持った。
くにゃくにゃした男の動きに既視感があったから、驚きが少なかったのかもしれない。
「お客さん! お客さん⁉」
「かゆい! 痛い! 熱い!」
「どうしました? 救急車! 救急車呼んで!」
「なんだよこれ、クソ!」
呆気にとられているアッキちゃんのところにたどり着いたあたしは、喧騒からアッキちゃんを庇うように前に立った。
「アッキちゃん大丈夫? なんかされてない?」
「だ、大丈夫。だけど、これ何? 何が起きてるの?」
「分からないけど、アッキちゃんに何もないなら良かった」
背中越しに会話していると、「あれじゃない?」「ヤバいヤバい! 壁にいるじゃん!」というざわめきが耳に入ってくる。
他のメンバーやファンの間にも、不安が広がっていっているみたいだった。
そうっと足を滑らせるようにして、会場から去っていく人がいる。
一方で、スマホを取り出して撮影をはじめる人もいる。スマホが向けられているのは、なんの変哲もない壁だ。
「みんな、何のことを言ってるんだろうね」
言いながら、後ろを振り向いてアッキちゃんを見ると、彼女の視線も壁に向けられていた。
「あれ……あの蛾が、さっきのひとの顔にはりついたの……」
震える指先でアッキちゃんが指す先に目をやって、ようく見てみると、壁にはりつく一匹の大きな蛾がいた。
紫色の蛾は、毒々しい姿をさらして、作り物みたいに動かずにいる。
誰かが救急車を呼んだらしく、重い防音扉を開けて救急隊員たちが会場に駆け込んでくる。
毛虫皮膚炎の疑い、結膜にも炎症、重度、……なんて隊員たちの声が漏れ聞こえてくる。
暴れ続ける男は無理にタンカに乗せられて、動きをベルトで固定される。
救急隊員たちは、そうして嵐のように去っていった。
なにが起こっているのか、いまだにあたしには分からない。
とりあえずアッキちゃんが変なファンに襲われなくてよかったし、あいつは自業自得だっていう気持ちがあった。
その間も、アッキちゃんに蛾が向かってきたらすぐにかばえるように、あたしの目は蛾をロックオンしている。
作り物のように動かなかった蛾が、唐突にふさふさとした触覚を動かした。
「ヤダ! 飛ぶんじゃない?」
蛾を撮影していたファンの一人が、声を上げて飛びすさる。
「飛んだらヤバいじゃん、どうすんの!」
「こわいこわいこわい! 無理だって!」
「うわ、あぶね! 走るな!」
「ちょっと落ち着いて! 虫を刺激しないで!」
そう口々に言い残し、会場内にいた人たちが、出口に殺到していく。
「アッキちゃん、あたしたちも逃げよう」
「でも、あの蛾は誰が連れてきたの? なにかおかしなことが起こってるよ。私を狙ったのかもしれない……あの蛾を退治しないと、外に飛んでいっちゃったら大変だよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないし、そうだとしてもアッキちゃんが無事に逃げられたらなんでもいいの! 自分ファーストして!」
「いちご大福ちゃんの言うとおりだよ?」
急に割り込んできた声は、舞火のものだ。
あたしたちが蛾に気をとられている間に、隣に寄ってきたらしい。
会場の混乱のなかで、舞火だけは不思議と冷静だった。
「あんた、何でそんな余裕なの? なんかたくらんでる? あんたが放ったんじゃないでしょうね、あの蛾」
そう言ってあたしが睨みつけると、舞火はあたしの腕を指さした。
「浮かんでるね、アザ。誰かにつかまれたの?」
「急になに言って……。これ、いつの間に?」
あたしの腕に、いつの間にか指のあとみたいなアザが浮かんでいた。
朝に見たものと、一緒だ。
こんな風にあたしの腕をつかんだのは、……舞火だ。
「舞火! あんた本当になんかたくらんでるでしょ。毒蛾でアッキちゃんを狙ったのもあんた?」
「私では無いよ。私では、ね」
その一言で、あたしの怒りは瞬時に沸点にまで到達した。
自分ではない、ってことは、他の誰かである、ってことを知っているという告白だ。
「ふざけんな。お前が……お前がアッキちゃんの代わりに消えろ!」
思わずそう叫んだときだ。
毒蛾がぶ厚い羽根を動かして、もったりと重そうに飛び立った。
そして、飛び立つときの鈍重なうごきから想像がつかないくらいに、素早く飛んでこちらに向かってくる。
「アッキちゃん! 危ない!」
「もえ!」
アッキちゃんをしゃがませて、その上に被さるようにして守る姿勢をとる。
だけど、紫色をした毒蛾は、あたし達からをそれて舞火の頭上を目指していく。
舞火は慌てる様子もなく、にやにやと笑って毒蛾の迫るのを眺めていた。
そのときだ。
舞火を守るように、赤い蝶が――蝶たちが現れた。舞火の背後……真っ赤なツインテールの辺りから、無数の蝶が飛び立ったのだ。
信じられない光景だった。
赤い蝶たちは毒蛾を取り囲むようにして、素早く飛び交う。動き回るから数えられないけど、十匹くらいはいるのかもしれない。
大きさは蛾の方が大きいのだけれど、数の力は偉大だ。蛾はあっという間に蝶に囲まれて、力尽きて床に落ちた。
「痛ッ!」
腕に焼けるような痛みが走る。
見ると、指のあとのようなアザのまわりが、真っ赤に腫れて熱をもっている。
「なに、が、起きてるの? 舞火……もえ……、これ、なに?」
覆い被さったあたしの体と腕の隙間から蝶と蛾の戦いを見ていたアッキちゃんが、そう呟いた。
声が震えている。あたしの制服のシャツをつかむ指も、震えている。
なにが起きているのかなんて、あたしにも分からない。それなのに、アッキちゃんはあたしが知っているんじゃないかみたいな言い方をした。舞火とならべて名前を呼んだんだから。
とりあえず今言えるのは、アッキちゃんが先に舞火の名前を呼んだのが、気に食わないってことくらい。
「あたしにもよく分からないよ。どこかの薄情な元カノさんは知ってるかもしれないけど」
立ち上がってそう答えるあたしの声は、冷たい響きを持ってしまった。
アッキちゃんに当たりたいわけじゃないのに……。
「さあ? 私も今日はこんなことになるとは思わなかったから、なかなか面白かったよ? じゃあね、いちご大福ちゃん。それとも、毒虫ちゃんって呼んだほうがいいかな?」
舞火が、床に落ちた蛾と蝶の塊をつま先でいじりながら言った。
「二度と話しかけてこないで」
「わー、こわ~い」
棒読みでそう言った舞火は、あたし達以外誰もいなくなった会場を去っていった。
あとに残されたあたし達の間には、気まずい空気が漂っていた。
「もえ、ごめん。どうしてもえが何か知ってるなんて思ったんだろう。ごめんね。色々ありすぎて、混乱してた」
床座りになったままのアッキちゃんが、ぽそ、とこぼす。
「いいの、あたしこそ、冷たい言い方しちゃってごめん。アッキちゃんに怪我がなくて、よかった」
「怪我! そうだ、腕は大丈夫?」
アッキちゃんが跳ねるように立ち上がって、あたしの腫れた腕をそっと胸に抱く。
自分がキズを負ったみたいに、沈痛な顔をして。
そのうちに、騒がしい気配をまとって、会場スタッフと運営スタッフ、それから【強欲】担当の#name#と【怠惰】担当の
会場外で待機していたところに、中から出てきたマキ論ファン(舞火のことだろう)から「蛾は退治された」と聞いて戻ってきた、ということだ。
「他のファンと、メンバーは、みんな解散してるよ。アッキも帰りな。そっちのファンの子も。今日は変なことになっちゃってごめんね」
#name#が言った。#name#は、メンバーだけどプロデューサーでもあるから、運営スタッフとして残っていたんだろう。
「戴天、大丈夫?」
アッキちゃんが#name#の言葉も自身のショックも差しおいて、戴天にまず声をかけたのは正直、ちょっとムカついた。戴天が見るからに青い顔をして震えていたとしてもだ。
ていうか外に避難していただけのくせに大げさじゃない? とも思う。
「うん……でも怖いから、一緒に帰ろ?」
戴天が首を傾けると、ザ・男ウケって感じの清楚な茶髪のボブが、均一に光を反射しながらゆれた。
なんでこの子がアッキちゃんと仲良いの? ってシンプルに苛立つ。
とはいえ、あたしとアッキちゃんは現場ではあくまでもファンと推しだ。
そして戴天とアッキちゃんはメンバー同士だ。
誰と一緒に帰るかって言ったら、そりゃアッキちゃんは戴天と帰るのが自然だよ。
だから、その日はライブハウスの中でアッキちゃんと別れて、別々に帰った。
あたしの腕の腫れは、なかなか引かなかった。
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