第5話 友情と握手
前世。
(かなり近いです……! でも、厳密にあれは「前世」と言えるのでしょうか……。私は前回と今回の記憶がある「二周目」で、別人になっているので王子のラルフは前世の認識です。でも、ヒースクリフは、生き直していない限り一周目で、ラルフのいない世界では知り合いにもならない、無関係な他人です。他人、でした。この年齢までは。前回とは、明らかに関係性が違います)
運命があるかどうかは、正直なところヴィクトリアにもわからない。
もし運命というものが本当にあるなら、もっと早く会えても良かったように思うのだ。
会うのにいちいち言い訳が必要な婚礼適齢期ではなく、ただの幼馴染でいられるくらい子どもの頃に。
「私から見たあなたは『恩人』です。窮地を助けてくれた、素敵なヒーローです。以前はただお見かけしただけで、厳密に出会ったと言えるのは、昨日あのときが最初です」
あえて突き放したつもりはなかったが、ヒースクリフは眉をひそめたまま、難しい顔でヴィクトリアの説明に耳を傾けている。
欲しかった答えではなかったのかと焦ったヴィクトリアは、ヒースクリフのすぐそばまで歩み寄り、ぶん、と空を切るほどの勢いの良さで右手を差し出した。
「友達になりたいと思っています。あなたはどうですか?」
「この手は?」
「握手!」
ヴィクトリアが笑顔で答えた瞬間、ヒースクリフは自分の左の手袋に噛みつくようにして外し、右手の手袋も取って上着のポケットにねじ込むと、両手でヴィクトリアの右手を包みこんだ。
「それでは友達から」
から? と、ヴィクトリアは少しだけ表現にひっかかりを覚えたが、嬉しさのあまり深くは考えなかった。
(友達に! これで、こちらの世界でもヒースクリフとつながりができました! 王子とその護衛だったラルフのときみたいに、ずっと一緒にいるのは難しいと思いますが、見知らぬ他人で終わらないで、良かったです! 本当に、会えて良かった!)
ラルフの記憶を持つヴィクトリアは、知己であるヒースクリフのことを、次々と思い出していた。好きな本、好きな食べ物、好きな時間帯、好きな空の色。
空気が、沈みかけた太陽の色に染まっている。
――綺麗ですね。俺は夜明けの空と、黄昏の空気が好きなんです。朝でも夜でもない時間帯は、なんだかとても自由な感じがするんですよ。
夕焼けを見ながら、以前のヒースクリフはラルフに対してそう言っていた。「どういう意味?」と聞いてみたところ、「夜明けの時間は二度寝ができるなと思うから」「黄昏時は、護衛の仕事が終わって、殿下とただの友達みたいな気がするから」と。
(「仕事が終わったからといって、気は抜いてないですよ。殿下の命を狙う者が現れたら、この身を挺してお守りします。あなたの命以上に大切なものは、俺にはない」なんて、言っていましたね、あのときは……)
ラルフは「重いなあ! そう簡単には死なないよ!」と、笑い飛ばした記憶がある。
結局、ラルフは曲者に刃物を向けられたのではなく、婚約者に毒を盛られて死んでしまった。ラルフの命より大切なものなどないと言い切っていた、あの世界でのヒースクリフがその後どうなったのかを考えると、ヴィクトリアは背筋が寒くなる思いがするのだ。
せめて、こちらの世界のヒースクリフには幸せになってもらいたい。その一心で、ヴィクトリアは笑顔を向けつつ、ヒースクリフの手に自分の左手も重ねる。
「ヒースクリフさんは、この時間帯が好きなんですよね。真っ赤な空。仕事の終わり時間で、開放感があるから」
歴然とした身長差のあるヒースクリフは、視線をぶつけるように見下ろしてきて、静かな声で尋ねてきた。
「どうして、そう思ったんですか」
言われて初めて、ヴィクトリアは話しすぎたことに気づく。
(そうでした、こちらではほぼ初対面ですから、あまり訳知りなことを言ってはいけませんね! ゆっくり、知り合いにならないと。友達から。なるほど、友達「から」というのは、そういう意味ですね!!)
ヴィクトリアはにこにこと笑いながら「あまりにも綺麗な光景だったので、あなたもそう感じているのではないかと。思ったままに言ってしまいました!」と言い張った。
ヒースクリフは、琥珀色の瞳に切なげな光を宿して、瞬きもせずにヴィクトリアを見る。
「あなたの見立て通り、俺はこの時間帯が好きです。あなたに言われて、もっと好きになりました。ここまで心を見透かされたのは、初めてのことです。いま、とても清々しい気分です。あなたになら、このまま俺の心のすべてを知られても良いと思うほどに」
言い終えると、素早く片方の手を抜き、重ねたヴィクトリアの左手の上からもう一度、両手を両手で包みこんでくる。
思わず目を落とすと、自分の手がヒースクリフの手にすっぽりと包みこまれていた。手の大きさがずいぶん違うことに気づき、とヴィクトリアは新鮮に感じた。
(ラルフのときには、ヒースクリフとこんなふうに密に触れ合うことはなかったから、日常的に意識することはなかったはず。あのときも、ヒースクリフの方が背は高かった覚えはあります。体格差もあったので、倒れたときにぱっと抱きかかえられたりしたことはあったような……)
どうして倒れたんでしたっけ、と思い出そうとしながら、顔を上げた。
ヒースクリフは、ひたむきさすら感じさせる目で、ヴィクトリアを見ていた。視線が絡み合ったところで、吐息をこぼして話しかけてきた。
「昨日が初対面であるのは間違いないと思うのですが、不思議です。俺も、ずっとあなたに会いたいと思っていた。いるべき場所にいるひとがいない、何かが自分の人生には欠けている。長い間抱えていたその思いが、あなたに出会ってから跡形もなく消えてしまいました」
やっぱり? ヒースクリフも!? という言葉を、ヴィクトリアはぐっと飲み込む。
(我慢我慢。一足飛びで関係を縮めようと、急がない方が良い。ヒースクリフには立場があるし、こっちの世界では婚約者だっているかもしれない)
「先に結婚するわけにはいかない」と義理立てするラルフが存在していないのだから、その可能性は大いにありえる。そう気づいた瞬間、ヴィクトリアは「あっ!」と叫んで手を放し、逃げるように数歩後ずさった。
もしヒースクリフに婚約者がいたとして、こんな場面を誰かに見られでもしたら、取り返しのつかないことになる。
ヴィクトリアが逃げ出したことに、ヒースクリフは傷ついたような顔をしていた。
だが、これははっきりさせておくことだと心に決めたヴィクトリアは、勢いよく質問をした。
「ヒースクリフさんには、婚約者がいますか?」
「いません。隣国のオールドカースルに長くいたので、あちらの貴族からぜひにと持ち込まれる縁談もありましたが、すべて断っています」
「どうしてですか? 義理立てする相手もいないのに?」
聞いたそばから、ヴィクトリアは踏み込みすぎたかも? と危ぶんだ。ヒースクリフは、白皙の美貌に胸が痛くなるほど優しい表情を浮かべ、目を細めてヴィクトリアを見つめてきた。
「これまでは、縁談に前向きになれないことについて、自分でも理由がわかりませんでした。今は、違います。きっと、出会うべき己の運命に、出会っていなかったのでしょう」
予想外の答えに、ヴィクトリアは息を止めた。
(これは……、もし私がラルフの事情を知らないどこかのご令嬢だったら、絶対に勘違いする文言です……! こんなことを言われたら、私でさえヒースクリフに「見初められた」のかと錯覚しそうですもの。でも、ヒースクリフは私の中の「ラルフの気配」に反応しているだけですよね?)
おそらく、このヒースクリフには「ラルフ」に関する記憶は無いように思う。だが、このままヴィクトリアを「ラルフ的な何か」と混同した場合、前世と同じことが起きかねない。
前世でのヒースクリフは「殿下が結婚するまで、自分は婚約もするつもりはない」と言い張っていた。
ラルフには、幼い頃に決められた婚約者である公爵令嬢ナタリアがいたのだが、結婚にはなかなか踏み切れないでいたのだ。
その長過ぎた春は波紋を呼び、ヒースクリフの両親と顔を合わせた際に「息子の縁談も、先延ばしになっています。殿下、何卒慶事はつつながく滞りなく進められますように」と、かなり真剣味のある懇願をされた覚えがある。
迷惑をかけてはいけない相手にまで、迷惑をかけてしまっている。そう気づいたラルフは、重い腰を上げようとした。しかし、結婚式を終えた記憶はない。
問題を解決する前に、前世のラルフは死んだのだ。
あの後のヒースクリフはどうなったことか(以下略)。
(ラルフが、ヒースクリフ本人にも親御さんにも迷惑をおかけしまして、すみません! こちらの世界のヒースクリフには、この私が精一杯報いなければ!!)
強い使命感を胸に、ヴィクトリアはこの世界のヒースクリフに対して、力強く請け合った。
「そうなんですね! わかりました! では、ヒースクリフさんが首尾よく結婚できるように、私もできる限り尽力させていただきます!」
「尽力?」
なぜか、不思議そうに目を瞬いて聞き返された。
「はい、尽力です。ずっと隣国にいたということですが、結婚はこちらでなさるおつもりなんですか? それなら、私もある程度、社交界に足を運んでいる同年代のご令嬢方のことは存じ上げておりますから、ご相談にのることもできるかと! 友達として!」
ここぞとばかり強く言い切ったのに、なぜかヒースクリフが黙り込んでしまったことで、おそろしく場が静かになってしまった。
やがて、重い沈黙を破って、ヒースクリフが尋ねてきた。
「あなたには、現在、婚約者もしくは心に決めた相手がいますか?」
「全然まったくおりません! 年齢も年齢ですから、真面目に探してはいるんですけど、なかなか……」
「わかりました」
ん? 何が? とヴィクトリアが首を傾げたそのとき、停まっていた馬車のドアが開いて、それまで姿を見せていなかった人物が下りてきた。
「ごめんね、聞こえていた。ヒースクリフ、今日のところは焦らず、このへんで引いておきなさい」
ヒースクリフが現在仕えている相手である、エドガーであった。
まさかの再会に、ヴィクトリアもさすがに焦る。
「殿下、いらしたんですね。すみません、まさか手紙の返事を殿下自ら……こんなところで立ち話というわけにはいきませんね、準備をいたします」
お辞儀をしつつ、慌てて言い募るヴィクトリアに対し、エドガーは鷹揚に笑って言った。
「本当は、出てくるつもりはなかったんだ。手紙の返事を、ヒースクリフに届けてもらって、今日のところは帰るつもりだったから。でも、せっかくだから用件を伝えていくね。急ぎで返事を書いて届けたのは、内容が三日後のお茶会への招待だからだ。王室管轄下の迎賓館で開催されるということで、せっかく知り合った君にも来てもらいたくて」
姿を見て、声を聞くだけで懐かしさがこみあげてくるのは、エドガーも同じだ。
ヴィクトリアは、思わず笑顔になり、その話に耳を傾けた。
(お茶会の、お誘い! そうでした、エドガーには、こういう気取らないところがありました。舞踏会で怖い目を見た私に、楽しい思い出を作ってあげようと考えたのでしょう……。ですが、そのお茶会は噂にも聞いていないので、かなり重要度が高い上に、非公式のものでは? いまの私は、そういった場においそれと顔を出せるような身分ではありません)
断り文句を口にしようとしたヴィクトリアに対し、エドガーはさりげなく続けた。
「ベンジャミン公爵家の、ナタリア嬢も出席するということだ。おそらく、その場で僕かヒースクリフとの縁談へ向けて、根回しが始まると思う。直接的に仕掛けられるかも。だけど、女性の同行者がいれば向こうも仕掛けにくくなって、様子見になるだろう。その縁談に対して、少なくとも僕は前向きに考えていない。僕を助けると思って、参加してくれないかな?」
ナタリア、という言葉に、ヴィクトリアは強く反応せざるを得なかった。
(ラルフがいない影響で、こちらの世界でのナタリアにはまだ婚約者がいないんですね……! それで相手が、ヒースクリフかエドガーになるだなんて! ナタリアは、いざとなると殺しができる人間です。二人に近づけるわけにはいけない)
エドガーが乗り気でないというのなら、手助けするのはヴィクトリアとてやぶさかではない。むしろ、積極的に助けたい。
その一心で、ヴィクトリアは不参加の表明を引っ込めた。
「ありがとうございます、喜んで参加させて頂きます!」
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