第3話 空白を埋めるもの
ヒースクリフ・ブルーイットは、物心ついたときから、妙な空白を感じていた。
自分の半身が無い、寄る辺ない感覚。あるべきものがそこになく、どうしても満たされず、探しても見つからない。
喉の乾きや耐え難い飢えのようなものを、ずっと抱えていたのだ。
一向に収まらぬその「何かを求める気持ち」がほんの少し和らいだのは、十歳を過ぎた頃、隣国の王子エドガーと王家主催の茶会で顔を合わせたときだ。
求めたものとまでは思わなかったが、奇妙な懐かしさが胸に渦巻いた。気がついたら「あなたに仕えたい」と口走っていた。
エドガーは「君はシルトンの人間だからね。すぐにとは言わないけれど、オールドカースルで長く過ごしてくれれば、いずれ臣民に迎えることは可能かもしれない。その一方で、いつか君の考えが変わることもありえるだろ。すぐに結論を出す必要はないと思う」と答えた。
他国の王族の側仕え志願という難しい案件に関して、明確に断られたわけではなかった。ヒースクリフは、それで十分だった。
そして、帰国するエドガーを留学の建前で追いかけて隣国へと向かい、王宮近辺で暮らしてエドガーの学友のひとりとしての地位を確立した。軍部の出入りには厳しい目を向けられたが、エドガーの口利きもあり、騎士としての修練も続けることができた。今では、王子の側で帯剣も許される身分となった。
今回は、エドガーが遊学と称して期間を決めずにシルトン国に向かうことになり、シルトン人のヒースクリフも、一時帰国を兼ねて同行した。両国間で条件のすり合わせをする中で、滞在先は、上級貴族であり家臣団を含めて手厚い対応も可能ということで、ブルーイット侯爵邸となった。ヒースクリフの生家である。
シルトンに滞在中は、エドガーが招待されている行事にはヒースクリフも一緒に参加する。手始めに、貴族が主催している舞踏会へも顔を出した。
その場で、出会ってしまったのだ。
ヴィクトリア・ブレナン。
銀色の髪に紫色の瞳の、妖精のように可憐で神秘的な令嬢に。
(不思議な女性だった。名乗る前から、俺の名を知っていた。「ずっと会いたかった」とか「僕が死んだことを気にかけているんじゃないかと思って」と、言っていることはよくわからないことばかりだったが、あのときの俺は、なぜかそれを自然に受け止めていた……)
思えば、帰国前からずっと胸騒ぎがしていた。
自分が求めていた「何か」に出会えるのではないか。
雲を掴むような話だが、その淡い期待にすがるようにヒースクリフは「誰か」を探していた。
その気持ちが、これまでにないくらい、もっとも強く反応したのが、初対面のヴィクトリアだったのだ。
暴漢から救えたのは不幸中の幸いだった。しかし、個人的に会話を交わす前に彼女は帰途についていた。淑女としては、妥当な判断である。
翌日、エドガーとともに滞在しているブルーイット侯爵邸へ、丁寧な字で綴られた礼状が届いた。
宛名を見た瞬間、雷に撃たれたような衝撃があった。筆跡に、激しく心を揺さぶられた。
知らないはずなのに、知っている。
自分は、その文字を書くひとを、知っていると強く感じた。
簡潔な文体で述べられたお礼の言葉を、何度も読んだ。机に向かって、返事を書こうとした。だが、思い入れが強すぎて、ついには一文字も書き出すことができなかった。
悩み苦しむヒースクリフを救ったのは、エドガーである。
「はい、これ。急ぎの内容を書いたから、ブレナン伯爵令嬢に届けて来て欲しい。他のひとに頼むと何かと面倒だけど、君ならブルーイット侯爵家の馬車を出せるから、直接渡して来ることができるよね?」
小さなテーブルでさらさらと書き終えた手紙を、机に向かって唸っていたヒースクリフへと差し出してきた。即座に、立ち上がった。
「行きます」
すぐにも部屋を飛び出していきそうなヒースクリフに、エドガーは嫌味のない笑みをこぼす。
「君とは何年も一緒に過ごしてきたけど、女性に手が早いと思ったことはない。だけど、あのご令嬢だけは別みたいだ」
手が早いとは? と、言い返しそうになったヒースクリフだが、呑み込む。エドガーの言葉の意味するところを、考えてみた。
(ブレナン伯爵令嬢を、女性として意識している? 俺が?)
その瞬間まで、ヒースクリフは一切その可能性を考慮していなかった。
言われたことにより、改めて考えてみたが、確信を持てない。つまり、自分がヴィクトリアに対して、恋心を抱いているか否かということについて。
「もしそうだとすると、俺の一目惚れということに……?」
部屋に二人だけということもあり、以前からエドガーたっての「友達らしく」という願いもあって、ヒースクリフは「俺」と砕けた口調で聞き返す。
何が楽しいのか、エドガーはにこにこと笑いながらも、きっぱりと言い切る形で答えてきた。
「意外そうな顔をしているけど、僕は最初からそうだと思っていたよ。彼女を見る君の目は、熱情そのものだった」
ヒースクリフは、反論することもなく、口をつぐむ。
ここ数年、いつも側にいたエドガーの目から見てそうだったというのなら、闇雲に否定するものでもないと思う。納得したわけではないが。
「見た目は、綺麗な女性だったかと思います。ですが、正直に言えばあのときあの場で、そこまで見ていませんでした。俺をひきつけたのは、あの容姿ではなく……。言葉や雰囲気でしょうか。俺が彼女のそばにいることが、自然だと感じたんです。もちろん、彼女も同じように感じたか、俺のことをどう思ったかは、一切わかりません」
しかし、ヒースクリフには「長い間探していた相手を、ついに見つけた」沸き立つような高揚感と、安堵があった。
彼女は自分の運命で、自分は彼女の運命だと。
(ひとはそれを「一目惚れ」と言うだろうか。俺が彼女に感じたものは、もっと違う何かだ。生まれる前に割られた魂の半分を、ようやく見つけた感覚。二度とは離れたくないという、強い思い――)
考えれば考えるほど、それは独りよがりな思い込みのように感じられて、ヒースクリフはゆるく首を振った。
「わからない。結論を出すには、材料が少なすぎる」
「そうだと思う。だから、やっぱり本人と会ってきたほうが良い。『三日後のお茶会に同席してもらえるように』と、お願いを書いた。いますぐ準備するにも、時間が足りないだろう。今日中に渡してきた方が良い」
あらためて、ヒースクリフはエドガーから渡された封筒に目を落とす。
「三日後といえば、王家とベンジャミン公爵家絡みのお茶会ですね。たしかに、正式な晩餐会までの招待はすべて非公式で略式、護衛含め同行者は前々日までの申請でと言われていましたが。まさか、シルトン国内で知り合ったばかりの貴族のご令嬢を、同行者としてお連れするんですか」
ルール違反ではなくとも、相手の予期せぬ行動であるのは間違いない。エドガーらしくない、軽はずみな判断のように思われた。
ヒースクリフの問いかけに対し、エドガーは肩をすくめて、飄々とした口ぶりで答えた。
「昨日見た限り、彼女はしっかりとした淑女だ。その振る舞いが、王宮において問題があるようには思われない。エスコートはヒースクリフに任せるよ。僕はベンジャミン公爵家のナタリア嬢と楽しく歓談してこようと思う」
そこでヒースクリフは、エドガーの狙いを了解した。
現在、エドガーには婚約者がいない。
オールドカースル国内にはもちろん候補者がいて、内々に動いてはいるが、決め手に欠けるようで、正式な決定が見送られている。
政略結婚という意味では、近隣の姫君や準王家にあたる公爵令嬢も、十分に候補たりえる。いまのところ国境を接しているシルトンとは緊張関係にないが、絆が深まるのは両国にとっても歓迎すべきことだ。
よって、この機会にシルトン側がエドガーと令嬢の「出会い」を画策することは、当然予想されることである。そしてそれは、王子の側近のような位置づけにあるヒースクリフにも、起こり得る事態であった。
(ナタリア嬢とは、舞踏会の夜に挨拶をして軽く会話をした。エドガー様は、あのナタリア嬢を、ご自身に引き付けるつもりか。万が一にも、俺へ政略絡みの縁談が向かないように)
エドガーは以前からナタリアとは面識があるようだが、どうもあまりよく思っていないことは、これまでの言動の端々から知れた。婚約者、ひいては結婚相手としてありえないと考えている節がある。当然、具体的な話になったときは、断る心積もりであろう。
一方で、家格が及ばない侯爵家のヒースクリフの場合、公爵家に押し切られると、縁談を断りきれない恐れがある。そうなる前に、打てる手は打っておけ、ということらしい。
「殿下の狙いはわかります。しかし、ブレナン伯爵家に迷惑がかかることがあってはいけないと、俺は思いますが」
ヒースクリフは、慎重に答える。
政治的な思惑があるのが明白なお茶会に、ヴィクトリアを誘うということは、こちらの事情に巻き込むということでもある。
(普段のエドガー様なら、決して選ばない道だ。今になってそうしようと決断したのは、それだけシルトン王家やベンジャミン公爵家のやり口を警戒しているのか……)
公式行事が始まる前ということもあり、王家との接触は入国時に迎えに来た第一王子一行と挨拶を交わした程度。前日は、オールドカースルと親交のあるグレン侯爵家の顔を立てるべく、舞踏会に非公式参加。
正式な晩餐会は十日後だ。
それより前の非公式な茶会などの場で、婚約までの道筋を作られ、晩餐会で噂をいっせいに流されたりすると、分が悪い。エドガーの場合、そこまで強硬策に出られたならば「国際問題」として突っぱねることはできるが、やや立場の弱いヒースクリフが狙われた場合は、断るのが難しくなる恐れがある。
それを見越した上で、ヒースクリフには「ナタリア避けのパートナー」が必須であり、現状ヴィクトリアをおいて他に相手はいないだろう、と示唆しているのだ。
「もしブレナン伯爵家や、ご令嬢に火の粉がかかるというのなら、君が払えば良い。僕が思うに、君は彼女以外の女性をエスコートする気はないだろうし、彼女を自分の事情に巻き込む事になった場合は、全力で守る。どう考えても、このお茶会は、替えのきく当て馬ではなく、大本命の女性に同行をお願いする場面だと思うよ。その後のことも考えて」
エドガーは、ヒースクリフの心配を心得ているかのように、屈託なく笑って言った。
言葉選びのいくつかに、多少のひっかかりを覚えたものの、ヒースクリフは了承した。
そして、「できるだけ早く」の意向を汲んで、当日中に手紙を届けるべく、ブレナン伯爵家に向かったのであった。
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