第一章

第2話 目覚めても記憶は消えず

 翌朝のこと。


 前夜の舞踏会ですっかり疲れ切っていたヴィクトリアは、自宅のベッドで熟睡し、明るい日差しの中で清々しい目覚めのときを迎えた。


「ヒースクリフは、エドガー殿下の護衛になっていたんですね……」


 横たわったまま、朝になっても消えない記憶を胸に、ひとり呟く。


 舞踏会に参加していた貴族の令嬢であるヴィクトリアが、暗がりで他の参加者に襲われかけたことは、バルコニーの一角で騒ぎになりかけた。

 その騒動を収めたのが、舞踏会には賓客として招かれていたらしい、隣国オールドカースルの王太子エドガー。

 到着が遅れたため、主賓としての大々的な紹介はまさにこれからという段取りであったとのことで、最初から参加していたヴィクトリアも、そのときまで彼が来場していることは、知らなかったのだ。


 いくつかの会話からヴィクトリアがわかったのは、ヒースクリフの行動が以前とは違っていること。

 ヴィクトリアがラルフとして過ごした前の世界では、隣り合う国の王族同士としてエドガーとは親交があり、仲が良かった。ヒースクリフはラルフの学友兼護衛であり、どこに行くのも一緒だったので、三人で遊んだ記憶もある。


 今回はラルフが存在しないために、ヒースクリフはこの国の王子の友人や護衛となることもなく、隣国に留学していたようなのだ。そして、その優秀さから、他国人でありながらも、エドガー王子の側仕えとして引き立てられたらしい。


(ヒースクリフは、エドガー殿下に気に入られて足止めをされて、隣国に何年も留まっていたのかしら。と、いいますか、もしかして「王子の護衛」が性癖なのでしょうか? この世界には「ラルフ」がいないからといって、まさか隣国のエドガー殿下に仕えているなんて)


 身元の確かなエドガーが、ヴィクトリアが男に襲われかけていたのを目撃したと証言してくれた。

 そして、自分の護衛として同行していたシルトン人で侯爵令息であるヒースクリフが、男を取り押さえたので暴行は未遂に終わったこと。並びに、ヒースクリフの行動は、貴族令息への不当は暴力ではなく、必要最小限の正当性のある行為であったことを理路整然と筋道立てて話してくれたのだった。


 舞踏会にはヴィクトリアを襲った貴族の青年の知り合いや関係者も居合わせたはずだが、狼藉を証言したのが隣国の王族であるエドガーだけに、迂闊に横槍を入れたり、反論することができなかったようだ。


 おかげで、ヴィクトリアの名誉は傷つけられることなく、ヒースクリフの行為も相手方から抗議を受けることもなかった。


 捕物劇で騒がしい中、ヴィクトリアは舞踏会の主催者から「これ以上巻き込まれぬよう、早めにお帰りになっては。後日お詫びに伺います」と勧められた。

 ヴィクトリアとしては、ヒースクリフやエドガーと話したい思いはあったが、未婚の貴族の娘として、はしたない振る舞いはできない。

 野次馬に囲い込まれて、噂話の餌食になるのも避けたかった。

 何より、前世の記憶を一度に思い出したせいで、自分でも思いがけないほど疲労していた。

 主催の勧めに従い、一緒に参加していた兄夫婦とともに、速やかに帰宅した。


 屋敷にいた両親にも事情は先んじて伝えられていたので、帰ったら大いに気遣われた。「大丈夫です、怪我もありませんが、とにかく疲れました」とヴィクトリアは両親をなだめてから部屋へと向かい、身支度をしてベッドに入ると、ぐっすりと寝てしまった。


 夢の中で、前世の光景を見たような気がしたが、目を覚ましてカーテンから差し込む朝の光をぼんやり見ているうちに、内容はすぐに薄れて忘れた。

 ただ、自分がラルフであったという記憶そのものは、消えなかった。


(これまで生きてきて、ずっと何か大切なことを忘れてしまったような焦燥感がありました。あれはきっと、ヒースクリフのことだったように思います。ラルフを守ることに命をかけていた彼を置き去りにして、死んでしまったから……。この世界でも会えて良かったです。なんだかすごく、ほっとして、満たされた気分)


 ヴィクトリアは、軽く気合を入れてベッドの上で体を起こし、前の晩に再会したヒースクリフの姿を思い出す。ふふっと、笑みをこぼしてしまった。


「素敵でしたね……。とても素敵でした」


 危機に駆けつけ、助けてもらったという状況のせいかもしれないが、生まれ直して十八年、女性として過ごしてきたヴィクトリアは断言できる。


(ヒースクリフは本当に、格好良いです。会った瞬間、見惚れてしまいました)


 一方で、自分はもう彼に守られる「王子様」ではないのだという現実も、直視せざるを得ない。

 ヒースクリフとエドガー。かつて仲良かった男子二人は、こちらの世界でも変わらず仲良くしているというのに、自分はそこに近づけない、近づく正当な理由がない。


 しかし、一介の貴族の娘であるヴィクトリアが「あの二人と仲良くしたい」と言い出すわけにはいかないのだ。

 なにしろ、かたや隣国の王子で、かたや上級貴族の出身かつ王子の護衛を勤めている青年。

 いずれも大変な美形である。


 ヴィクトリアから近づこうとしたら、あっという間に好色な女という悪評を立てられるのは目に見えている。

 唯一、彼らからヴィクトリアに近づいてくれれば、その限りでもないのだが、望みは薄い。

 王族身分であったラルフと違い、この世界のヴィクトリアには、彼らが興味を持つだけの理由が特にないと、自分でよくわかっている。


 女性と親交を持つことが、将来的な縁談につながる可能性を知る青年たちは、政策的な意味を含めて本命となり得る相手以外に、無闇と愛想よく接することはないだろう。

 少なくとも、ヴィクトリアが知る限り、以前の世界での彼らは慎重な振る舞いをしており、不用意に女性を近づけていなかったはずだ。


「せっかく会えたけど、仲良くなるのは無理ですよね……。できることといえば、昨日のお礼の手紙を出すくらいでしょうか。でも、そこに『できれば一度お会いして』って書くと、はしたない女になる、と。『旧交を温めたいだけで、下心はない』と言っても、通じませんね」


 ヴィクトリアにとっては旧交だが、彼らにとっての自分は「たまたま窮地に居合わせたどこかのお嬢さん」なのだから、これは仕方ない。

 二人に迷惑をかけるわけにもいかないし、ここは潔く諦めよう。

 その気持ちから、ヴィクトリアは起きて身支度をし、前夜のことを心配している家族に「殿下とその護衛の方のおかげで、大事には至りませんでした。失礼のないよう御礼状を書いて、この件は忘れようと思います」と改めて説明をし、「それがいいだろう」という同意を得て部屋へと引き下がった。そして、エドガーとヒースクリフそれぞれに宛てて二通の礼状を書いた。


 返事は、なんとその日の夕方に届いた。

 ヒースクリフ本人が、持参する形で。


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