番外編 エルウィンと茗

※第三章が始まった直後くらいのお話です。


=====


「ねえ、エル」


 住処すみかを歩いていたエルウィンは、後ろからめいに呼び止められて振り返った。青みがかった灰色の瞳がぱちくりと瞬かれたのは、茗に名を呼ばれたのが初めてだったからだ。


「……どうかした?」


 エルウィンは驚きつつも、平静を保って訊ねる。


 エルウィン自身、それまで茗に向けられる視線が警戒の色を帯びていたことに気がついていたし、無理もないことだと思っていた。己の左腕に巣食っていた呪いが暴走した時に茗も近くにいたのだ。怪我がなかったのは幸いだったが、怖い思いをさせたという自覚はあった。


 ただ、エルウィンとしてはそれっきりの付き合いになるはずだった。風守の一族と深く関わりあうつもりはなかったし、自分は間もなく呪いに食い殺される。それで全て終わる――はずだった。

 ところが梢によって呪いを解かれ、今はトワの身の保障を条件に風守の一族に協力している。こんなふうに寝食を共にするようになろうとは夢にも思わなかった。


 エルウィンたちを引き入れることは一族の子供たちから全面的な信頼を得ているかなめの判断だったが、当然、全員が快く受け入れたわけではない。特にれいの拒否感は誰から見ても明らかだったし、茗の態度にも警戒――というよりは恐怖が見え隠れしていた。


 しかし、今日は違った。茗の大きな丸い目は、ただ純粋な興味を示すようにじっとエルウィンの瞳を見つめている。


「……茗?」


 茗にそのまま凝視され、エルウィンは僅かに首を傾げる。すると茗がボソッと呟いた。


「……確かに」

「え?」

「ううん」


 茗がぶんぶんと首を横に振ると、頭の高い位置で結ばれた二つの髪が大きく踊る。


「エルが髪結んでるの、ただの輪ゴムでしょ?」

「ああ、そうだけど」


 エルウィンは頬を這っていた黒い荊が消えて以来、髪を上げている。肩の上まで伸びた黒い髪は耳の後ろで無造作に一つに束ねられており、その役目を果たしているのが量産品の茶色い輪ゴムだった。


「それ、痛くないの?」

「まあ、髪が絡まることはあるけど……」


 エルウィンは髪に触れながら答える。ただ邪魔だからという理由で束ねられた髪が数本絡まって抜けようが特に気にしていないようで、むしろなぜ茗がそんなことを訊くのか不思議でならないという顔をしていた。


 茗は右手をエルウィンに差し出す。その手には水色の透明な飾りが付いたヘアゴムが握られていた。


「これあげる」


 エルウィンは目を瞬く。そして床に膝をつき、目線を茗の高さに合わせた。


「……いいのか?」

「うん、これ片っ方かたっぽのゴムが切れちゃって、一個しかないから」


 エルウィンはそっとヘアゴムを受け取った。透き通った水色のプラスチックは茗のツインテールに付いたさくらんぼのような飾りに似ているが、形は角ばっており、その色と相まって氷の塊のように見える。


「エルの魔法に似てるでしょ?」


 そう言って笑った茗に、エルウィンも釣られて相好を崩す。


「……ありがとう、大事にするよ」


 エルウィンは後頭部に手を伸ばして安っぽい輪ゴムを取り外すと、早速水色のヘアゴムで髪を結った。


「ああ、こっちの方がずっと結びやすいね」


 エルウィンが微笑みかけると、髪を結う様子を凝視していた茗はハッと我に返り、こくこくと頷いた。

 その頬がほんの少しだけ赤いことにエルウィンは気づかず続ける。


「茗」

「なあに?」

「前に怖い思いをさせてすまなかった」


 一瞬きょとんとした茗だったが、なんのことかすぐに察し、またぶんぶんと首を横に振った。


「あれはエルのせいじゃないもん」


 つぶらな目で真っ直ぐ見つめ返す茗の返答に、エルウィンもまた一瞬言葉を失い、そしてそっと笑った。


「……ありがとう、茗」




◇◇◇




 エルウィンと別れた茗は小走りでやしろへ向かっていた。

 まだ少し、胸がドキドキしている。


(確かにゆいちゃんの言うとおりだ)


 唯はエルウィンに対しあまり警戒心を見せず、むしろ「超イケメン!」「王子様みたい!」とひとりできゃっきゃとはしゃいでいる。姉の面食いっぷりはよく知るところだったが、茗はやはりあの呪いの暴走が先入観として拭えずにいた。それに出会った頃のエルウィンはいつも怒ったような顔をしていて、怖いという印象が強かったのだ。


 しかし同い年であるトワと共に過ごすうちに、そんな印象は書き換えられていった。トワはよく喋り、そしてことあるごとにエルウィンの話をするのだ。やれ料理が上手だの、やれ物知りだの、自慢するでもなくただただ嬉しそうに話すトワは、本当にエルウィンのことが大好きなのだろう。

 とはいえ、トワだってエルウィンの呪いによって怖い思いをしたはずだった。「怖くなかったの?」と問えば、間髪入れずに答えは返ってきた。


『あれはエル兄ちゃんのせいじゃないもん』


 エルウィンと呪いを完全に切り離しているトワに、茗は目から鱗が落ちた。エルウィンを見る目が変わったのはそれからだ。


 よく観察していると、エルウィンがトワを見る眼差しはかいによく似ていた。無愛想な兄が本当は妹たちをとても大切に思っていることを茗は知っている。檜もエルウィンも必要以上に笑顔を作ることはなく、ただ優しい目で見守っているのだ。


 いい方向に興味が湧いてきた頃、茗はヘアゴムを入れている缶の中を開けた時に水色の飾りに目が留まった。元々は二つあったゴムの片割れが切れてひとつだけになってしまったが、氷のようなキラキラした飾りが気に入っていたので残しておいたのだ。

 見た瞬間、エルウィンの顔が浮かんだ。それはエルウィンが使う魔法のせいなのか、涼しげな瞳の色のせいなのか。


 エルウィンを呼び止める時、本当は緊張した。なんて呼べばいいかわからなかったのだ。結局、トワが呼んでいるように「エル」と呼んだ。

 振り向いた灰青色の目に出会った頃のような険しさはもうない。そしてヘアゴムを渡した時、エルウィンは当然のように目線を茗の高さに合わせた。その眼差しはいつもトワに向けられているものとおんなじで。

 もう怖くないな、と思ったのだ。


 エルウィンはすぐにそのヘアゴムで髪を結んだ。癖のない黒髪が解き放たれたかと思えば、すぐに白く長い指にすくい集められ、耳の脇の髪だけがまたはらりと落ちる。

 どこか色気のある所作。伏し目になった時、瞳に覆い被さった長いまつ毛。


 ――エルはなんていうか、綺麗なんだよね。


 唯がうっとりとしながらそんなことを言っていたのを思い出した。その時は男の人に『綺麗』という言葉を使うことに違和感を感じていたが、今ならわかる気がする。


 思わず見入ってしまった時のドキドキがまだ続いていた。それは恋と呼ぶにはあまりにも拙い、子供が未知の世界の扉を開けたときの純粋な興奮に近いのだけれど、なんだか嬉しくなった茗は軽い足取りで社へと駆けていった。

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