紅く燃える森

夏梅

出会い

 山の麓へ続く道を、一台の自転車がゆっくりと登って行く。

 春を迎えたばかりの空の青はまだ淡く、溶けそうな白い雲が浮かんでいた。道の両脇に広がる水田は半分以上がまだ残雪に覆われている。その向こうには、山から溢れ出したように黒い森が広がっていた。

「手冷てぇ……」

 自転車に乗っている少年・結城ゆうき義凪よしなぎは呟いた。四月になったとはいえ、山から吹き下ろす風は冷たい。春休みを謳歌していた義凪は、友人の家へ遊びに行った帰り、とある“お遣い“のために自宅とは反対方向に向かっていた。

(ばあちゃんも、律儀だよなぁ)

 “お遣い“とは、焔城ほむらぎ山の麓にある政嵐まさらし神社に供物をお供えすることだった。四月になり、雪が溶けて神社へ続く道が通れるようになると、必ずお供えに行くのだという。

 ばあちゃん、と義凪が呼んでいるのは隣の家に住む老婦人のことで、祖父母のいない義凪にとってまさに祖母のような存在だった。義凪の家から神社まで若い人でも徒歩で二時間以上かかる。足の悪いばあちゃんがそれでも行くと言って聞かないものだから、友達の家へ行くついでに俺が寄ってくる、と義凪が申し出たのだった。

 ――山が雪で覆われている間は食べ物が獲れないでしょう?神様がお腹を空かせていらっしゃるから、雪が溶けたらすぐにお供物を持っていかなくちゃいけないのよ。

 春になる度にそう言っていたばあちゃんは、義凪が小さい頃からよく山に住む神様の話を聞かせてくれた。

(神様ねぇ……)

 政嵐神社に着き、鳥居の外に自転車を停めた。ここに来たのは片手で数えるほどしかない。家からもっと近い位置に別の神社があるのに、わざわざ山奥まで来る理由なんてなかったのだ。

 五十段ほどの階段を登りきると視界が開けた。とは言っても決して大きな神社ではない。ほぼ円形の土地の中心に小さな拝殿があり、他の建物もこぢんまりとしている。汚れた雪が敷地の隅で山になっていた。人の姿はなく、風が木々を揺らす音と鳥の囀りだけが聞こえる。

 静かだ。

 拝殿に近づくと、すでに供物の入った袋がいくつか置いてあった。剥き出しの南瓜まで置かれている。意外にも雑な置き方にほっとして、手に持っていた紙袋を同じように置いた。ばあちゃんから託された供物は焼き菓子だった。神様はお菓子なんて食べるのだろうか。

 義凪はダウンジャケットのポケットから小銭入れを取り出した。放り出された十円玉は、格子に当たってから賽銭箱に吸い込まれていった。頭を軽く二度下げ、パンパンと手を叩く。静かな境内に拍手の音が木霊した。

「えっと、ヤスコばあちゃんからです」

 呟いて、もう一度頭を下げた。ふと目線を上げると、拝殿はかなり古く所々傷んでいる。焔城山から吹き下ろす風と深い雪に耐えながら、ずっとここに鎮座してきたのだろう。

 風の冷たさに、ぶるっと体が震えた。早く帰ろうと拝殿に背を向け、義凪は階段に向かって歩き出す。

 その時、強い風が義凪の体を後ろから押した。ざあっという風の音に包まれる。誰かに呼ばれたような気がして振り返ったが、そこには小さな拝殿と、その奥に焔城山がそびえるだけだった。


 義凪は階段を下りると自転車に跨り、来た道を下り始めた。街と神社を結ぶ道であるためか、周辺の景色に不釣り合いなほど道幅は広く、きれいに舗装されている。辺りに民家はなく、田植え前は人の姿も見られない。

 もうすぐ新学期が始まり、義凪は中学二年生になる。五月になれば体育祭があるし、六月には剣道部の大会もある。去年、一年生ながら県大会ベスト四入りに貢献した義凪は、今年は絶対に優勝するんだと意気込んでいた。

(どんな一年生が入部してくるかな……)

 あれこれと考えながら坂道を下っていると、前方に黒いミニバンがぽつんと止まっているのが見えた。後部がこちらを向いているがすれ違った記憶はない。

 義凪が車の横を通り過ぎた直後、エンジンのかかる音がした。振り返ると、車がこちらに向かって走り出している。

 義凪は眉をひそめた。車との距離は徐々に縮んでいる。直感で、咄嗟に目の前の十字路を左折した。スピードが出ていたので、少しでもタイミングがずれれば雪の残る水田に突っ込むところだった。振り返ると、十字路を通り過ぎた車がバックし義凪の方に左折するところだった。

 嫌な予感がした。

 必死でペダルを漕ぎながら、義凪は体中に汗をかいていた。民家まではまだ距離がある。逃げ切れるだろうか――

「うわあっ!?」

 背後から大きな衝撃に襲われ、義凪は前方に勢いよく投げ出された。

 体が空中で止まるような感覚。

 自転車がアスファルトに擦れる音がした後、義凪は背中から道路に着地し、横に二回転してようやく止まった。衝撃で呼吸ができなくなる。

 車のドアが開く音に続いて、足音が近づいてくる。義凪はかろうじて、うっすらと目を開けた。

 足音の主は義凪の前に立った。

(誰だ……?)

 ぼんやりとした視界の中で、黒っぽい足元だけが見えた。やっと呼吸が戻り、義凪は大きく咳き込んだ。

 その人物は踵を返すと、再び車に乗り込んだ。朦朧とした意識の中で、最悪の事態が頭を過ぎる。

 次の瞬間、強い風が吹いた。

 ざあっという風の音で、何も聞こえなくなる。体が浮いたような気がしたかと思うと、義凪の意識は途絶えた。



 最初に気がついたのは、湿った土の匂いだった。

「う……」

 目を開けるとそこは薄暗い森の中だった。木の隙間から差し込む西陽が眩しい。

「大丈夫?」

 左側から小さな声がして、体を起こした。痛みが走ったが、目は回っていない。呼吸も落ち着いていた。

「いてて……大丈夫」

 義凪は右腕を地面についてゆっくりと上半身を起こした。

 すぐそばにいたのは、自分と同じくらいの歳の女の子だった。義凪は顔に見覚えがあったが、誰なのか思い出せない。

「ここ……どこ?俺、確か……」

 頭を押さえながら、今し方自分の身に起こったことに思考を巡らせる。自転車ごと背後から車に撥ねられたはずだ。道路に倒れたことまでは記憶があるが、ここは森の中だ。

「歩ける?」

「え? あ、ああ……」

 促され、義凪は太い木に手を付きながら立ち上がった。左肩に痛みはあるが、歩けないことはなさそうだ。

「こっち」

 歩き出した彼女を義凪は追いかける。湿った土は滑りやすく、木に右手を付きながら慎重に歩かなければならなかった。

 間も無くして森を抜け、道路に出た。彼女に続いて、森の縁に沿って歩く。義凪は自分が今どの辺りにいるのか解らず、きょろきょろと周りを見渡した。山沿いの田園風景はどこも似たり寄ったりで特徴がない。

 義凪は現在地の特定を諦め、大人しく彼女の後を追うことにした。義凪の視線の先で、肩より少し上で切り揃えられた髪が風に揺れている。彼女は振り返ることなく、静かに歩き続けている。無言の時間が義凪には気まずかった。

「あのさ、助けてくれたんだよな? 俺、よく覚えてないんだけど」

 返事はない。

 義凪が何か別の事を聞こうとした時、彼女が突然立ち止まり、振り返った。その向こうに、道路に自転車が横たわっているのが見えた。あそこで車に撥ねられたのだ。

「俺の自転車!」

 駆け出した義凪が彼女を追い越した直後に、静かな声がした。

「この辺りにはしばらく来ない方がいい」

「え?」

 義凪は振り向く。一瞬、彼女と目が合った。夕日を受けた茶色い髪が風に吹かれ、顔を隠した。

「気をつけて」

 彼女は呟くように言うと背を向け、来た道を戻っていく。

「ちょっと、どこ行くの?」

 義凪の問いに彼女は何も答えず、どんどん離れていく。

 その時、強い風が吹いた。咄嗟に義凪は腕で目を覆った。目を開けた時には、彼女の姿は見えなくなっていた。

 暫くぼうっと立っていた義凪は、はっと我に返った。

「あの子……隣のクラスの子だ。確か、佐伯さえき彩加あやか……」

 左肩がじんと痛む。太陽は随分と低くなっていた。



 自宅には自転車に乗って帰った。ほとんどが下り坂だったので、擦り剥いた足で歩くよりずっと楽だった。自転車はプラスチック製の籠が大破したが、乗り物としての役割を果たせる程度には無事だった。

 出迎えた母・七瀬は、帰宅した義凪を見て卒倒しかけた。ダウンジャケットは破れ、ジーンズは擦り切れている。また、義凪は気付いていなかったが、左こめかみから血が滲んでいた。

「どうしたの!?」

「自転車で派手に転んだだけだよ。ちょっと雪残っててさ」

 青い顔の母を宥めるように義凪は答えた。心配症で少し過保護な母の慌て様は想像に難くなかった。

「お医者様に診てもらう?」

「大丈夫、大したことないよ」

 リビングのソファに座ってこめかみの傷を消毒されながら、義凪は車に撥ねられたことは言わないことにした。あの車が通り魔や愉快犯のようなものであれば、警察に話した方がいいに違いない。だが、七瀬をあまり心配させたくなかった。それにもし警察に連絡したら、事故現場にもう一度行かなくてはならなくなるはずだ。

 ――この辺りにはしばらく来ない方がいい。

 あの忠告を守った方がいい。そんな気がしたのだ。

「どこで転んだの?」

「政嵐神社の近く」

 義凪が答えると、救急箱を片付ける七瀬の手が止まった。

「……どうしてそんなところに行ったの?」

「ばあちゃんが足悪いのにお供えに行くって言って聞かないからさ、圭一んち行った帰りに代わりに寄ってきたんだよ」

「そう……」

 こめかみに大きな絆創膏を貼られた義凪がソファから立ち上がると、七瀬が義凪を見上げた。

「義凪、あまり山の方に行かないで」

「え、なんで?」

 いつになく沈んだ声のトーンに驚いて義凪が見返すと、七瀬は目線を下に逸らした。

「だってほら、前に山火事があったでしょ?」

「山火事って、二年以上前だろ? そう何度も起こるもんじゃないし」

「そうだけど……」

 七瀬が言葉に詰まる。

「まあ、あんな所滅多に行くことないから大丈夫だよ。学校始まるし、まず行かないって」

 義凪が笑うと、七瀬はほっとした顔になった。


 二階の自室に戻り、服を着替えてベッドに寝転んだ。

 あの車は一体何だったのか。心当たりは全くない。

 撥ねられた後の記憶が曖昧だ。あの女の子が助けてくれたのだろうか。確か、一年生の時に隣のクラスだった佐伯彩加という名前の子だ。小学校は別々だったので会話をしたことはないが、決して人数が多いとは言えない田舎の中学だから、大半の同級生の顔と名前は知っている。体が弱いと噂で聞いたことがある。色白で華奢な子だったはずだ。

 しかし、森の中で見た彼女は義凪の記憶と印象が違った。どこか大人っぽく、華奢だが病弱な印象は受けなかった。形容するなら……神秘的という言葉がしっくりくる。森の中が薄暗かったせいだろうか。

 それにしても、何故あのような人気のない場所にいたのだろう。

 頭の中をぐるぐると思考が巡る。白濁したような感覚の中で、瞼が重くなってきたのを感じた。

(そういえばあの子、瞳が赤かったような……)


 夢を見た。

 真っ赤だ。

 まるで、炎の中にいるような……。

 剣を携えた人影。

 他にも何人かいる。


 揺れる、長い黒髪。

 

 君は誰?


 目を覚ますと日は暮れており、部屋は真っ暗だった。

 涙が目尻から流れていた。

「なんで泣いてるんだろう、俺……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る