第3話 ネクタイと葡萄
それから、向かうのは下駄箱だ。
「
知らない声が聞こえた。誰かが先輩の名前を呼ぶ声。俺は咄嗟に角へ身を潜めて聞き耳を立てる。
「よく運動場にも行って、熱心に誰かを見ているようだしな」
「ハッ。お目当ての新入生くんでも見つけたかよ」
「あー本当、お前に目を付けられた子はかわいそうだな」
え? 何。先輩の声が全然聞こえないのだ。穏やかな雰囲気ではなく、何かを数人で問い詰めるような。俺は少し身を乗り出して様子を窺う。
「おい! お前はそんな、おしとやかな奴かよ。なぁ違うだろ」
徐々にエスカレートしているのは嫌でも分かる。先輩を取り囲むようにして男子生徒、多分先輩たちが詰め寄っていた。その横を下駄箱を利用する一年生たちは怪訝そうな顔をしながら、そそくさと通り過ぎていく。知人がその渦中にいるので、わずかばかりの申し訳なさを感じる。
「……無視するわけだ。こんなんでもオレらはお前と一緒にさ!」
生徒の一人が先輩の胸倉を乱暴に掴んだ。その瞬間、俺の足は勝手に動き出す。モヤついた思考でも、今割り込まなきゃいけないことだけは分かった。
「お取込み中すみません。そこー、俺の靴があるんでー」
「お、お前見ない顔だな、一年か。こいつがどんな奴か知らない癖に。中堂はな──」
「あー、俺そういうの興味ないんで。申し訳ないです。凛くんがどんな人かなんて、俺がこれから知っていけばいいことですから。先輩もしかして、ギターソロとかイントロ。飛ばす派ですか?」
聡平は自分の靴を取りながら、男子生徒たちをにべもせず一蹴した。そして、平然と昇降口を後にする。凛はその後を何事もなかったかのように静かについていく。
あああああ。誰だよあいつら。少しイラっとして、つい余計なことまで口走ったかも……。冷静になった途端、後悔に駆られる。そんな俺の気持ちを余所に、先輩は後ろから話しかけてくる。
「
先輩の声色はなんとなく暗かった。言いたいことをはっきり言うような明るい声はどこへやら。湿度を多く含んだようなジットリ感。
俺は振り返って、先輩の姿を確認する。顔をそっぽに向けて口を尖らせている。胸倉を掴まれたせいか、緩くなったネクタイが目に留まる。放課後だし、あれぐらいの着崩しは何も問題はないのかもしれない。だけど、先輩にはしっかりとネクタイを締めていてもらいたいと思った。
「え、俺のせいですか? 先輩なら先輩らしく、一年の下駄箱で揉めごと、面倒ごとをおこさないで下さいよ。それより
聡平はピシッと、改めて凛と向き合う。ゆっくりと近づき、中腰になると、凛の襟元を正そうとワイシャツに触れる。
無理なく曲げたこの肘を伸ばせば、目の前の全てを手に入れられる。目線がいつもより落ちたことで視界に入る、先輩の喉ぼとけ。当たり前に、それは自分の存在をはっきりと主張する。
意識しなくとも目に入る丸。嚥下すると震えるように動く葡萄は、あの歌を、あの音を奏でる時にはどんな動きをするのだろう。どんな想いを含んで動くのだろうか。触れてみたい。だけど、触れればあの音が失われてしまうのかもしれない。それは恐い。
手に取れる距離にあるものが酷く遠く、憎く高く思えてくる。俺はきになる葡萄の味を確かめる術もなく、決めつけることしか出来なかったキツネのように。触れられない理由を付けた。
「……はい。これでカッコつきますよ」
「──多分そういうところだよ」
「え? なんです?」
「なんでもなーい。よし、今日は聡平を部室に招待するから。いざ、部室棟へ!」
凛は髪を揺らしながら走り出す。その元気で小さな身体、後ろ姿に安堵を覚えた聡平は、軽やかに彼を追いかける。
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