第2話(2/2)インスピレーションは口笛から
この鍵盤とパソコンを繋ぐことで初めて音が出力される。つまり、これらの道具を用いて作曲をするというわけだ。
ヘッドホンから聞こえるクリックの音。正確に刻まれる四つのかたまり。四拍子にあわせて、滑らかとは呼べぬ手つきで鍵盤を叩く。
画面上には、その軌跡がリアルタイムで記録されていく。時には人差し指だけでリズミカルに鍵盤を叩き、時には両手を吸いつけるように、ゆっくりと押し込んでは離し、また押す。記録する音色に合わせて若干のニュアンスを表現する。気分はその楽器の演奏者である。
俺は無我夢中だった。ただ、あの声を。あの衝撃を。あの気持ちを。どうにかこの曲で表したかった。言葉にせずとも伝わる想いがあるのなら、歌詞などなくても伝わる願いがあると思いたい。
久しぶり、実に一年以上ぶりの打ち込み作業。所々操作がおぼつかないし、思うような形にはならず、完成までに時間は要した。この期間、あの歌声を忘れてなるものかと記憶を呼び起こし続けた。
そして、今日。俺はスマートフォンに曲を落として、また先輩に会おうと部室棟を目指した。ところが、下駄箱で偶然にも再開出来た。初めて会った時と同じように俺の下駄箱を小さな体は塞いでいる。
「よ。元気してた? 相変わらずの背丈、よく目立つこと。あー、羨ましいねぇ」
「
「ん。そんなにボクに会いたかったぁ? 」
先輩は目を細めると、俺のことをじっと見る。あくまで揶揄うような言葉遣いは、そっと肌を撫でられたような感覚がする。
「……もう、ほんと。全っ然、変な、意味じゃ、ないんですけど。今日は凛くんだけに──聞いて貰いたいものがあって」
ただ、自分が作った曲を聞かせるだけなのに……。ただ曲を聞かせるだけ⁉ 嚙み砕いてみると、大分恥ずかしい。しかも自分のファンに! 一番よく思われたい相手なんじゃないの? 変に意識してしまって、言葉が上手く繋げられなかった。
「ボ、ボクだけに⁉ う、うん。そっか。じゃあ、西門いこっか。あそこ人滅多に来ないしさ」
俺は先輩と西門へ向かった。跳ねる心臓を抑えながら歩く。これから告白でもするのかってぐらい緊張している。したことないけど。どうしよう。曲を聞いて、俺がアイリスだって分かってもらえたら。どんな顔をして答えればいい。どんな感情を俺は抱くのだろうか。
「──はい到着。それで、話って何?」
「俺が、作った曲を聞いてほしくて」
先輩は俺の言葉を聞くなり、ピシッとした目つきを俺に向ける。さっきまでの浮ついた足取りはすぐさま消え失せた。途端に足は小刻みに震え始める。膝から下の感覚が薄くなる。
「曲ねー。聞くだけならいいけどさ。厳しいこと初めに言うと、君じゃボクの創作意欲を掻き立てるの無理だと思うよ」
言ってくれる。俺の手にあるのは、お前が愛して止まないアイリスの新曲だ。それもまだ公開されていない完全新曲。俺がお前の為に作った、お前だけの曲だ。
カチカチカチと、スマホの音量を一気に上げて、曲を再生する。
──音楽は鳴る。
先輩の端正な顔。綺麗な形の耳に俺の作った音楽が確かに届いているはずだ。先輩は一度目を大きくすると、ぎゅっと閉じる。そして、音楽に浸かるように首から脱力する。肩の脱力は腕に伝わりぷらんとする。ゾンビみたいに、だらんとした体勢で、顔は垂れる髪で隠れる。
俺の耳にも音楽が入ってくる。幾度も聞いて、聴いて、効いて。もう何が正解なのか分からなくなった頃。やっぱり、ある程度弾けるベースは自分で演奏しようか。ベースだけ本物なら、ギターとドラムはどうする? 何度も寝て起きて、新しい耳で確かめて、捏ねくり回した後、完成だと判断した曲。
耳に馴染むとかいうレベルではない。目覚ましの固定パターン1の次に聞いた音楽。だけど、どうしてこんなにも胸が高鳴るのだろうか。
音楽がフェードアウトする。先輩はゆっくりと上体を起こすと、体の感触を確かめるように首を回しながら、肩なんかを触る。それから、目を開ける。
いつもの先輩のたおやかで温かい顔ではない。冷たい顔。だけど不思議と温かくも感じる。
「
突然呼ばれる名前。もう呼ばれ慣れ始めてきた名前だけど、この名前はどこか違った。心地の良いソプラノで再生された名前は、新譜のCDを再生した時の、あの高揚感に似ていた。
「はい……」
「さっき言ったこと。訂正させてほしい」
淡々と続けられた言葉。俺は唾を飲み込む。
「ボクと一緒に音楽をやってください」
先輩は頭を下げて手を差し出す。小さな姿がさらに小さくなる。視界の上半分。突如として現れる桜の木。揺れる枝から桜が降っては風に運ばれてどこかへ。ぼんやりとした夢見心地な視界。桜よりも美しい肌色にピントが合わさる。俺はその手を迷うことなく取る。
「こちらこそっ! よろしくお願いします!」
顔を上げる先輩の顔に、俺の心臓は一度だけ大きく跳ねた。
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