少女、絶望する

 少女はずっと一人だった。物心つく頃にはもう、親など存在しなかった。


 孤児院の戸を叩いても入れてもらえなかったため、身寄りの無い子どもたちを集めている老婦の家で寝泊まりしていた。


 その老婦に名前はなかった。彼女は子どもたちに自らをただ「おばあさん」と呼ばせる一方で、名すら持たなかった少女を「小夜さよ」と名付けたのだった。


 同じ家に住む子どもたちと遊んでいたときもあったが、老婦が死んだ途端、それまで同じ釜の飯を食らっていた仲間たちは、一瞬で盗んだ食糧を奪い合う敵になった。

 

 盗んで、逃げて、盗んで、逃げて。危ない目に何度も遭いながら、すんでのところで逃れられたのは幸運──あるいは、少女の悪運の強さによるものだったのだろうか。

 

 ある冬のこと。


 一日中かけずり回っても食糧を手に入れることが叶わずに、小夜は棲家すみかとしていた空き家に戻った。すると数人の男たちの声と、何かを叩きつけるような音が聞こえたのだ。


 小夜の目の前が真っ暗になった。空き家が、打ち壊されていたのだ。ちっぽけな脳が寝床を失ったという事実を拒否し、人の気配がするその場から背を向けてただ逃げ出すように走ったのだった。

 

 しかし、いくら辺りを探しても忍び込めそうな家も見つからず、体力が尽きた小夜は道の前にあえなく倒れることになる。


(お腹すいたなぁ。今日も、昨日も……何にも食べてないから)

 

 最後にまともに何か食べてから、一体どのくらい経っただろうか。それすら遠い記憶の彼方、思い出せなかった。

 

(もう、動けない)

 

 呼吸をするたび、寒さで肺がきりきりと痛む。だけど、痛みのおかげで空腹が紛れるなぁ、なんてぼんやり思った。


 ぼろきれを巻いただけの細い足は凍え、やがて感覚は消えていく。

 

 時折道を通る人は、小夜を目に入れないように足早に過ぎるか、もしくは汚物を見るかのような蔑んだ目を向けるかのどちらかだった。

 

 倒れ込んでからしばらくすると、自らに近づいてくる足音が聞こえた。嫌な予感がしたが、もう確認する気力も体力も無い。

 どうせ通り過ぎるだろうと目をつぶっていると、小夜の小さな身体は引っ張られるような衝撃を感じた。

 

 顔を上げると、目を見開いた子どもと目が合う。おそらく女児、歳の頃は小夜より少し幼いくらいだろうか。


 暖をとるのに無いよりマシだと体に巻きつけていた汚い布を、彼女によって剥がされる。うつ伏せだった姿勢が仰向けに転がされ、小夜からたった一枚の布を奪った子どもは、終ぞ一言も発さないままに逃げて行った。


(はぁ……)

 

 怒りさえ湧いてこなかった。小夜だって以前、覚えていないにせよ似たようなことをしていた。この世界は、奪い奪われるのが当たり前だからだ。

 

(ここで、終わりかな)


 冷たい風が頬を撫でる。死を受け入れ、意識が遠のいた瞬間、またぼそぼそとした声と複数の足音が近づいてくるのを感じた。

 

 もう良いのに。

 寒さも痛みも鈍くなっていた小夜は、永遠の安息への予感を妨げられ、いとわしく思った。

 

 うっすら目を開ける。すると数人の中年男性らが、上から小夜をじろじろ見下ろしながら、何やら話し合っているではないか。


「ふむ。小汚いが……器量は悪くないか」


(きりょうって、何)


 数人の男のうち、一番派手な外套がいとうを着た口髭を蓄えた小太りの男が呟いたかと思うと、手に持っていた杖を突き出してきた。つんつん、と無遠慮に杖で突かれる。

 

 小夜も昔、鼠の死骸を木の棒で突いたことがあるのを思い出した。興味本位であったが、きっとその鼠も死んでいるとはいえ不快な思いをしただろう。悪かったな、なんて今更反省する。


「この娘にしよう」


──ガッ!

 腹部に鈍い衝撃が走り、小夜は気を失った。


 次に目を覚ますと、しばらく覚えのない暖かさが全身を包んでいた。これは──布団?

 身じろぎの音で気がついたのか、布団の横で眠っていた中年の女が目を擦る。


「あぁ、起きたの」


 そう言って部屋を出た彼女は、道で見た中年男を呼んで来た。彼は口髭を撫でながら、やはりじろじろと小夜を見て言う。

 

「目が覚めたか? 私はこの村の村長だ。突然だが、お前を娘として我が家に迎え入れることにした。ハッ、みすぼらしい孤児が、せいぜい身に余る光栄と思うんだな」


 村長? 娘?

 突然の言葉に混乱して何も言えずにいると、村長と名乗った男の背中から、ひょっこりと小さな女の子が顔を出した。


「お父さま。この子が、お姉さまになるの?」

「そうだよ、乙羽」


 乙羽おとはと呼ばれた可憐な少女が、無邪気に笑った。


「お前、名前はあるのか?」


 横柄に村長が問いを投げかけて来る。

 名前を持たない孤児など珍しくも無い。しかし彼女は少し迷って、老婦がつけてくれた名前を口にする。


「名前は、小夜……。あの、ありがとう、ございます」


 ちゃんとした礼の仕方など知らない。だから、とりあえずぺこりと頭を下げた。こうしてよく分からないまま義父となった村長は、見下したような目つきで鼻を鳴らして部屋から出ていったのだった。

 

 与えられる食事は夕食の残り物。

 与えられた部屋は邸内の屋根裏。

 与えられる服は乙羽のお下がり。もちろん丈など合った試しがなかった。


 それでも前の生活に比べたら、衣食住があるだけ格段にましだと思った。

 

 だから、屋敷の中で掃除婦に裏で雑用を押し付けられたり、村長夫婦に八つ当たりに殴られたりしても、大して気にならなかった。一応は義理の両親となった彼らには、多少なりとも恩義を感じていたのだ。


 小夜は文字がほとんど読めない。

 邸内の誰に聞いても文字を教えてくれないからだ。かろうじて老婦に教わった簡単な文字が分かるくらいだった。

 とはいえ字が分からずとも、絵は楽しむことができる。地下室の本棚からこっそり数冊本を借りて、挿絵を眺めるのが唯一の楽しみだった。


 自分の年齢は知らなかったが、見た目から乙羽の二つ上ということにされた。


 拾われた日を誕生日として、小夜が十六になった日。


 初めて村長らと同じ長机につき、初めて同じ豪奢な夕食を食べさせられる。こんな機会は今までに無かった。


 人生で一番美味しい食事だと思った。しかしなるべく胃に詰め込もうとしていたら、「意地汚い娘!」と村長の妻に手を叩かれ、止められてしまう。


(それにしてもおかしい……今までこんなことをされたことはなかったのに)


 ぼさぼさでずっと自分で無造作に切っていた髪が、女中の手により切り整えられる。

 そればかりかおまけに化粧まで施され、丈のあった服も初めて着せられる。このように急に身なりを整えさせられた理由がわからず、小夜は首を傾げる。

 

 いくら訳を聞いても、無愛想な女中は答えてくれなかった。

 仕上げられた小夜の前に村長が現れ、一瞥すると満足そうに髭を撫でていやらしく笑った。小夜はこの時、村長の笑顔を初めて見たのだった。


「やっとお前の使が来た」


 連れて行かれた先でどっしりと椅子に座っていたのは、村長より少し上の五十後半ごろと思われる年の男。


「領主様」


 村長は彼をそう呼んだ。

 村長は口髭を生やした小太りの男だが、一方その男──領主は、油ぎった肌にガマガエルのようにでっぷりと肥えた男だった。

 自らの両手をにぎにぎとさせた村長は、横の小夜をちらりと見る。


「こちら娘の小夜、へへ、本日で十六になりました。ほら小夜、挨拶しなさい」

「……小夜、です」


 慣れない派手で長い裾。引き摺らないよう気にしながら、お辞儀をする。突然領主とやらに紹介され、何が何だか分からない。


 そのガマガエルは、頭の頂点からつま先まで、小夜を何度もじろじろとねぶるように見つめてきた。さぁっと産毛が逆立つ。

 小夜はまだ知らなかったが、それは本能的な嫌悪感というものだった。


「ふぉっふぉっふぉ、悪くない。は、予定通り来週執り行おう」

「は、かしこまりました」


 恭しく頭を下げた村長に手で無理矢理抑えられ、小夜は再び頭を下げた。


(しゅうげん、って何だろう)


 その答えを教えてくれたのは、義妹の乙羽だった。

 領主が帰った後、それまで隠れていたかのように姿を見せていなかった彼女が、突然部屋から出てきた。かと思うと、小夜を見て眉を下げるのだ。

 

「お姉さま、可哀想に」

「可哀想……?」


  同情するような素振りではあったが、その表情には嘲りが隠せていない。


 着飾って温かい食事まで摂った小夜の、一体どこ可哀想だというのか。

 意味が分からず首を傾げると、乙羽は歪んだ口元を手で隠した。

 

「祝言よ、祝言」

「しゅうげん、って……?」


乙羽は心底愉快そうに手を叩いて笑った。

 

「あははっ、そんなことも分かっていなかったの!? だけど、お姉さまは頭が悪いものね? いいわ、教えてあげる」


 頭が悪い、と罵られるのはいつものことだった。だけど当然ではないかと思う。何を尋ねても、誰も何も教えてくれないのだから。


「お姉さまは、あの領主と結婚するのよ! 汚らしい手で触れられて、あの男の子どもを産むの!」


 その言葉に、小夜の目の前が真っ暗になる。

 

 結婚。

 その言葉の意味くらいは知っているが、それは愛し合う二人が将来を誓うものでは無かったのか。

 そんな一方的に決められてしまうものなのか。

 

 どうやったら子どもが出来るのかなど小夜には分からなかったが、それでも何故だか悪寒が止まらなかった。


「六年前、この村の村長の娘を領主さまの次の妻にせよ、って土地神さまからの神託が下ったらしいの。だけど、もちろん私はそんなの絶っ対に嫌。だからお父さまがね、を立ててくださったの」


 代わり?


「──それが、お姉さま!」

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