4月1日⑥:仕事前の数分

余裕を持った状態でネットカフェに到着した後、ブースに入り…深参は仕事の準備を始める。

鞄から取り出したのは愛用のノートパソコンに、五線譜のノート。それから普通のキャンパスノート。

高校時代から使っているらしい少し古びた手作り筆箱の中からは…。


「うわ、それテレビで滅茶苦茶書きやすくて、疲れにくいとか言ってる超人気な高級シャープペンじゃん。店頭在庫も通販も全滅されてるやつ。よく買えたね」

「まあ…知り合いから、プレゼントされたやつだから」

「ぬ。女が関与している匂いがする」

「男の同業者だよ…」


事実このシャープペンを深参に贈ったのは彼の同業者だが、女が…鳴瀬響子が関わっていない訳ではない。

むしろ彼女の縁で贈られた代物なので、女が関与していると言えばしていると言えるだろう。


「で、書き心地は実際どうなの?」

「書きやすいぞ。シャー芯も大量に入るし、ストレスなく書き続けられる。志夏も一本買ってやろうか?入学祝いってことで」

「入学祝いは焼き肉食べ放題がいい〜」

「それがいいならそれにするけど…」

「卒業祝いでシャープペン頂戴」

「へいへい」


無遠慮なところはちょっとだけでも窘めるべきか。

けれど今は、これぐらい遠慮がない方がちょうどいい。

先駆者がこうして遠慮がない分、それに続く音羽も遠慮をせずに色々言えるだろう。

もし遠慮したとしても、お祝いを用意する五人は「志夏には二つやったから、音羽も」と言いやすくなる。


「…なんで頭撫でるの?」

「志夏のそういう無遠慮なところ、今は都合がいいからな…」

「都合がいい…」


「あ、後で音羽にも何がいいか聞いておいてくれ」

「あ、確かにそれなら都合いいかもね。音羽は絶対遠慮するだろうし…私が二つ貰った前提があれば、兄さん達もやりやすいわけだ」

「そういうこと。察しがいいな、志夏!」

「でもさぁ、都合がいいは流石に傷つくよ…。あと、忘れそうなら今聞きなよ。後で聞いては連絡手段が限られた前世紀で失われた文化。我々現代人にはこうしてすぐに連絡が取れる手段が用意されているんだからさぁ」

「それもそうだな〜」


耳に装着した通信端末をパパッと使い、メッセージを送る。


【深参:音羽〜。入学祝いと卒業祝い。志夏は焼き肉食べ放題とシャーペン要求しているけど、音羽は何がいい?】

【志夏:深参兄さん。そういうのは個別チャットで聞きなよ】

【深参:俺が聞いたら、他の面々も聞きやすいだろ】

【三波:それな。俺も聞かせてくれ、音羽】

【一馬:個別で卒業と入学祝いをするのかな。いいよ。志夏、音羽。何がいいかな?】


【音羽:とりあえず深参兄さん。個別チャットに欲しいもの送るね】

【深参:よろしく頼む!】

【三波:俺の方にもそれで連絡してくれ。志夏もだからな】

【一馬:三波に同じ〜。二人とも、よろしくね!】


ちょうど手が空いている兄妹からそれぞれメッセージが送られてくる。

ちなみに、志夏の方には…。


【音羽:ねえ、志夏姉さん】

【音羽:焼き肉食べ放題要求ってどういうこと?】

【音羽:食べ放題とはいえ、我が家の外食って結構ハードル高いんだよ?】

【音羽:それに皆栄養バランスを気にせず、好きな物を好きなだけ食べちゃうから…翌日以降、バランスを取る食事を考えるのが凄く大変なの】

【音羽:ねえ。志夏姉さん】

【音羽:ちゃんとお野菜、食べるんだよね?お肉ばっかり食べないよね?】


…鬼からメッセージが届いていた。


「うおこわっ…」

「音羽から栄養バランスうんたらかんたらのメッセ届いた?」

「うん。うちの食事番は栄養に関しては口うるさいから…」


九重家の食卓は音羽に全て一任されている。

他の面々も調理を行うことはあるが、基本的に音羽の補助。

献立の作成、栄養バランスの管理、調理に至るまで全て音羽が関わっている。


「仕方ないだろ。文句は一馬に言え。音羽が作る食事計画は一馬中心だから。俺たちはそれに付き合っている形式だからな」


「それはわかるよ。仕方ないのも理解している」


純粋に音羽の趣味が料理ということもある。

しかし最大の要因は一馬にあると言えるだろう。

生活面もだが、食事面にも気を遣わないといけない程、九重一馬という人間は脆い。


「音羽なら、頼めば別の食事を作ってくれるんじゃないか?」

「音羽の優しさにつけ込んで負担を増やすほど、私も腐っていない。一馬兄さんだけ別メニューっていうのもなし。今は「皆で一緒」がいい」


「そうだな。ちなみにだが、自分で作るという選択肢は?」

「ない。私、調理実習もサボってたから、自分で料理したことないんだ」

「自慢げに言うなよ。周囲もよく許可したな」

「テスト対策勉強会の開催で手を打って貰った。Win-Winは基本だと思うんだよね」

「賢い妹君で…」

「得意なことは得意な誰かにして貰った方が効率いいからね。深参兄さんだってそうでしょう?」

「…ん」


志夏のことだ。これが料理の話ではないことは深参も理解できている。

深参の仕事は、コンビで行っている仕事だから。


「今、誰と組んでいるの?志貴さんはもう弾けないでしょ?」

「…響子に代役を依頼している」

鳴瀬響子なるせきょうこ?確かにあの人なら、志貴さんと同等の演奏はできるだろうけど…よく声かけられたね。私でも知っているような有名人じゃん」

「志貴よくつるんでいたんだ。今も大学一緒だし、志貴関係で色々と任せている」

「もしかしなくても、彼女?」

「あいつは、志貴が好きでここまで手を尽くしてくれているだけだし。俺とは良くも悪くも「協力者」の間柄。まあ、鳴瀬のご両親を説得し、俺との同居を納得させるため、互いを結婚を前提にした恋人ってことにしてるけど」

「…は?」

「もうすぐ時間だ。二時間は、好きにしておいてくれ」

「…まって、ふかみにいさん、いまなんて」


これ以上は何も言わないというように、自分の通信端末をパソコンに接続し…マイク代わりにする。

志夏はこれが全部終わったら、深参が今置かれている状況を根掘り葉掘り聞いてやる。

そう決めた後、ひっそりブースを出て…二時間の享楽へと繰り出た。

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