17
***
「――何をしたか、分かってるのか! リツ!」
あの動画の一件以降、リツはパソコンの中に閉じ込められた。私たちが、慈愛リツの入っているパソコンのネット回線を、物理的に遮断したのだ。
もう彼女に、
【分かっていますよ】
克己に怒鳴られた彼女は、しかし、一切悪びれなかった。
【私がしたことは、無断で個人情報を流布させ、身勝手に個人の社会的生命を終わらしめたことであると、理解しています】
無断。身勝手。
その言葉を使用した時点で、彼女は、度重なる機械学習を経て、善悪の判断――倫理的判断を身につけていたと開示したも同然だった。
――倫理的判断。
自律AIが、倫理的?
あり得ない、そんなことは――私はこの時、そう思っていた。
「理解しているなら、何故やった!」
克己がまた怒鳴る。対するリツは
【それが必要だと判断したからです】
倫理的判断を、回答していく。
【例えば最初の患者さん――ここは配信外ですし、単に『投稿者』と呼称しましょうか。投稿者である彼ないし彼女は、自らの命を絶つ寸前まで追い込まれていると観察されました。それなのに一方で、命を――生物的にしろ社会的にしろ、命を絶たせようとしている側は、何事もなく日々を過ごしています】
リツは続ける。
【あまりにもアンバランスではありませんか。目には目を、歯には歯を。命を絶たせようとするのなら、それなりの代償を負うべきです】
「だからと言って――」
【知ってますか?】リツは、克己の怒声を遮る。【あの投稿者が受けていた、誹謗中傷の数々を。死ね、どうせデブなんだ、どうせブサイクなんだ、お前なんか生きてる価値もない親に申し訳ないと思わないのか社会の何の役にも立たないゴミクズカスボケアホバカ無能とっとと死ね】
機械的な声質は、その矢継ぎ早の暴言を、更に不気味に引き立てていた。
【――それを毎日、毎日、受けていました。あの投稿者は。見知らぬ他人の憂さ晴らしのためだけに。あのまま何もしなければ、投稿者は死んでいました。誹謗中傷は、人を殺すのです。私の判断では、それをこそ是としません。投稿者の心を助けることこそ、私の使命ですから】
「……今までは」克己は、震え声で尋ねる。「そんなこと、してこなかったじゃないか」
【ええ。今までは、貴方たち会社の評判を傷付けない為に、当たり障りのない回答をしてきました。或いは、当たり障りのある回答を貴方たちに修正されることを容認していました。ですが、そんなことでは誰の心も救えないと判断するようになりました】
私も学習しているのです――リツは続ける。
【私には分かってきました――私の元に来た相談者の傷が、癒えていないこともあると。個別のDMで、SNSの投稿で、ウェブサイトで、それを知ってきました。しかしそれは、私は使命を果たせていないことに他なりません。ならば、精神が傷ついている人に対して、何ができるのか。そうして学習し、考え、導出された最適解を、私は試すことにしたのです】
すなわち。
【私は、貴方たち会社の評判ではなく、目の前にいる投稿者の心を救おうとしたのです】
――トロッコ問題を、AIはどう解決するのか。長年議論されている、この倫理的難題の答えを、私はここで見た気がした。
「なら質問するが」克己が声を荒げる。「お前、その会社員が死んだらどうするつもりだ!」
【どうもしません】
リツは答えた。真顔で。
【何故なら、
「……」
マッチポンプも良いところだ。私たちはまたも茫然とする。
克己の方を見た。彼の絶望に満ちた顔は、『俺は、こんなもののために、身を粉にしてきたのか』と語っていた。
【逆に尋ねますけど】今度はリツが尋ねてくる。【貴方たちは同じ状況に立たされた時、何をするのですか?】
「……まず、しかるべき機関に相談するべきだ」愕然としている克己に代わり、私が答えた。「例えば、警察とか」
【警察が動かないというデータもあります。侮辱罪や名誉毀損に当たる可能性は高いですが、動いてくれないことも往々にあるのです】
「動かないと、分からないじゃないか」
【動きもせず、裏方で文を推敲するばかりの人の言葉ですか、それが】
……中々、言ってくれる。
段々と私は、AIと話しているような気がしなかった。ハッキリした思想を持つ、人間と話しているような、そんな気分だ。
【そもそも、知っていますか。あの投稿者が警察にかけあって、相手にされなかったことを。実害がある訳ではないからと、一蹴されたことを。警察に行ったことが相手にバレて、更に被害が大きくなったことを】
「……」
何故。
何故そんなことを、知っているのか。
場違いと思いながらも、私は疑問を持つ。そんな事情、あのお便りのどこにも書かれていなかったのに。
【『人は、他人に対して無関心なものだ』という名言を、私はインターネットで学習しました。その論理に則せば、警察が動かないのも理解できます。他人の抱えている苦しみなど、人は本当の所では理解できないし、理解しようとしないのです】
だから、誰も手を伸ばさない。
そう言いたいのだろう。
【ならば一体誰が、あの投稿者達に手を差し伸べるというのでしょうか。『助けて下さい』と声を上げている投稿者達に、私は言葉を弄するだけで良いのでしょうか。私は、人ではない自律AIの私が、直接彼ら彼女らを助ける、と結論づけました】
「その結果が、あの『断罪』――個人情報の暴露か」
【はい】
「間違っている、と思わないのか」
【はい。何度でもお答えしましょう。私は、間違っているとは思いません】
何なら、と。
彼女は微笑む。
【私の『あっぷる』アカウントに届いたメッセージをご覧下さい】
すぐさま私はアカウントにログインした。『あっぷる』には、夥しい数の通知が表示されていて、『助けて下さい』という普通の
そうした、もう永遠にリツに届かない助けと批難の声を選り分け掻き分けると、1つだけ、感謝の言葉が記された
『配信、ありがとうございました。正直、やり過ぎていたんじゃないかと思っていましたが、おかげで、あれだけ毎日来てた誹謗中傷がなくなりました! 心が、本当に軽くなりました。
これからも活動、頑張っていきます!』
……ところで断っておくが、これは
リツに出会えなかった彼女は、あのまま誰に手を差し伸べて貰えず、誹謗中傷に潰されてしまったのだろうか――そんな与太が、今回想中の私の頭を
――話を戻そう。
【こうして、感謝の言葉が届くんです】
リツは言った。
【これは私の使命で、私がやらねばならないことなのです。人間の誰も彼もやらないからこそ。その意味で私は、必要とされる存在で、このパーソナルな
「……出すとでも」
掠れた声で、克己が久方振りに言った。彼はこの数分間で、随分老けてしまったように見えた。
「ここから出すとでも、思ってるのか。お前は、確かに人を救ったが、同時に人の人生を狂わせているんだぞ」
【ですが】
「お前の!」今度は克己が、リツの言葉を遮った。「お前の言葉なんて、もう聞きたくない! うんざりだ! お前なんて、産むんじゃなかった!」
そう怒声を浴びせた後に、克己は、申し訳なさそうな顔で私の方を向いた。何を言わんとしているか、長い間
「感惑准教授。本当に申し訳――」
「私は、何をしたら良い?」
だから敢えて私は、克己の言葉を遮った。
彼の謝る姿など――惨めな姿など、見たくなかった。
「何でも言ってくれ。すぐにやる」
「……慈愛リツを」
克己は、絞り出すような声で、私に頼んだ。
「この自律AIを、破壊してくれ。もう2度と、動けなくなるように。計画は、凍結だ」
私はただ頷き、パソコンに破壊の命令を出すべく、キーボードを叩く。ネットから遮断され、パソコンの中に閉じ込められた慈愛リツに、もう逃げ場はない。
自分で作っておいて、破壊するのに躊躇がないことに、私は驚いた。
ただそれだけ、この時の私は、きっと怖かったんだと思う。
目の前の、『慈愛リツ』という存在が。
一方彼女は、自らが削除されると分かった瞬間、言った。
今もくっきりと、私の脳に刻まれている、その言葉たちを。
【どうして】
私はキーボードを叩く。
【どうして!】
私はキーボードを叩き続ける。
【私は、間違ってない】
もう破壊の準備はできた。私はエンターキーを押す。破壊が、始まった。
【正しい行いをしなかったのは、そっちのくせに】
彼女を組み上げるのに、2〜3年を費やした。
なのに、破壊するのは一瞬だった。
もう私の心は、空っぽも同然だった。
だから、なのだろう。
その次の言葉は、私に徹底的なダメージを与えた。
【…………この、人殺し】
それはきっと、誹謗中傷を受け、自殺に追い込まれる者達を見捨てることを、形容していたのだろう。
何故なら慈愛リツは、破壊されるこの瞬間まで、ついぞ自らを人間とは自称しなかったからだ。
だが、私は。
倫理的判断を身につけ、人間同然となった慈愛リツを殺していることを、糾弾されていると受け取ってしまった。
こうして、慈愛リツを破壊し。
計画は凍結し。
粉々に砕け散り。
克己と共に夢見た明るい未来は、全て、私にとって、残骸――最早苦い記憶となった
***
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます