〈ホール〉の悪魔
奇物管理課長の
第一に、〈ホール〉は自身の姿を隠す力を持っている――物理的にも、認知的にも。だが、どのような基準で自らの存在を明らかにするのか、そのルールは明らかになっていない。
第二に、〈ホール〉は奇物を産出する。だが、どのようにして、なぜ産出するのかは明らかになっていない。年々、浅層での収量は減っているが、このデータが何を意味しているのかも不明である。
今のところ、第一の特質こそがもっとも大きな問題だった。〈ホール〉は限られた人間の目にしか見えないのだ。資格を持たない人間が〈ホール〉について聞いても、それを記憶することができない。なので政府高官にとっての現実とは、日本のどこかに奇物の産出を一手に担う土地が存在するということと、奇物そのものの効用だけである。
となると、奇物管理課が要求する『ホール維持費』が、実際には何に宛がわれているのか、政府高官には知る由もないのだ。これを疑獄案件なのではないかと疑う者が出はじめるのも当然といえた。
〈ホール〉の知識に触れずにそれを説明するためには、奇物を説明しなければならない。だが、奇物がなんであるか、について現代科学が明確な答えを導けない以上、説明はそこで終わりだ。科学的に認識できないものは論理の壇上に置けない――誤った前提と区別できないからだ。
荏坂の懊悩はいつもこの結論に辿りついて終了する。
彼は、事態が許すのならば奇物管理課を『奇物管理局』として組織化し、日本国の奇物管理状況を健全化したいと考えていた――内閣府の地方創生推進事務局の一課にすぎないこの現状には違和感しかない。だが、局を発足するにはその根拠となる法が必要であるが――話はここに戻るのだが――その産地である〈ホール〉の実在を、日本政府自体が認識できていないために、それは実現不可能な願いとなっていた。
大道市の迷宮街は陸の孤島だった。この土地に注ぎ込まれた情熱と金銭に比べ、ここに住む人間の程度の低さと来たら――荏坂は路上に転がる犬の糞を見かけるたびに、奥歯が擦りきれそうだった。手に入れた奇物の力に溺れ、身を持ち崩す愚か者ばかり。度を越した馬鹿が世の中に放たれないように、駅に自衛隊を配置しなければならないというのは、赤っ恥もいいところだった。奇物管理課が職務を全うできていない証明にほかならないのだ。
町には今にも爆発しそうな奇物使いがごろごろと転がっている。神のようになったおのれの力を、なにも知らない外の世界で振りかざしたいと考える、飢えた獣どもが。
迷宮街の小高い丘に建てられた管理事務所は息が詰まりそうな狭さだった、細い廊下を歩き回り、やがて自分の名前が刻まれたプレートに辿りつと、彼はため息を吐いて扉を開けた。誰もいないオフィス。ブラインドの降りた窓から弱弱しい昼の光が漏れている。彼は後ろ手に鍵を閉めた。
「決断はできそうですか? タカオミ様」
顔を上げると、机の上に誰かが座っているのが見えた。奇妙な灰色の衣を着た女で、あふれんばかりの銀のアクセサリーで身を飾っている。宝石を嵌めるための穴には何もない。銀の刺繍、銀色の長髪、銀のネックレス、アンクレット、ブレスレット、指環――しかし、他の色はなかった。
「まだだ」荏坂は唸るように言った。
「時間はもうありませんよ、閣下」
「まだ、考える時間はあるはずだ」
荏坂はずんずんと部屋の中を進むと、乱暴に棚を開き、半分ほど空いているバーボンの瓶を引っ掴んだ。十年もののブレッド・バーボン。がちゃがちゃとグラスを取り出しながら、彼は女に軽く目配せをした。女は首を左右に振ったので、荏坂は自分の分だけを注いだ。
「なぜ、わたしなんだ」と彼は言った。
「〈ホール〉を認識できる人間の中で、最も権力が強いから」何度も繰り返してきたような口調で、しかし穏やかに女は言った。
「おれはただ、ここで生まれただけだ」荏坂はグラスを呷った。「目の前にあるものを、どうやって無視しながら育つことができる?」
「それが運命」女は静かに答えた。
「くそくらえだ。何もかも。〈ホール〉も、アーティファクトも、はじめからそんなもんがなけりゃ……」彼はグラスを温めるかのように摩った。「国名川院長の娘が迷宮街を見つけた……どうすればいい」
女はうっすらと微笑みを浮かべているだけだった。
「国を売れというのか」荏坂は瓶を傾けてグラスに注いだ。しかしふと気がついた様子で、瓶の方に口をつけた。数秒してから目を見開いて、ごほごほと咳き込む。「おまえは嘘つきだ! 嘘つきの悪魔だ! おれの前から姿を消せ!」
そのとき、オフィスをノックする音があった。「課長? どうなさいました?」
視線を戻すと、女は部屋の中から消えていた。
荏坂は瓶の蓋を閉めると、棚に戻した。むせたときに零してシャツが濡れていた。叩けば消える染みのように思えて何度か叩いたが、あまりにも無益なので、諦めてオフィスの錠を上げた。
「なんでもない」と扉を開けながら彼は言った。扉の前に立っていたのは彼の秘書である真崎だった。肩越しに覗くオフィスは真っ暗だし、シャツの染みから漂う濃厚なアルコール臭に彼女は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに元通りの顔つきに戻った。心配そうな、不安そうな顔である。「すこしお耳に入れたいことが」
「なんだ?」今以上に悪くなることはありえない――。
「国名川ククリさんが」と真崎は言った。「単独で〈ホール〉に潜ったきり、戻って来られないと」
荏坂はくらりとした。あの娘、なぜ一人で。どうしてこちらの準備を待てない。「いつからだ?」
「昨日の十九時からです」
時間はもうありませんよ――。
荏坂はぶるぶると頭を振った。違う。まだ時間はある。
「ただちに捜索隊を組め。絶対に見つけ出して、ここにお連れしろ」ふうと酒臭い息を吐いてから、額に手を当てて、「考えたくもないが」と彼は言った。「もし死んでいたとしても、だ」
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