開口

 はげしい頭痛のようなものにさいなまれてウシトラは目を覚ました。いや、それは頭痛ではない。肩を掴まれて、揺さぶられ続けているような不快感。痛みに酷似した失調だった。

 水、水が必要だ――。頭の中でずっと響いていた虚ろな声が、今度は切実な欲求として自然に再生成された。蛇口に口をつけて、冷たい水道水をこんこんと飲むだけの装置になりたい。この気分の悪さを洗い流せるなら、体内の70%がカルキ水に代わっても文句は言えない。

 つい最近、そんな絶望的なトレードオフについて考えたような気がした。命と金銭に関わることだ。感覚に結びついた記憶イメージが想起されかかるにつれて、ウシトラは意識がはっきりとしはじめ、そして極めて意識的にイメージを押し潰し、水を探した。誰かから電話がかかってきて目が覚めたわけではないということは、すくなくとも自分は今、あらゆる社会的事象を超越した自由な存在なのだ。この寝覚めの弱弱しい意識の炎を、どうしてあからさまに燃え立たせることができるだろうか。

 まだ頭はぼんやりとしていた。ウシトラは洗い場に立ち、蛇口をひねった。キイと甲高い音が鳴ったが、水は出なかった。水道が止まっているのか? 背筋を悪寒が走って、「いや」と声が出た。「そんなはずはない」もしかしたら来月からは払えなくなっていたかもしれないが、すくなくとも昨日の今日で止まることはないはずだ。

 キッチンの曇り硝子からは、朝焼けを思わせる白い光が差し込んできていた。彼は目を細め、まじまじと、奇妙なものを見定めるかのように首を傾げた。

 ここは誰の家だ?

 ウシトラの家にキッチンはなかった。大昔、ホールを探索するために各地から訪れた人々が建てた非常に狭い共同住宅の一室で、ベッドとトイレのほかには何も無い所に、彼は住んでいたのだ。ウシトラは振り返る。

「なんだ、こりゃ……」思わず呟いた。

 真っ先に目に入ったのは螺旋階段だった。貴族的ではなく、素朴なオーク材で組まれた代物で、部屋の中央からキッチン側に寄ったところに、こじんまりと設置されている。天井は高く、どうやら二階の床に当たる部分はくりぬかれて吹き抜けになっているようだ。螺旋階段はキッチンの頭上にあたる部分に接続し、中二階の廊下になっているらしい。廊下は部屋の壁をぐるりと一周しているようだった。

 階段の向こうにはケルト風の絨毯が敷いてあり、三人掛けのソファがひとつ載せられていた。向かい合うようにして灰の被った暖炉。さらに向こうに目を遣ると、ほとんど暗闇に覆われていたが、小さな窓がふたつと、両開きらしき玄関口が見えた。

 ウシトラは螺旋階段の側桁を指でなぞりながら回り込んで、そしてソファの背に触れてまた触感を確かめた。どれもひんやりとしている。部屋の中央あたりでは、焦げ臭いような、草のような不思議な香りがした。そこではじめて彼は、自分がこのソファに寝転がっていたことを思い出した。光に誘われて流し台に辿りついたのだ。まだ彼は靴を履いていたので、絨毯を踏むのは避けた。

 玄関口に立ち、彼はゆっくりとそれを押し開けた。

 びゅう――と、強い雨の匂いが混ざった風が吹いたが、持続的ではなかった。ウシトラはゴミが入らないように目を細めて、それから愕然とした表情で見開いた。何も無い。いや、何も見えない。

 辺り一面霧に覆われて真っ白だった。十メートルほど先までは視界が届くが、それ以上は完全に霧の中だ。足下に目をやる。イネ科のように見える、五センチにも満たないような短い草だ。その一種類だけが生えて、四方八方に続いている。まるで高原に生える牧草のようだ――と思うと、ウシトラはこの辺りの空気がやたらに薄いように思えた。

「寒っ……」ウシトラは両腕を掴んで摩った。なぜか上裸で、その引き締まった筋肉をおしげもなく露わにしていたのだった。さすがに身にこたえる寒風が、ゆっくりとその周辺を循環しているらしい。彼は踵を返し、再び家の中に入った。

 発作的に全身をまさぐってスマートフォンを探した。肌にポケットがあるはずもない。

 家主を待つしかないらしい。それにしても、暗いな。彼は荒い息のまま電灯のスイッチを探した。壁を探っていると触り慣れた突起が見つかったが、押しても反応は無い。水道も止まっているようだし、この家は公共料金を支払っていないんじゃなかろうか。

 だが、ブレーカーが落ちているだけの可能性もある。ウシトラは薄暗闇の中で首をくるりと回し、居室の隅に、地下へ通じる階段を発見した。じっとしているのが我慢ならなかった彼は、家主に断りを入れるつもりにはなれず、大股でそちらに向かった。

 地下へ続く踏板は、ぎいぎいと軋んで音を立てた。地階が薄闇なのに、その下が明るいはずもなく、ウシトラはため息を吐きながらも、どうしても上に戻ろうとは思わなかった。階段の一番下に立つと、真っ赤に塗られた箱が壁際に設置されていた。中を開いてみると、救急箱と懐中電灯が収められていた。こりゃいい。ウシトラは懐中電灯のスイッチを入れ、地下室を照らし出した。

 ぎょっとしたのは、その狭い空間に扉がついていたことだ。縦に長い銀色の観音開きで、上部はアーチ型になっている。何か文字のようなものが掘られているが、棒っ切れの模写じみていて、日本語でも英語でもなさそうだった。丸い光溜まりをきょろきょろと動かしてみると、階段の先にブレーカーを発見した。そのすぐそばには、横倒しにされた樽のような機械も見える。ウシトラはぴんときた。これは発電機だ。チェンソーのトリガーみたいなのを引くと、どるどる鳴って電気を作りはじめる……。薄ぼんやりとした知識でそのトリガーを探していると、機械の表面に、0と1を組み合わせたという、あの見慣れた電源マークを発見した。押してみると、ブーンと静かな低周波が鳴り始めて、ピン、ピンと電灯が点きはじめる音がした。イマドキは何でもこのマークってところか。

 地下室には、大きな扉と発電機のほかに、ドラム式洗濯機と、乱雑に積まれたたくさんの木箱があった。地面は土のままだが、ふしぎと湿ってはいないし、黴臭くもない。

 ウシトラが地階に戻ると、まるで嵐の日にずる休みをしたときのような、なんとも言い難い郷愁が胸を過った。柔らかい橙色の光がそうさせるのか、それとも窓の向こうが真っ白なのがそうさせるのかは、わからなかったが。ウシトラは、螺旋階段を上ってみようかと考えた。

 そのとき、玄関が開いた。家主が帰ってきたのか? ウシトラが振り返ると――そこに居たのは、肩で息をしている女だった。女、というか、

「国名川」ウシトラは名前を呼んだ。「さん」

「不動さん」ククリは青ざめたまま名前を呼び返した。「起きたんですね」

「あんたの家だったのか」

 ウシトラがそう言うと、ククリは抗議のために人差し指を立てて、それからじっくりと粘り強く己の内面と対話し、ぶるりと震えた。「あなたの家でしょ?」

「おれは大道のアパートに住んでるんだ」

「そうなのかもしれませんけど、ここはわたしの家ではありません」

 ククリは玄関の扉を閉めると、その場で靴を脱ぎだした。それを見て、ウシトラもブーツを脱ぐ。彼女はそのままよたよたと歩いて、疲れ切った様子でソファに倒れ込んだ。ウシトラは頭の中で状況を整理してみてから、こんなもん整理しようもないとわかって、暖炉の前に足を運んだ。火かき棒で灰を掻きだして、暖炉わきにストックされていた薪を何本か放り込む。黒檀めいた材のマントルピースには、水牛の角で作られた置物や、植物の植わった小さな鉢植えが置いてあり、その間にマッチの箱が横並びで据えられていた。

 火が点くと、部屋は急激に温かくなってきた。それまで10度近かったのだということにウシトラはようやく思い至った。彼はしばらく暖炉の傍を離れられず身じろぎしていたが、キッチンの脇に冷蔵庫を発見し、小走りで向かった。ずんぐりむっくりした、古めかしい外装の冷蔵庫だったが、中に入っている水は本物だった! ウシトラは水の瓶――そんなもの、見たことも聞いたこともなかったが――を二本取り出すと、うち一本の栓をキッチンの縁で開けて、味を確かめた。何も問題がなさそうだとわかると、それをククリに差し出した。「飲んだほうが良い」

 ククリは「ありがとうございます」と言うと、むくりと起き上って、ソファから降りてその前に三角座りをした。もう少し火に近づきたかったのかもしれない。ウシトラはものの数十秒で瓶の中を空にしてしまうと、爽快な気持ちをすこしは取り戻せた。

「どうやってここに来たのか思い出せますか?」

「いんや」ウシトラは瓶の口をほとんどしゃぶるようにしながら逆さにして言った。声はくぐもっている。

「あなたが目覚める前に、ここを出て行こうとしていたんですが」とククリはやや申し訳なさそうに言った。「どこまで行っても霧ばかりで、二時間以上当てもなく歩き回ってたんです」

 ククリはぶるりと体を震わせた。見知らぬ土地で、前も後ろもわからずに彷徨い続けるというのは、快い経験ではなかったらしい。

「本当か? 二時間も歩いて、誰とも出会わなかったのか?」

「それどころか、何も見つかりませんでした。道路も、人の家も、それどころか木も、花もなにも生えてません。声もなにも聞こえません。ずっと同じ地面、同じ景色で、自分の足音だけ……。急にこの家の灯りが見えて、やっと戻って来れたんです」

「運がよかったな」ウシトラはソファに腰かけた。炎の熱を脛に感じる。「とりあえず、霧が晴れるのを待とうじゃないか。それか家主が帰ってくるのを」

「そうですね」

 そう言うククリの表情は晴れやかとは言えなかった。ウシトラの言葉を嘘だと思っているかのようだった。

 夜はすぐにやってきた、ほんの数時間で。辺りは星も見えない漆黒に包まれた――霧がまだ出ているのだ。それと同時に家の電灯もすっかり消えてしまい、ウシトラが地下室の発電機を何度触っても、うんともすんともいわなくなってしまった。

 気温はどんどん下がり、外は氷点下近くなってしまった。いまや暖炉だけが唯一の灯りということもあり、火は絶やすわけにはいかなくなった。

 家の中を探索したが、特段、状況の打開策になりそうなものはなかった。二階には一台のベッドがあり、クローゼットの中には衣類が詰め込まれていた。それでようやくウシトラは上裸から解放され、ちらちらと盗み見てくる少女の視線から逃れることができた。長袖のシャツに、赤茶色のベストという格好だった。

 待てども待てども、家主は帰ってこなかった。

 いよいよ何かがおかしいと認める気になって、ウシトラは暖炉に薪を放りながら、さまざまな考えを口にした。「思い出したことをまとめると」彼はククリとの会話を総括した。「おれたちは〈地上帰還〉と思われる奇物を起動して、その後ここで目覚めた、ということか」

「つまりここは、ホールのどこか別の場所、ということですね?」

 ククリの言葉に、ウシトラは一拍おいてから答えた。「奇物そのものの内部である可能性も否めない」

 その発言の根拠となるかのように、彼は自分の左手を暖炉にかざした。そこには、彼が意識を失う前にはあったがなかった。黒蜥蜴のメスの牙が、その掌を穿っていたはずなのだ。しかし、いまではピンク色の傷跡を残すばかりで、ほとんど完治していた。このことが何を意味しているのかはわからない。だが、ひどく複雑なことが起こったのは間違いない。

「きみは奇物やホールについてどのくらい詳しい?」

 ウシトラが尋ねると、ククリはしばらく黙っていた。それから、「歴史だけは学んできました」と、なるべく潔く無知を認めた。「これから学ぶところだったんです。わたしは……まだ登録したばかりで。そんな目で見ないでください。怒ってるんですか? 救助に来たのが素人だったから」

 ウシトラは大口を開けて肩をいからせたが、すぐに口を閉じて、床を見つめた。「いや……普通なら引き返すところを助けに来てくれたんだ。感謝してもしきれない」

「だったら感謝の言葉を聞かせてほしいものです」

「だけどあんたは――」

「ククリ」と彼女は遮って言った。「あるいは国名川さん、どちらかで呼ぶべきです、わたしを不快にさせたくないなら。あんた、なんて呼ばれたくはありません」

「きみはとても危険なことをしていたのをわかってるのか? おれは、たしかにあのままじゃ、死ぬ運命にあったかもしれない。だけど関係のないきみまで死ぬところだったんだぞ。たまたま、蚤の市であの〈地上帰還〉――に似た……、を買って、持ってきていなかったら。そして今、その奇物のせいで、結局はふたりとも、よくわからない空間に捕えられてる。きみは勉強してからここに来るべきだったんだ」

「それで?」

「だから――いや、まあ……ありがとう」ウシトラは首を左右に振った。なぜいつも彼女のペースなのか。「一旦は、窮地を脱したわけだしな……。文句を言ってすまない」

「わたしの生まれは長野の松本です」彼女は暖炉の火に視線を移した。「座ったらいかがですか?」

 ウシトラはためらったが、キッチンの傍にある勝手口から夜気が忍び込んできていたので、抵抗の意志は削がれた。彼はすごすごとソファに近づき、その傍らに立った。「いつごろからホールに興味を?」

「生まれたときから。わたしはいわゆる〈嵐の子供〉というもので――」

「奇物の効能で命を救われた」

「そう、赤ん坊のころにね」彼女は続けた。「わたしは未熟児で、心臓に遺伝性の疾患を抱えていたのです。産まれる前に死ぬ予定でした。ですが病院が保管していた、七つ道具のひとつで息を吹き返したというわけです」

 ウシトラはまじまじと彼女の姿を眺めた。奇物が人の命を救うことは珍しくない。だが、赤ん坊を蘇生するために病院で使われる例は非常に少ないのだ。生命に関わる奇物は操作が困難を極めるが、医者のすべてがそれに熟達しているわけではない。そして国家公認の熟練者がいつも病院のシフトに入っているわけではない。

 〈嵐の子供〉は、いくつもの偶然を潜り抜けた先でしか存在できない生命体だった。

「興味を持つのに充分でしょう?」

 振り返ってそう言われ、ウシトラはこくりと頷いた。実物には初めてお目にかかったな――。

「高校を出てから、わたしは日本中を探し回って、ようやく大道市に辿りついたんです。奇物の宮、〈嵐の日〉の発生源――。はあ、どれだけ苦労したか。関係各所にかけあって、ようやく第一坑洞の探索許可が降りたのが昨日でした」

「初仕事が救助依頼だったのは、考えなしだったんじゃないか」

「最悪は私自身が救難信号を出せば済むと」彼女はソファの端に寄った。「ですが、あなたの痕跡を辿っているうちに、どんどん下に降りていて。気がつけばあんな所に」

 ククリはすこし気まずげに目をそらしてから、気を取り直した様子でウシトラを見つめた。「なぜ第三界にいたのか、改めてお聞かせしてもらっても? それに、なぜ他の誰もあなたを助けに行こうとしなかったのですか? 私が確認した時点で、あなたの救助依頼が発効されてから数時間経っていましたよ」

 ウシトラははあとため息を吐いて、それから一際空いたスペースに吸い寄せられるようにしてソファに座った。軽く体をククリの方に向け、暖炉を見つめたまま話しはじめる。

「おれは嫌われものなんだ」

 ちらりと目線を向けると、がっちり捕えて離さないようなククリの眼光に射貫かれて、ウシトラは軽く身をのけぞった。

「続けて?」

 ウシトラは言葉を選んだ。

「正確に言うと……はあ、わかった、ちゃんと話す。推測も交えるが。

 ――きみは、モノモチという生き物を知ってるか? 下の界に通じる穴の周辺に巣を造る」

「図鑑で、名前だけは。ホールの代表生物、モチモドキ科の一種ですね? カベモチ、モノモチ、チカラモチ。モノモチは、たしか奇物を集める習性があるとかいう」ククリは思案気に空中を見つめながら言った。そして振り返り、「――そう、不動さんは、そのモノモチの巣を発見したんですよね?」

 ククリと初めて会った時、遭難の理由をそう説明したことをウシトラは思い出した。苦い表情で、「そうだ。そのとき、おれのほかにも、もう何人かいた」彼は指を組み合わせて、その間に視線を置いた。

「――まさか……」ククリは眉間に皺を寄せた。

 そのときのことは、ウシトラにはありありと思い出せた。

 ウシトラが危険を示す標識を立てようと、モノモチの巣に近づいたとき――彼は後ろから、思い切り蹴飛ばされたのだ。

 細い穴を滑り落ちていく感覚。思い出すだけでウシトラは身震いした。どこへ繋がっているのかもわからない――ひょっとしたら深い底で行き止まりになっている可能性も――ねじくれた粘液のウォータースライダーに運ばれている間は、まさに恐怖のひとことだった。

 彼が事の顛末を語り終えると、ククリは言葉を失ったようだった。あまりにも生々しい犯罪行為に絶句しているのだ。

「仲間じゃない、たまたま居合わせただけの……運のいいやつらだ」おれは何を弁護しているつもりなのだろう。「あのときは、あいつらが二の腕にスカーフをしている理由がわからなかったけど……おそらく土堂組のマークを隠してたんだろう」

「土堂組?」

「ああ、市外のひとは知らないか」ウシトラは苦々しくはにかんだ。「こずるいやつらだよ。町の半グレが集まってできた、小規模な悪党集団だ。だけど、頭領を名乗ってる土堂 ゼンという男だけは格が違ってる。もともとは市外のヤクザかなにかで、町に来たはじめのころは真面目に探索者をやってたみたいだが――『狙った相手を不幸のどん底に落とす』とかいう、でたらめな奇物を掘り当ててから、がらりと態度が変わった。今じゃその奇物の力に怯えて、誰も土堂善の直々のお達しには逆らえないということさ」

「彼がこの町を支配しているの?」ククリは信じられないと言った様子で、前のめりに尋ねた。ウシトラは少し端に寄ってから、「いや、そういうわけじゃない。……少なくとも、支配してるわけじゃない」と答えた。「あらゆる奇物には、効能に見合った制限が存在する。タダで魔法を使えるわけじゃない。土堂の奇物も、無制限に発動できるわけじゃない。だから――むしろ、『使わない』方が、みんなの恐怖を煽れるということに気づいたんだろうな。やつは滅多にその奇物をちらつかせない。だから、敢えて敵対するよりは、見て見ぬふりをした方が安全だとみんなは思う。大きな間違いさ。ヤツがそれをちらつかせた一瞬だけは、間違いなくこの町はヤツの思いのままになるんだからな」

「それが、あなたの話とどう関係するのか……」

「モノモチの巣だよ! あれはすごい物なんだ」ウシトラは興奮気味に言った。「モノモチというのは、白濁とした粘液質の体表を持つ、こぶし大からトラックのタイヤくらいまでの大きさを持つ丸い生き物だ。目も耳もなく、大気中のを察知して周囲の状況を知り、戦車の履帯のように、体表部を回転させて進む。そのモノモチの最も優れた才能が、奇物を発見し、体内に貯蔵するというものだ。だから、『ホールでモノモチを発見したら、必ず捕まえろ』というのが探索者の金言だよ」

「それで?」

「それで――」ウシトラはこほんと咳をして、テンションを下げた。「つまり、モノモチを見つけたら、奇物をひとつ手に入れたも同然というわけだ。なら、その巣を見つけたらどうだ? より取り見取りだ! そうだ、大通りで魔道具店を見たか?」ウシトラはテーマパークでのできごとを話す子供のように尋ねた。「どうだ? 《まほろば》は? 《マギ・クィーンズ》は?」

「見ましたよ」ククリも思い出に浸るように、頬をほころばせた。

「そうか、蚤の市にも行ったんだっけ? モノモチの巣は、つかみ取りゼロ円の出血大セールってところだよ。品質はピンキリだが、ひょっとすると、上級品がまぎれていることもありえる。売れば大金持ちになれるし、売らずに自分のものにすれば、とてつもない力を得ることもできる」

「なるほど」ククリはすらりと長い脚を組んだ。「あなたがモノモチの巣の発見者だと言い出せば、法的に所有権は分割される」

「やつが奇物を『チラ見せ』する動機になるだろ?」

「だから、市外から来たばかりで、何も知らないわたし以外、誰もあなたを助けようとしなかった?」

「友だちの少なさが裏目に出たってわけさ」

「少ないんですか?」

 ウシトラは鼻を掻いた。「まあ……というか、友だちはいない」

「なぜ?」

「なぜ?」オウム返ししてから、ウシトラは軽く身をゆすった。「邪魔……だから。そんな目で見ないでくれ! 人を見下してるわけじゃない、本当だ。ただ、複数人で行動するのが苦手なんだ。というか、みんながおれを苦手に思うんだよ。周りと考えが合わない。おれにはデリカシーが無いんだ」

「そうなんですか?」

「……自分じゃそうは思わないけど」ウシトラは肩を落とした。「よくそう言われる」

「ゆっくり治していけばいいんじゃないですか。まわりに合わせられるように」

 ウシトラは眉根を寄せた。「その努力をするより、独りでいる方がずっと楽だ」

「なるほど」ククリは深く頷いた。「それには同意ですね! わたしも、わたしという人間にいて来られない人と、仲良くする努力は絶対にしません。時間の無駄ですから」

 ウシトラはじろりとククリを見つめた。

「おまえさあ、みんなから傲慢だって言われないか?」

「おまえじゃなくて――」

「ククリ」ウシトラは咄嗟に言い換えた。「ちゃん……」

 ククリはきょとんとしてから、ふっと笑みを浮かべた。「ちゃんは余計です。まあいいでしょう」彼女は肩を竦めた。「不動さん――いえ、不動クン。では、あなたに尋ねましょう。傲慢で何がいけないのでしょうか? 人間というのは謙虚に縮こまったところから、天才も凡人になっていくのです。わたしは学校で、そして日本中を歩き回るがてら、そんな人を何人も見てきました。であるなら、傲慢さこそ、凡人が天才になるための道だとも考えられませんか。わたしは自分を過大評価しませんが、リスクを取ることを躊躇しません。挑戦を続けていれば人間は絶対に成長するんです。その例も、いくらでもあげられます。たとえば、わたしはナポレオンなどを、この考えの体現者であると評価しています」

「なんか、うらやましいよ」ウシトラはますます背を丸めて、膝の間に両手を落とした。

 そのとき、何か不気味な音がした。地鳴りのような、石臼を回しているような怪音だ。ウシトラは立ち上がって、鋭く目を光らせた。

「地下だ」彼はすばやくあたりをつけると、キッチンの調理スペースに置いてあった懐中電灯を手に取り、スイッチを入れた。

「なんの音でしょう……?」ククリはソファの側面に身を隠し、地下室の方をおそるおそる伺っていた。

「確認してくる」

 ウシトラは手を差し出した。ククリははっと気がついて、己の腰に吊り下げていた短剣をウシトラに手渡した。玄関口に揃えてあった安全靴にすばやく足を通すと、彼は片手で懐中電灯を逆手に持ち、もう片手で剣を構えながら、ゆっくりと階段に近づいていった。地下へ続く階段は、日中とは異なって、まるで生き物の口のように思えた。なぜ自ら、その怪物の胃へと進んでいくんだ――野生本能の名残がそんなふうに警鐘を鳴らしているのを感じる。それを黙殺して抑えつけると、彼はゆっくりと階段を降りて行った。足の先を体と並行にしながら、音を殺すように、一段、一段……。

 地下室は昼と変わらないように見えた。機能停止した発電機。ドラム式洗濯機。大きな銀の扉――。

 扉が開いている。

 凍えるような冷たい空気が漏れ出していた。ウシトラは階段の底に足をつけると、颯爽と翻って、地下室の全体をすばやく照らしていった。

「誰だ?」ウシトラは叫んだ。

 木箱の山が崩されていた。その中心で、何かガサゴソと音がしている。

 ウシトラはゆっくりと足を交互に出して、木箱に近づく。

 ライトに照らされたのは――。

「おおっ……これはサバ缶! こっちは……ニシンだ!」

「なんだこりゃ……?」

 紫がかった、黒い襤褸布を纏ったがそこに居た。体躯の大きさはどう見積もっても50センチそこそこだが、体型にフィットした特製の甲冑を着こんでいるらしい。盗み見えた横顔は、鳥を模した仮面のようなものに隠されており、口の辺りには立派な白いカイゼル髭がついている。体型はずんぐりむっくりで、手指は赤ん坊のように太っぽい。実際、体格のいい赤ん坊のように見えなくもなかった。声は甲高く、まるで少年のようだ。

 その生き物は木箱の中身を漁るのに夢中で、しばらくの間ライトに照らされたことに気がついてもいないようだった。というか、やっと手元の文字が読めた様子で、目を細めて缶を光に晒している。缶を手元に近づけ、離して、位置を変え、そしてくるりと振り返った。

「眩しッ」

 ウシトラはライトを逸らした。「悪い」

 その生き物は、手を軽く振った。「いや、こちらこそ」それは頭を左右に捩じってから、「こんな所で人間に会うなんて思っても――人間?」

 ウシトラは自分の身体を見下ろした。「ああ、うん。人間だけど」

「ナイフ!」

 突然の大声にウシトラはびくりとした。そういえば、剣を構えたままだ――。目の前の生物はキッと眼を細め、缶を放り捨てる。襤褸のマントが翻えって、腰元からシャキン、と音が鳴った。その体長ほどもある剣が引き抜かれたのだ。

「やああ――っ‼」

 生物は跳びかかってきた。ウシトラは咄嗟の判断ですばやく身をかがめると、剣でその刃を受け止める。意外な重み。彼は懐中電灯を放り捨て、両手でそれを受け止めた。判断が遅れていれば、力負けしてざっくりと体を斬られていた――。

「ほう、なかなかやるようだな」生き物は子供の声で言った。「これならどうだ」

 地下室に転がった懐中電灯が、ゆっくりと光源の位置を変えながら一部始終を照らし出した。カキン、キンと小気味のいい音が鳴るたびに、暗闇で火花が散る。二者の姿が光の中に躍り出て、また闇へ消える。ウシトラの瞳孔は開いており、息は浅く、死なないために全力で戦いに没頭していた。相手の太刀筋は滅茶苦茶だが、その腕力は二人前はある上、一メートル以上も身長が低いことが苦戦の原因だった。その短い得物で、剛力を次々に捌く様は、ほとんど達人技だったが――、曲芸も長くは続かなかった。

「これで終いだあっ」

「くっ――⁉」

 相手の刃が短剣の根を捉えた。その瞬間、みしっと嫌な音がして、ウシトラは慌てて武器を手放す。すると、金属がめらめらと燃えて、剣は罅割れ部分から砕け散ってしまった。「奇物か」ウシトラは吐き捨てるように言った。

 まずい、殺される――。

「不動くん? なんの音でした?」

 ぎしっと階段を踏み鳴らしながら、ククリがゆっくりと降りて来る。

「人間の仲間か!」小さな騎士はぎろりと目を向け、剣を構え直した。

 その一瞬の隙をウシトラは見逃さなかった。彼はほとんど脊髄反射で騎士の懐に飛び込むと、思い切り地面を踏みしめ、反対の脚をぶん回した。安全靴の先端が剣のどてっぱらに吸い込まれる。折った――!

 ガンッと重い音とともに、剣はその衝撃をすべて吸収した。

「なっ……⁉」

 騎士はくるりと振り返った。

 鰐の内側から、青い焔がめらめらと零れだしてきた。新たな技か? ウシトラが警戒に目を鋭くすると、騎士は慌てた様子で剣を掲げた。「うわああッ⁉」炎は徐々に時間をかけて、一層強く噴き上がり、騎士の仮面を焦がし、カイゼル髭を燃やしている。事故――、いや故障か!「離せ!」ウシトラは叫んだ。「離さないと死ぬぞ!」

 騎士は躊躇したが、ついにその剣を手放した。

 すると剣の炎は徐々に緑色に変わっていき、先ほど短剣を打ち崩したように、自らを崩壊させていった。そして、炎が消える寸前、一際強い、真っ白な光がカッと飛び出した。その光は風のように周囲に広がって、そしてウシトラに向けて強く降り注いだ。「ううッ……⁉」肉体から心が剥されそうになるような恐ろしい振動を、彼は経験した。

 しばらくその風に耐えていると、光は消え去った。剣はまだめらめらと燃えていたが、赤い残り火のようなものだった。

 騎士はがくりとその場で四つん這いになって、剣を見つめていた。

「吾輩の名剣が、吾輩の見つけた、吾輩の財宝が……」

 その意気消沈具合にはさすがに憐れみが湧き、ウシトラはしばらくそこに立ち尽くした。「その……」彼は言った。「そう、気を落とすなよ。武器なんて、使ってればいつかは壊れる。また見つかるさ」

 騎士はバッと顔を上げた。火にあぶられて割れた仮面からは、大きくて丸い子供の眼が見えていた。

「そうだろうか」少年は言った。

「おれが保証するよ」

「優しいのだな、おぬし……」その目はうっすらと涙が浮かんでいた。「吾輩はおぬしを殺そうとしたというのに、それなのに……」

「まあ、うん……お互い行き違いがあっただけだ……」

 なぜ心にもないことを言っているのだろう。ウシトラは子供に甘い自分がいやになった。というか――目の前に居る存在が人間ではないことなど、発言からしてもわかりきっているではないか。それに、その体躯しかり、その膂力の異常さからしても、この生物は――。

「もう平気そうですか?」

 降りてきたククリは、地階から降り注ぐ暖炉の淡い光で妖しく照らし出されていた。

「おおお……!」

 それを目にした騎士は、哀れっぽい声を上げてから、その短い脚で跳ねるようにして階段の元に近づいていった。ウシトラははてなマークを浮かべながらそれを眺め、それを止めるべきか否か考えていた。

「ああ!」騎士はそう叫ぶと、片膝をついてこうべを垂れた。「わが魂の飼い主を見出した! お名前をお聞かせください、マダム」

「なんて調子のいいやつ」先ほどまで見せていた悲壮な顔など、もうどこにもない。ウシトラは呆れながらも、自分はさきほどまでの闘いの余韻が抜けきらず、息を整えながらその様子を見ていた。止める必要はなさそうだ。

「わたしですか? ククリと言いますが――」

「姫、ククリ姫!」騎士は叫ぶように、身もだえするように言った。「わが剣をお取りください。そして卑しい吾輩めを、あなたの近衛として叙していただけませぬか」

「姫? フーム!」ククリは唸った。「構いませんよ!」

「考えて決めろー」ウシトラは地下室の奥から、理性的精神を代表して呼びかけた。

 それで少し冷静さを取り戻したのか、ククリは一拍おいてから言った。「念のため訊きますが、解任も自由ですか?」

「もちろんでございます。ですが、ああ!」少年は身体をがたがたと震わせた。「あなた様に見捨てられようものなら、わが生存の恥、わが生命の仇となりましょう」

「けっこう図々しいな」ウシトラは呟いた。

「剣を取るって言いました? 剣なんてどこにあります?」

 騎士は手を腰の左に伸ばして、すかっと空振りさせた。「あっ……」

 彼は焦ったようにウシトラを見つめる。

 ウシトラは目をぱちくりさせてから、やがて思い至り、「この家に、刃物はもう無いぞ。どっちも燃え尽きちまったからな」

「そ、そんな!」彼は雷に打たれたように立ち上がった。「そんなばかなことが! 愛すべきおかたを見つけたというのに、吾輩はそのしもべになることも許されない!」

 そのまま騎士はわあわあと叫びながら地下室を歩き回り、情緒不安定に木箱を拳で殴ったり、隅っこの壁に爪を立てて項垂れながらおいおいと泣きはじめた。こうなったら誰にも手出しできない。ウシトラは銀の扉を閉めると、ククリに手伝わせて、中身の詰まった木箱で扉の前を塞いだ。騎士はまだ自己憐憫を楽しんでいるようで一向に話ができる状態にならない。ふたりは騎士を放置して地階に戻り、ソファに座って泣き声が止むのを待っているうちに、緊張がゆるんだせいか――それとも目に見えない疲れがたまっていたせいか、暖炉の温かさのなかで、ゆっくりと眠りについていった。

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