ホール・ダンジョンエブリデイ!
うやまゆう
隠者の根城編
邂逅
90年代前半の大道市は、関東平野のうらぶれた地方都市であった。お偉方のぶん回しによって戦後まもなく石炭採掘で財貨の山を築くも、人間の楽観視を嘲笑う地質学上の奇妙な巡り会わせによって、たったひと世代で炭田は枯渇、あたかも永遠に更新されない大作ネット小説のごとく、この石炭層の更新力はその日以来完全に停止した。市政は冷や汗だらだらで必死に探鉱を繰り返すも、結果は振るわず、徐々に借金がかさみ――さらに追い打ちで、中東で興ったエネルギー革命の波が、ついに日本に上陸した。石炭で成り上がった多くの都市が、石油の台頭による艱難辛苦を免れ得なかったように、大道市もまた離脱症状に悩まされながら衰退し、後に遺されたのは石炭どころか金属の筋ひとつ浮かんでいない、皮肉にも鉱毒すら滲まない、爽快な坑道だけであった。一旦は炭鉱のことを忘れ、他の事業に手を出した市長もいた。粘り強い調査の結果、大道市が桃の生育にすこぶる適した土地ということが明らかになり、山梨県甲州市から二百株の桃の苗を購入、十年かけて品種改良を進めた『大道桃』計画は、やたらと黄色くて水っぽい、粉薬のような味がする桃の偽物のような果物を生み出して、大失敗の烙印と共に終了した。一転して坑道に目を戻し、キノコ栽培や、水力発電の貯水など、いくらか再利用の目途が立てられるも、財政健全化は遅々として進まなかった。大道市は忘れられた都市として、どことなくしみったれた空気を漂わせながら、負の遺産を相続し続けるというただそれだけを目的に、近代まで政治的意図ひとつで生かされ続けていたのである。
なぜ突然、こんな気の滅入るような話をするのか。この物語が、あの失敗したはずの大道黄桃をきっかけに、一躍再生を果たす地方自治体のサクセスストーリーだからなのか。
答えは「半分YES」だ。
およそ半世紀前、
地の底から、あるいは、どことも知れぬ処から……。
空しさに震える坑道を、黄金の風が吹き抜けた。
それが〈嵐の日〉――それがすべての始まりだった!
風は瞬く間に勢力を増し、嵐のように大道市を呑み込んだ。トタン屋根を飛ばし、木目の板を引き剥がした。砂利が渦を巻いて金物が窓を割った。赤ん坊の声ですら一つ辻をいけば掻き消えるような、日本狼の最後の遠吠えと共に雷風は曇天を裂いた。七夕に満天の星空を残して、そして――音も立てず、嵐は消えた。
しばらくの間、何も起こらなかった。人々は静寂の中、ただ待った。やがて夜更かしな蝉が、伺うように、おずおずと鳴きはじめても、まだ待った。何かが起こりそうな気がしたからだ。だが、その日は結局、それ以上何も起こらなかった。虫の大群か、天然ガスの噴出か、ガス爆発かと新聞は騒いだが、人々がどれだけ首をひねっても、やっぱり何も起こらなかった。なんかありそうだと思えば思うほど、それを裏切るように何も起こらなかった。数週間経って、それを待つストレスに耐えられず、何人も町を出ていった。あるいは炭鉱事業がそうなったように、今度は不動産バブルが崩壊する霊的な前兆なんじゃないかと、半ば本気で疑う声もあった。直ちに実業に投資せよと、神霊が訓示したと云うのである。それから国の調査隊が訪れて、訳知り顔で地面を穴だらけにしていったが、大したことは言わなかった。たぶん、炭鉱の奥に溜まっていた圧縮ガスが落盤と共に解放され、低い温度で燃えながら噴き上がってきたのだろう、と大学教授が新聞で説いて、それが一気に通説となった。通説とはいえ、奇妙に奇妙を重ねるような話だった。調査隊が去って間を置かず、一旦は出ていった人々が、すごすごと町に戻ってきた。天然ガスの嵐という話はいかにも信じられそうだったし、なんだかんだと言ってバブル経済は好調で、他に資産があるのなら大道は良い避暑地なのだった。新たに設けられた桃果樹園の林も、トレッキングコースとしては贅沢な部類だった。
そして人々が事件についてすっかり忘れ、世間じゃソ連が崩壊したり湾岸戦争が勃発したりと大変なことになっているさなか、同時期、宇宙飛行士の
とある主婦が自宅の庭先で掘り当てたそれは、種の入った小さな袋だった。
〈ホール〉! それは奇跡が眠る不思議な穴。パンドラの甕であり、ミーミルの泉であり、ホルスの眼。ワルプルギスの夜、九年と九か月と九十九日の歳月をかけて露わとなるその財宝を、人々が自らの足で尋ねにゆくための、穴。邪悪にして神聖な穴、穴、穴。
婦人は生まれたての〈ホール〉から花の種を手に入れた。それが大道市の名産、あの大道黄桃を窮地から救い、ひいては大道市そのものを救うことになる、世界で初めての
彼女が己の墓穴のつもりで掘っていたものは、金の鉱脈だった。
そして恐ろしい停滞の時代は何かを言いかけたまま、ウウムと唸って口を閉じたのである。
*
不動
彼のいる小部屋はしんと静まり返っていた。よどんだ空気は土くさく、肺一杯に吸い込みたいと思えるにおいをしていない。壁の中を走る鉱脈が、幻想的に青っぽく光って、部屋の中央に横たわっている黒い獣を照らしている。狐のような顔に、体の側面から生える蜥蜴のような手足、先端に羽根のような飾りがある、長く細い尾。毛並みは脂っぽく艶やかで、触れると棘のように硬いはずだ。その獣の頭部には片刃の斧がめり込んでいて、周囲には青色の血痕が広がっていた。
思考が巡る。その度に左手がずきずきと傷んだ。根元からぽっきり折れている黄ばんだ獣の牙が、彼の手の甲を貫通して、掌の側にその先端を露出しているのだった。それを抜くべきか、いや血が止まっているあのだから今は抜かないべきだ、しかし毒があるのではなかったか、いや貫通しているのだから暴露していないはずで――数分ごとにそんな思考が湧き上がって、痛み以上にずっと消耗させられていた。結局のところ、この小部屋を出ない言い訳を探しているだけに過ぎないのだ
そのとき、どろどろどろと何かが崩れるような音がして、洞窟がびりびり揺れた。ウシトラは青ざめて壁に張り付く。心臓が胸の中から飛び出そうと、ばくばく体を叩いているのがたまらなく不快だった。天上の鍾乳石の間から、ぱらぱらと屑が零れ落ちてくる。目を瞑ってしばらく息を止める。そして目を開けて、部屋の中央へ視線を注ぐ。
こいつがおれの死か、それとも単なる厄介事か。ウシトラは額に滲む脂汗を拭うこともせず、口を一文字に結んでいた。絶対に文句は呟かないのだった。〈ホール〉は不思議な場所だが、現実だ。頼ることができるのは己のみだ。
ざり、と部屋の外から地面を踏みしめる音がした。ウシトラの体はすぐに緊張で強張って、獣の頭蓋を割ったまま放置されていた斧を、素早い動作で引きぬいた。血はほどんと乾いていて、パリパリと剥すような音が鳴る。それを不気味に思う気持ちも湧かない。
入り口付近の壁に背をつけて、体を小さく折り畳む。さきほどとはまた違ったふうに心臓が波打っている。目を見開き、浅くともしっかり、音が鳴らないように息を吐いて、吸う。足音が近づいて来る。部屋の中に、薄ぼんやりと影が投げ出される。ウシトラは斧の柄を握りしめて、大きく振りかぶった。
「え――と、反応はこの辺りから……」
ウシトラは大声を上げた。
部屋の中に入ってきたのが人間だった――このままでは頭をかち割って殺してしまう――というショックも大きかったが、コンマ五秒でそれに反応した彼の肉体が、ありえない筋肉の急制動で筋痙攣を起こしたせいだった。本来、実行されるしかない動きを、まったく別の筋肉の動きで相殺しようとした結果、彼は脇腹から背中全体と、脇を通って二の腕の辺りまで、万遍なく細胞が絶叫したのを確かに聞いた。しかしそれは自分の声だったかもしれない。
ウシトラはその場に倒れ込み、のたうち回っておんおん鳴いた。あうあうと唸った。痛い痛い痛いーと掠れた声で繰り返した。広範囲にわたる筋痙攣は、足先を攣ったときなどに感じるあの痛みとは、ちょっと質的に違っている。人間の形でいることに嫌気が差すような痛みだ。
そして彼はぼろぼろと涙を流した。息をしているだけでメキメキと音が鳴っているようだった。
一方、部屋に入ってきた女性はというと、その様子を見て「あ、え……、ああ」と動揺するばかりだった。ウシトラはそれどころではなかったが、「なんだこいつ。どんくさいな」と、頭の奥底ではちゃんとムカついていた。頭が回るというのも考え物である。
結局、彼は十分まるまる放置された。その十分間で、入室してきた人物の心証は、ウシトラの中で地の底まで下がった。なんなら、彼女から直接拷問を受けたような気がした。いや、気がする、どころではない。拷問されたのだ。
「あの……だ、大丈夫ですか?」
やや静かになったと見るや否や、女性はおそるおそる口を開いた。彼女は床の上に正座をして、ウシトラを覗き込んでいた。彼は荒い息を整えながら、眉間に皺を寄せて、軽く微笑みながら言った。「ちょっとお腹が痛いけどね」
「ならよかったです」
「あの、胃薬持ってないかな? これから大量に必要な気がして」
女性はごそごそと肩掛けのポーチを探り、「すみません、無かったです」と言った。その仕草がまたウシトラの癇に障った。無いことがなぜわからないのか。持ってきていないならそうとわかっているはずだ。しかし、そんなことをぐちぐち言っても始まらない。生産性の無い怒りだけが、人間の感情の中で唯一つまらないものだと彼にはわかっていた。それは眠れない夜にポエムを書き殴りたくなるナイーヴな感情よりも、二重に輪をかけてつまらないものなのだ。彼はふーっと息を吐いた。まだ脇腹が鈍く痛んでいて、もっと苛立て、理不尽に怒れと囁いているかのようだった。無性に涙が流れそうだった。
女性ははっと気づいたように再びポーチに手を突っ込んだ。ウシトラは何かを期待したが、そこから出てきたのは樹脂に覆われた金属製のカードだった。彼女の顔写真と、名前と、その他もろもろの情報が記されている。具体的に何かを予想していたわけではないが、それは少なくともウシトラが期待した物ではなかった。彼は口を半開きにして、「クソ」と言いたい気持ちを堪えた。女性は堂々とした態度で言った。
「
すこし沈黙。
次の瞬間、ウシトラはぱあっと表情を明るくした。「きゅ、救助か⁉」
「はい。えーと」ククリはシャツの袖を捲って、手首の腕時計を確認した。「六時間十二分前に申請時間を超過しましたので、組合から救助依頼が公開されました。それをわたしが四時間前に受注し、今しがた現場に到着したという運びです」
それは福音だった。詳細はどうでもいい――助かるのだ。ウシトラはどっと疲労が湧きだしてくるのを感じた。しかし嫌な疲労ではない。これは安心感だ。ここまで来れるほど優秀な救助人なら、手負いの人間一人担いでいたとしても、のんびり
突然、国為川ククリというこの女性が、ウシトラには美しく見え始めた。つい先ほどまで顔が描いてあるだけの木の人形のようだったのに、今では『レイダース/失われたアーク』のカレン・アレン並みの美女である。目は大きくて曇りなく、視線が良く通る力強い眼光だった。髪は本来長いのだろうが、上手く編み込んで、後頭部に団子状にまとめている。土汚れのついているシャツにカーゴパンツ、肩掛けのポーチというこなれた服装も、何か底知れない余裕を感じさせた。
「ありがとう、本当にありがとう。よく来てくれた。もうここで死ぬのかと思ってたんです」
ウシトラはへとへとな顔で言った。この救助にいくら払うことになるのかわからないが、たとえそれが全財産だったとしても、とりあえず構わない。今すぐ病院で治療を受けて、温かいベッドでどっぷり眠りたい、というのが彼の全身全霊の望みだった。次に〈ホール〉へ潜るのに、少なくとも一ヶ月は間を開けたいところだ。
その時、またどろどろと洞窟が揺れた。ウシトラは顔をこわばらせた。
「
「少し休憩してからでもいいのでは? その……お腹具合のこともありますし」
ウシトラは目を丸くした。「いや、そんな場合でもないでしょう。おれはほら、一頭倒すのにも精いっぱいなんで、孵化が始まったら何もできませんよ」
ククリはこほんと咳をした。「それもそうですね。ここは空気も悪いですし」
彼女の受け答えになんとなく釈然としないものは覚えつつ、ウシトラは斧を拾い上げ、ベルトのホルダーに収めた。どうも、彼女はとてつもないベテランなのではないか、という気がしてならない。そうでなければ、なぜ第三界――【嵐の喉】――で、ここまで余裕をぶっこけるというのか。しかし、彼女の名前は聞いたことがない――それは何か特殊な事情を持っていることの証左であるようにウシトラには思えた。
「先生、武器は?」ウシトラは言った。
「――先生、ですか?」ククリはきょとんとした。
「あ、失礼、口が軽くて」
「いえ、大丈夫です。先生、ですか。ふむ!」彼女はこくこく頷いた。「武器はこれです」
彼女はベルトに吊り下がっている鞘から、三十センチほどの、脇差のような両刃の短剣を引き抜いた。重々しい鈍色が切れ味を予感させる。ウシトラはごくりと唾を飲んだ。ククリナイフじゃないのか、という笑い話は置いておいて――こんな武器で戦えるということは、やはり相当の手練れである。もしかすると、何か奇物で実力を底上げしているのかもしれない。そう思うと、少し憧れさえ感じた。ウシトラはいまだに、〈ホール〉探索で使えるような、自分のための奇物を一つも持っていなかった。
再びどろどろと洞窟が揺れた。「行きましょう」ククリはそう言って、さっさと部屋を後にした。ウシトラはその素早さに驚きつつも、おそるおそる肩を回して筋肉を柔軟にしながら、慌ててその背中を追った。
【嵐の喉】はスポンジ状の領域だった。蟻の巣を、真ん中だけくりぬいたような形状といえるだろう。中央を巨大な空洞が貫通しており、その周辺に天然迷路が張り巡らされているのだ。岩肌は蒼白く見えるが、素材が青いのではなく、その中を通っている鉱石の筋が輝いて周辺を照らしている。光り方が綺麗なので、この石を集める仕事もあるくらいだ。結局そうやって人が掘り進めるから、迷路は人工的にも拡大しており、年々遭難者は増えていた。
「どうして
「ちょっと、モノモチを深追いしましてね。実は巣を見つけて――」
ククリは立ち止まって振り返った。「興味深い話ですね」
ウシトラは少し得意になった。「奇物だらけでしたよ。あれを全部持って帰れたら、おれは今ごろひと財産持ってただろうな」だが、その言葉にはどこか虚しい響きがあった。「その後、巣穴に足を滑らせましてね。気がついたら三界ですよ」
「それはご愁傷様です。ところで巣の規模は? どこにあったんです?」
ウシトラは頭を掻いた。「それについては、
「そうですか」
「――あの、ところで道、合ってます?」
ウシトラが首を長くしてククリの後ろを見ると、そこは明らかに行き止まりだった。
ククリは袖を捲って腕時計を確認する。どうやら文字盤の部分が普通よりもずっと大きく、液晶になっているようだ。「おかしいですね。地図だとここに道があるんですが」
「ちょっと見せてもらえます?」
ウシトラが覗き込む。たしかに第三界の地図のようだが――。
「なんだこれ……あの、古くありません?」
「え?」
ウシトラがジェスチャーで縮小して全体像をみると、あきらかに彼の知っている最新版の地図より道の数が少ないのだった。新たに人間が掘り進めているであろう細かな道が反映されていない。ということは少なくとも半年ほど前の地図ということになる。しかし――地図は更新されているもので、毎日自動的にアップデートされるものだ。どうしてこんなことになるのか、ウシトラには見当もつかなかった。
しかしククリには思い当たる節があるのか、言葉数少なく、「なるほど」と答えた。ウシトラはそれを聞いて、ほんのり望みが絶たれるのを感じた。
「道を埋めるカベモチのせいで、この辺の構造はよく変わるんですよ。まあ当然知ってるでしょうけど。……ん?」と言ってから、ウシトラはさらに眉間の皺を深くした。「あの、これジャイロは……ジャイロ持ってます?」
「ジャイロ?」
「方向指示器」
〈ホール〉の中でGPSは機能しない。二界までなら、各所に設置されている電波中継器との通信で位置を割り出すこともできるが、三界からは中継器が無い。そのため、ここからはジャイロと呼ばれるハードウェアが必須になる。これは移動距離と方向を記録し続けている非電気的な装置で、地図などを表示する装置と組み合わせれば、正確なガイドをおこなうことができるというものだ。
ククリは聞いたこともなさそうに、ふんふんと興味深そうに頷いている。ウシトラは愕然とし、ほんとに大丈夫かと思いながら、それでもまだ彼女の余裕に圧倒されていた。三界は水平距離が半径二キロ、垂直距離が半径六キロに及ぶ広大な空間で、黒蜥蜴の産卵期は通りがかる人もまったくいないことから、一度迷ったら死亡確定と言われている本物の魔境だ。だが、ククリはまったく動じていないようにウシトラには見えた。
「その――どうするんです?」ウシトラは一旦、彼女の意見を聞いてみることにした。
「フーム、こっちに行きましょう」
しばらく行くと、何やら嫌なにおいが漂い始めた。洗っていない犬のような、獣臭いにおいだ。このにおいには思い出があった。楽しい思い出ではない。ウシトラはしばらく黙っていたが、徐々に無視できなくなり言った。「先生、こっちの道はまずいんじゃ?」
「ふむ。やはりそうですか」
「この方向に出口があるなら、別ですけど……?」
試すような口ぶりで、ウシトラは上目づかいに訊いてみた。するとククリは、「うーん……」と首をひねってから「じゃあ、引き返しましょうか」とあっさり言った。
「あ、あのォ――!」言ってから、ウシトラはごくりと唾を呑み込んだ。思いのほか大きな声が出てしまった。ククリは立ち止まって、じっと彼を見つめ返した。やはり、どっしりと構えている。だが――だが、訊かないわけにはいかない。ウシトラはゆっくりと口を開いた。「あの、出口の位置が、わからないんですか?」
ククリはミミズクのように首をかしげた。「はい」
「は――"はい"……⁉」
「はい」ククリはこくりと頷いた。「えっと、当然ですよね……? 地図は古いし、位置も方角もわからないんですよ? どうやって出口の位置を知ることができるんですか? もしかして、何か方法があるんですか?」
「いや、その、あの、それ全部おれの台詞のような気が」ウシトラは大きく腕を振り乱した。左手に貫通しているモノがじんじん痛んだが気にならなかった。「でも、何か方法があるんじゃないんですか? じゃあ今、おれたちは行き当たりばったりで進んでるってこと? 来た道を絶対に戻らないとしても、全部歩き切るのに一年かかるって言われてるのに?」
「はい。それ以外に――」
「無いけど! 方法わ!」ウシトラは吐ききってから、ゆっくり息を整えた。「で、でも、ほんとに何も無い……? 何も持ってきてないのか? 何か便利な奇物とか……」
「もともと二界で遭難しているという話でしたし」ククリは片足に重心を乗せて佇んでいた。「一応、それなりの準備はしてきたつもりですが、あんまり役に立ちそうじゃありませんね」
その佇まいからは、彼女が遭難状態にあるのだということは一切明らかになっていなかった。なんという佇まいであろうか。状況を完全にコントロールできていると信じている人間のそれではないか。ウシトラは衝撃を受けていた。こんな人間が居ていいのか。とっくに変な事件に巻き込まれて死んでいるべきじゃないのか。それが自然淘汰ってやつだろう。
そのとき、通路の向こうから唸り声がした。はっとウシトラが前に飛び出し、ゆっくりと右手で斧を構える。
黒蜥蜴だ。しかも二頭。成獣になったばかりの番のようにウシトラには見えた。雌は大柄だが、毒にさえ気を付けていればそこまで危険ではない。しかし問題は雄だ。小柄な雄には。針状の毛が束ねられてできた鱗のような部位が腕から張り出しており、それがまたよく切れるのである。
「おれは雌をやります。雄をお願いします」ウシトラはじりじりと間合いを詰めながら言った。
「あの……、どっちが雄ですか?」
ウシトラはぞわぞわした感覚が顔中を覆ったような気がした。「先生、黒蜥蜴と戦ったことは?」
「いえ、わたし、魔獣と戦ったこと自体がなくて」
「戦ったことが無い⁉」ウシトラは振り返りそうになったが、なんとかそれは堪えた。その大声に黒蜥蜴がビクついた。「いや――」その話は後だ。「わかった、まず雄をやる。小さい方だ。一瞬でいいから、大きい方を引きつけてくれ。デカい声を出してくれればいいから」
「わ、わかりました」彼女は構えた。
「いくぞ!」
ククリはたっぷりと肺を膨らませた。怪物を前にしているというのに、力を込めたあまり目をつぶってしまっていた。眉間に皺が寄り、恥知らずに口を大きく開いて、
「わ~」
と言った。
ウシトラは同時に二頭の黒蜥蜴を相手取って、かつてない大立ち回りを演じた。守らなければならない人間が後ろに立っていると、ここまで神経が研ぎ澄まされるものかと己で戦慄したほどだ。下あごを砕いて大物を片付けると、ウシトラは肩で息をしながらその場に跪いた。「もう、終わりだな!」と彼は爽やかに叫んだ。「おれたちここで死ぬんだ!」
「まだ決まったわけでは……」
「黙ってろ、役立たず」ウシトラは興奮していた。雄を殺したのは初めての経験で、まだ腕が震えていた。
「そういう言い方はひどいんじゃないですか?」ククリは一丁前に肩を怒らせた。「言われた通りに手伝ったじゃないですか。あんまり引きつけられなかったけど」
ウシトラの目じりには涙が浮かんでいた。あんまりだ。希望をちらつかせてから、こんな風に奪うなんて。神様はサディストだ。この世界は広大なSMクラブのプレイルームだ。
どうせ死ぬしかないのなら——ウシトラの頭の中に、何かほの暗い思考が昇ってきた——もう、めちゃくちゃにしてしまってもいいのではないか。
彼はどんよりと曇った目でククリに向き直った。鈍感なククリも、さすがにその目つきには危険を感じ取る。
「あの……どうしました?」
ウシトラは黙ったまま、上を脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっ、何してるんです?」ククリは慌てて止めようとしたが、ウシトラはそれを振り切って上着をすべて脱いでしまった。「気でも狂ったんですか?」
「違う」と彼はしっかりした声色で言った。
ククリはぱっと表情を明るくした。
「なにか意図が?」
「ああ」ウシトラは頷いた。そして、作戦を説明するような口調で、ゆっくりと言う。「今から辞世の句を詠むから、そのナイフで首を掻っ切ってくれないか?」
「わあ‼」ククリはその言葉に突き飛ばされたかのように、その場にへたりこんだ。「え?」
「いぬる間に 冷たき鞘の つるぎかな」
「ひいっ、詠まないでくださいっ! あー、あー、聞いてない聞いてない……」
「私の居ない間に愛刀の鞘はすっかりと冷たくなってしまうように、私の戻るべき場所のすべてが、誰からも顧みられなくなるのだろうなあ」
「現代語訳はやめてください」ククリはよろよろと立ち上がって、ウシトラの両肩を掴んだ。がっしりと筋肉質で、異性の身体に触れたことのなかったククリはどきりとしたが、その肌が冷たく震えていたので、あまり乙女チックにしてもいられなかった。「気を確かに持ってください。第一、私の刀では小さすぎて、首を斬るなんてできませんよ!」
「それもそうか」
ウシトラがそう言って項垂れるので、ククリはほっとため息を吐いた。
「じゃあ切腹にしよ」
もみ合いが始まった。ククリの腰に差してある刀をなんとか引き抜こうとウシトラは懸命に手を伸ばし、ククリは全精力をかけてそれを阻んだ。「やめてください」彼女は叫んだ。「切腹にも介錯が要るんですよ!」体格差は著しく、本来であればククリに抵抗の余地はなかっただろうが、今のウシトラは大型犬くらいの膂力しか発揮できていなかった。だが、それで二人の力量はちょうど釣り合うくらいだった。彼女らは洞窟質の床に転がった。そのとき、ククリが肩から下げていた鞄から、ごちゃごちゃと何かが落ちていった。ガラクタか、そうでなくても玩具のように見える代物だった。すると、ウシトラは不意に体の力を抜いた。一瞬死んでしまったのかと思い、ククリは情けない声を上げて彼を突き飛ばした。
ウシトラは尻餅をついたかと思うと、小動物じみた素早さで、鞄から零れ落ちた小物に飛びついた。「これは」と彼は動揺を滲ませた。「アーティファクト」
ククリは息を整えながら、ウシトラの様子をじっと見つめていた。数十秒たっぷりと観察し、どうやら落ち着いているようだと判断すると、言った。「はい、地上から持ってきたアーティファクトです……」
「〈地上帰還〉じゃないか!」ウシトラはルービックキューブのような大きさの立方体を持ち上げ、人類で初めて火種を作りだした人物のように、神々しく天に掲げた。
「え? なんですか?」
ウシトラは目蓋を何度もぱちぱちさせた。まるで右フックを強かに食らったかのように酸欠気味だった。「なあ、これ持ってたんなら、なんで」
「行きがけに蚤の市で買って、そのまま持ってきただけですけど」
「あああ……!」
ウシトラは気持ち悪くなった。味わったことのないような、すさまじい気分だった。喜びではない。体中がむず痒くなって、鳥肌が立っていた。涙は流れていないのに嗚咽が出た。国為川ククリという女の人生が、そしてその何気ない行動の一つ一つが、ここまで自分の生命を弄んでいるという事実に激しく動揺していたのだ。血の気が引いた。だが、やはり、喜ぶべきなのだろう。そうだ、喜ぶべきなのだ。
ウシトラはキューブの起動ボタンを押した。二度とこの女とは関わり合いになりたくないと、強く願いながら。
しかし、これで終わりなわけがなかったのである。
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