Tchaikovsky: Francesca da Rimini Op.32
そろそろ後半が始まる頃だ。客席に戻る観客たちの様子を見るとわかる。休憩時間を挟んでも会場の興奮がさめることなく、みんながエリカが見せた鮮烈な逆転劇に酔ってるまま。こんな雰囲気の中で後半をやるなら、よほどのミスでなければ失敗だと思われることがない。多少手を抜いて適当にやっても観客たちが勝手に盛り上げるだろう。
でも生真面目なエリカがそんな軽い気持ちでステージに臨むわけがない。そもそも前半の『交響曲第四番』はただの過去の清算にすぎない。この『フランチェスカ・ダ・リミニ』で観客に伝えたいことがあるみたいだし、エリカにとってここからが本番とも言える。もし『第四番』という今日のメインディッシュが終わったから残りはもう消化試合だと思う評論家がいたら、この後びっくりするかもね。エリカがやろうとしてることが私の予想通りなら。
チャイコフスキーの交響詩の中で人気ダントツなのは『ロメオとジュリエット』。『フランチェスカ・ダ・リミニ』はおそらく二番目の知名度を有している……と言っても、『テンペスト』、『ハムレット』などと大差がない。互角とも言えるかな。演奏時間は24分<*1>くらい、個別の曲としてはかなり長い部類。元ネタはダンテの『神曲』、エリカの大好物の悲恋話だ。そして「運命の翻弄」をテーマにしてるから、今日の前半で演奏された『交響曲第四番』に通ずるところがある。同じ時期で作曲されたこともあり、CDアルバムなどもよくこの二曲を一緒に収録する。今日のコンサートみたいに。
曲は基本的に序曲によく採用されるA-B-A形式で進む。導入部の序奏からいきなりダークで不穏な展開。タムタム(銅鑼みたいな打楽器)の弱い音は観客を不安させるし、先陣を切る金管による圧迫感は重苦しい雰囲気を作る。作品の舞台は『神曲』で描かれた地獄の第二圏。そこにあるのは、色欲に溺れた者たちが荒れ狂う暴風に吹き流される光景。家の都合でリミニの領主のもとへ嫁いだ貴族令嬢フランチェスカは、醜い領主ではなくその弟の美青年と恋に落ちた。しかし二人の逢瀬が見つかり、怒り狂う領主に殺されてしまった。そんな色欲の罪を犯した二人の死後地獄に流される様子がこの『フランチェスカ・ダ・リミニ』だ。
ハイテンポな主部に入っても曲の性格は薄気味悪いまま。この作品では各楽器にそれぞれ見せ場があるが、私が一番注目しているのはここからのフルート。軽く奏でる柔らかい高速音階、まるで死の谷を吹く黒い風。非常に気味が悪い。地獄の第二圏は風による責め苦がメインだから、この曲は風の音を模す表現が特に多いような気がする。風がだんだん強くなり、影に潜んでいた脅威もついに姿を……そう言えばここで口火を切るのはトロンボーンだが……おお、トラブルもなくかっこよく決めた。まぁ前半の成功で自信をつけたから問題ないよね。
主部のクライマックスは非常に攻撃的。圧倒的な勢いで襲来する黒い津波のような瘴気、直視できないほどに猛威を振るう強風、罪人たちの怨嗟と呪詛……そんな無慈悲で、無惨な光景だ。それでも恋に落ちた二人は一旦脅威をやり過ごした。風が弱まり、ようやく止んだところで哀愁漂うクラリネットの独奏が中間部を呼び出す。この中間部の大半で弦楽は弱音器をつけたままにする。もう一つのテーマは歌うように愛を語る。三連符や五連符を駆使して、流れるような不定形なリズムをメロディに仕込む。それは時間感覚まで曖昧になる、甘くて濃厚な恋人同士の触れ合い。
次のシーンで雰囲気が変わり、コーラングレとハープが主役になる。曲の動きがやや活発的、少し舞曲っぽくに。まるで湖のほとりのひとときみたい。地獄とは思えない美しい景色、そして水鳥たちが睦まじく戯れるのを二人一緒に眺めて、一緒に笑う。バレエ音楽からもわかるが、こういう情景の描写はチャイコフスキーの真骨頂と言えるね。
再び愛を語り合うパートに入ると、ここで弦楽は弱音器を外して、金管だけでなくバスドラムまで投入して大迫力なシーンを構築する。もう残り時間が少ないと悟ったから、悔いを残さないために、さっきよりも激しくお互いを求める。執拗なくらいに語られる情熱的な言葉。時が止まったように感じる長い抱擁。終わってほしくない幸せ……何もかもを忘れてしまいそうなくらいにまで愛を確かめる。すごい、さすがは悲恋話が大好物のエリカと言うべきか。まるで恋愛映画を観てるように、臨場感が半端ない。恋愛などよくわからない私がこれをやるときっとここまでできない。どうしても淡白な感じになると思う。
そんなときいきなり曇り空に閃光が走る。無情な雷が恋人たちの時間を終わらせた。導入部のモチーフをちら見せして、すぐに地獄風景を描く主部に戻る。二人がまた黒い風に吹き飛ばされ、今度は周りの物にしがみつくこともできず、そのまま深淵に落とされる――そう、ここだよね。エリカが『フランチェスカ・ダ・リミニ』をやろうと思った理由はきっとこれ。音楽誌のコラムに心無い中傷を投稿した連中に、「地獄に堕ちろ」というメッセージを送るのが本当の目的だね。
コーダに入る途端また一段加速して、竜巻のようなおぞましい瘴気に何もかもが飲み込まれる。特に印象深いのはあの高い音域で往復する不気味な半音階。まるで黒板に爪を立てる、悲鳴のような音。最後はタムタムの強音によってすべての望みが絶たれ、曲は深い絶望の中に終わる。
最高のパフォーマンスを見せてくれたエリカに応えようと熱狂する観客席だけど、中にはエリカの怒りのメッセージを受け取った、顔面蒼白な人もいるような気がする。
私と目が合った瞬間エリカは満面の笑みを浮かべ、こっちに手を大きく振ってくれた。
(ちょ、はしたないよ!カーテンコールでそんなことやっちゃダメだよ!)
幸いエリカがはっちゃけるのはこの一瞬だけ。これくらいなら、ちょっとお茶目ないたずら程度で済むか。
(……しかし、あの熱烈な悲恋を表現するパート、どうしてあんなにも臨場感あふれる感じに仕上げるができたの?まさか、エリカにはそういう相手が……?)
ふっとさっき目が合ったときエリカの熱を帯びる視線と眩しい笑顔を思い出す。
(……えっ?いやっ、まさか、ねぇ……)
~~~~~~
<*1>楽曲の実際の演奏時間は繰り返しの省略や指揮者の速度指示で大きく変動するからあくまで目安です。
無駄に期待させても悪いので、先に明言しておきます。この作品に「ガールズラブ」のタグがついていません。アリアとエリカや他のキャラのちょっとゆりっぽい展開はこれからもあるかもしれませんが、この作品では今回くらいの程度が限界だと思ってください。
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