Tchaikovsky: Symphony No.4 Op.36

 本日のコンサートは私がエリカに勧めたチャイコフスキーの『交響曲第四番』から始まる。普通なら本題である交響曲をコンサートの後半に置くから、プログラムを見たとき多分みんな妙だと思ったんだろう。しかしこの『交響曲第四番』をちゃんと終わらせない限り、エリカは躓いたままで前に踏み出せない。だからこれはエリカにとって、立ち直るためのとても大切な儀式だ。


 ホーンとファゴットの悲痛な叫びから序奏が始まる。そして二回目はさらに規模が拡大して、管楽器全体を巻き込む慟哭になる。この『交響曲第四番』の入り方はすごく衝撃的、とても強烈な印象を与える。作曲者本人によると、このテーマはまさに「運命」そのもの。避けられない試練、あるいは突然に訪れる悲劇……とにかく人々を幸福から遠ざけるような概念的な存在。曲の中で何度も……というほど登場はしてないけど、肝心なところでは必ずこのテーマが再び現れるから、これも循環主題だと言えるだろう。


 ちなみに、チャイコフスキーの『第五番』でも序盤早々で循環主題をはっきりと前に出して、それが運命のテーマだと例えられている。『第四番』と並べて比べると色々興味深い考察ができると思う。おそらくあの不幸な婚姻の直後だから、『第四番』の運命のテーマは非常に苛烈で激しい苦痛が伴う形になった。それから十年経って、周りは相変わらず不幸な出来事が多いが、色々人生経験を積んで物事をより深く見るようになったからか、『第五番』の運命のテーマの初登場は陰鬱だが落ち着いている、そして何かを暗示しているような感じに。


 提示部に入ると、第一主題は独特な9/8拍子のモチーフが何度も何度も繰り返される。それもしつこいと感じるくらい。まるでまとわりつく悪夢。まさにエリカにとってのこの一週間みたいに。これほど長い第一主題なのに、他に要素がなくずっと同じモチーフが変化し続ける、非常に純粋な構成。必然的にこの粘着質な悪夢は非常に大きい存在感を得る。


 ようやく悪夢から解放され、心が落ち着いたところで第二主題が始まる。フレーズの最後にある木管による高速下行音階が特徴的だ。この第二主題を例えると、それはありふれた日常の喜び、淡々と続く穏やかな幸せ。でもしばらくすると、日常の中に第一主題が混ざるようになった。ここの第一主題は最初の悪夢ではなく、連綿不断で、美しく優雅な形に変化したが、それでも観客たちは気づいてしまう。ここはまだ夢境の中だと。いくら幸せの時間が増えても、喜びのベクトルが上がって狂喜の舞いになっても、やっぱりそれはただの夢。そんな虚しい現実をはっきりと認識した瞬間すべての幸せが反転して、猛々しい運命のテーマが現れ提示部の終わりを告げる。それにしても、狂喜の舞いのところのホーンの演奏はすごいな。NZTOのホーンの実力がすば抜けているからこれほどの迫力が出たね。チームワークに問題はあるけど、こういう個人技術を見せるところは外さないのがNZTOの強みだ。


 思えばこの『第四番』の時間配分は極端に偏っている。初演の後批評家に第一楽章が長すぎてよくないと言われたほどだ。全曲おおよそ演奏時間42分<*1>の中に、第一楽章の長さは18分もある。1/3以上どころか、もう半分に近い。そして第一楽章の内訳もかなり極端だ。第一主題も第二主題もかなり長いから、提示部だけで8分くらいある。最初の序奏もカウントするとこれでもう9分超えた。大半の交響曲ならもう第一楽章が終わってもいいくらいの時間だ。しかしこの『第四番』ではまだ展開部にすら入っていない。


 展開部に使われるのは序奏の運命のテーマと第一主題。ロマン時期後半でよく採用される、再現部の第一主題を展開部で処理する形式だ。この手法だから提示部が特に長く感じるのね。最初は薄霧の中で手探りに進んだが、いつの間にか雷雨に捕捉された。抗えない運命と避けられない悪夢が交錯する狂乱の嵐に翻弄され、人間がいかに矮小で、簡単に押し潰される存在だと自覚させられる……そう言えばここだね。ちょっと心配なところ。展開部の最後にトロンボーンだけが別行動でオーケストラ全体に対抗する、という大事な見せ場があるが、NZTOは未だにトロンボーン首席不在のままだ。サージルくんのおじいちゃんがお亡くなりになって、葬式のためもう少しワルマイヤに留まる。今の彼らが気負いすぎて変に失敗するかと少し心配になってきたが、無事やり遂げた。まぁそうよね、普通にやれば問題が起きるようなところでもないし。もう、なんで私がここまでハラハラする必要があるの……


 再現部は第二主題だけだし、クライマックスのところが若干短縮されているので短めになってる。そして甘い夢の最後やっぱり唐突に現れる運命のテーマに起こされ、大規模のコーダに入る。ここではテンポが変わり雰囲気が急変。急激な音量変動と流動的な各楽器の役割交代、非常に派手に盛り上げる。最後にもう一度第一主題がまるでスローモーションのように重々しく演奏されて、最後は重圧に押し潰されるように終わる。ここの速度制御はみんなかなり自由にやってるけど、初めて譜面を見たとき速度関連の指示が何も書かれていないのに驚いたね。


 ある程度予想はしていたが、これは典型的な「再現できないパーフォーマンス」になったね。負け犬のエリカだから、こんな惨めな思いを胸に抱くままステージに上がった。でも今日のコンサートを境にエリカは負け犬ではなくなる。もうこんな気持ちを抱くままでこの『第四番』を指揮することができない。それに観客たちはみんなエリカが置かれている状況を知っているから、音楽を通してエリカの悲しみと絶望に共感しやすい。だからこれは「再現できないパーフォーマンス」だ。今後エリカのスキルが上がって、NZTOとの連携がうまくなればもっと洗練で高度なパフォーマンスができるようになるだろう。でも今日のパフォーマンスと同じものは二度とできない。


 次の第二楽章は侘しい雰囲気の中でオーボエの独奏が静かに始まる。背景には弦楽のピチカートしかなく、とても寂しくて孤独な空間を構築する。チェロにバトンタッチして一度繰り返したら、新しい要素が投下される。何重にも重なる緻密な模様のように、濃厚な音響で深夜の平穏と安らぎを表現する。音量が大きくて圧迫感が強いが不思議と嫌と思わない。まるで頭を空っぽにして、過去の追想に浸るような感じ。第二楽章の主部はこの二つの要素で構成される。


 作曲者本人の解説と私のイメージを合わせると、『交響曲第四番』の前半の二楽章は「一人でいる夜のひととき」。そして後半の二楽章は「昼に起きる二つの出来事」を描写する。前半はやや抽象的な概念で、後半は具体的な情景が目に浮かぶ。だから第二楽章はなるべく明確なイメージを作らないように、はっきりとしないエモーションだけを表現したほうが正しいと思う。


 中間部では曲の動きが活発になって、リズムと下向きから始まる音程進行は第一楽章のあの悪夢にちょっと似た形になってる。このF-E-D-Cの進行は後半の二楽章でも重要な役割がある。波が重なりクライマックスになると、ファンファーレ風の金管までが背景に加勢する。主部に戻ると背景に現れる木管による高速下行音階も、第一楽章を思い出させる。本当、この第二楽章は他のすべての楽章に深い繋がりがあるのね。


 人間の内面的感情を描写する第一楽章と第二楽章と違い、後半から雰囲気が大きく変わる。具体的な景色と活動を描写の対象とする。第三楽章は一風変わった、気まぐれなスケルツォ。これは多分『第四番』の一番有名な楽章。単独で演奏されることもあるくらい。弦楽を最初から最後までピチカートのままにする発想が非常にユニークだから。しかもスケルツォの主部で使うのは弦楽のピチカートのみ、他の音色は全部排除する。それでとても独特な音響を作り出す。


 主部の切り出しは例のF-E-D-Cの下行音階。トリオでも転調したこの音階が金管の短い音で奏でられるから無関係とは思えない。そのトリオも非常に独特だ。木管、金管と弦楽が明らかにそれぞれのグループで別行動している。チャイコフスキーが語ったイメージによれば、これは支離滅裂な、非日常な光景。祭りへ行く酔っ払いの農民の隊列が遭遇するのは、どこかから来た軍隊の行進。それで足止めを喰らった。まさにそんな感じにオーケストラの各部がバラバラになってまとまらない。ここの表現の仕方がすごく上手だね。


 第四楽章は前の楽章の続きだと言える。農民たちが会場にたどり着いて、ついに祝祭が始まる。豊富な打楽器を投入して、とても熱烈で、騒々しい祭り風景が描かれる。作曲者本人の話によれば、「自分の周りに楽しくなれる要因が見つからないなら、他の人を見るといい」。それで運命に翻弄される人が気分転換のために祭りに足を運んだ。冒頭の総奏も、続いて登場するロシア民謡由来のテーマも例のF-E-D-Cの下行音階と関連付けできる。この『第四番』では本当に下行の音階がたくさん使われるのね。


 楽章の中盤に『第四番』の一番の山場がある。祭りを見物してようやく嫌な出来事を忘れ、陽気な人々の中に溶け込みたいと思うとき、またしてもあの運命のテーマが唐突に現れ、その魔の手からは決して逃れられないと思い知らされる。しかし周りの人は完全に無関心だ。「抗えない運命に囚われた人がどれほど孤独で悲しんでいるのを全く気づいてくれない。彼らはただこの祭りを楽しんでいる」――チャイコフスキーがこんな風に解説したから、どうしてもこの『第四番』が今のエリカと同じように思える。結局観客たちも私もエリカの苦しみを完全に理解できない。私たちはただコンサートを観るために来た。たとえ今のエリカが先週の失敗や、観客席を見たとき感じた恐怖を思い出しても、私たちは気づかない。


 そんな誰にもわかってくれない苦しみに対して、チャイコフスキーが『第四番』を通じて用意した答えは、「生きる喜びをもう一度感じよう」だ。「周りの人々を見ればわかる。この世界は決して悲しみで満たされるわけじゃない。幸福は確かに存在している」とのこと。それを実感させるためにコーダは純粋な喜びに満ちたカーニバルとなり、最後の1分間以上ずっとフォルテフォルティシモ(フォルティシモより強く、とにかく極めて強く)の大音量で送る。


 前半は満場の拍手の中で終わった。とりあえずエリカは失点を取り戻せたね。ホッとしたところで、何故か自分が少し泣きそうになったのに気づいて、ハンカチで涙を拭く。



~~~~~~

<*1>楽曲の実際の演奏時間は繰り返しの省略や指揮者の速度指示で大きく変動するからあくまで目安です。


チャプター5の楽曲パートにもう一曲あるので、この後の20時30分に公開します。コンサートの休憩時間を挟むような感じですね。

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