チャプター5

NO.5-1 涙に暮れる日

 今日は久しぶりにエリカの家を訪問する。前回は半年前のお茶会だったかな?私が転生した前のことね。うちと同じ西区画だから歩いてもすぐに着くけど、今日は足取りが重い。


(はぁ……気が重い。でも放っておくわけにもいかない。何か私にできることがあるなら……)


 昨日エリカはステージから逃げ出して、その後一晩中泣き続いて、一睡もしなかったみたい。夜が明けても泣き止まず、私も様子を見に来てくれないかと頼まれた。


(こんな貴族のメンツに関わること、親戚でもない私に助けを求めるなんて、よくそんな決断をしたね。でも私を呼ぶのは正解だと思う。エリカと親交ある人の中で、きっと私が一番エリカが今置かれている状況を理解しているだろう。と言うか、あの最悪のコンクールの後私もステージから逃げたし……そう思うと、私たち似た者同士かもしれないね)


 デビュタントの場から逃げ出すなんて、令嬢としてはあるまじき行いだけど、誰も責められないと思う。もしこれが私がいた地球なら、観客たちは行儀よくなりすぎたからいつものように拍手してくれるかもしれない。でもこの異世界では良くも悪くも観客はまだ素直。演者も観客も失敗だとわかる演奏に喝采を送るべきではないじゃないか、と考えてしまう。


 演奏が終わると、僅かな拍手の音の中ほとんどの観客が沈黙。振り向いたエリカの顔が真っ青。自分が失敗したのがはっきりわかってたエリカは、いつもと違う、客席の微妙な雰囲気に耐えられるはずもない。


(さっき出た、今期の音楽評論誌、まだ読んでないといいけど……)


 失敗したから厳しく書かれるのは仕方ないけど、いくらなんでも酷すぎると思う。


 もしこんな失敗をしたのは中級貴族の娘の私、もしくは下級貴族や平民なら、きっとここまで叩かれることはないだろう。一部心の狭い人からすると、これは滅多にない、上級貴族の悪口を合法的に言うチャンス。しかも相手がこの国の二番目の実力者であるモラウーヴァ公爵の孫娘。公爵の富と権力に嫉妬する人たちが鬱憤を晴らすために、音楽に対する評価という大義名分を盾にする。マジで見ていられない。


 もちろん評論誌に私情を持ち込む輩は少数で、真面目に記事とコラムを書く人のほうが多い。例えばあのビュリーアールっていういけ好かない野郎。あいつはたしかに言葉がきついし、人の神経を逆撫でする天才だが、筋が通らないことは絶対に書かない(お母様のことになると日和るらしいけど)。看板ライターの矜持ってやつかしら。しかしそんな正しさも、今のエリカにとって毒でしかない。コラムを乱用する人たちによる心無い中傷。まっとうな評論家からも正論パンチ。やっぱりあれを今のエリカに読ませるわけにはいかないよね……私なら絶対泣くよ。


(あのコンクールの後私も相当叩かれたが、まだ知名度が低いアマチュアだしここまで手厚いもてなしは受けなかったね。この世界では私とエリカのような生まれはかなり有利ではあるけど、デメリットもあるよね)


 思考がまとまらないうちもう目的地についた。考えるだけじゃどうにもならないし、とりあえずエリカの様子を見てみるか。



――――――――――――――


 いつも優しく、上品に微笑むエリカのお母さんだけど、今日は余裕のない疲れた顔をしている。


「おはようございます。ごめんね、こんな朝に来てもらって。あの娘、いくら慰めても聞いてくれないの……」


 続いて現れるのは、学院で何度も遭遇した、例の魔法科の後輩たち。


(げぇ、エリカの妹分の二人組じゃないの?まさか、こんなときでも喧嘩を売るのか?)


 予想と違い、二人は私の前に来ると、話をする前にまず頭を深く下げる。心なしか顔に涙痕が見えるような……そうか、彼女たちもエリカのことが心配で仕方ないのね。


「今までの数々の非礼をお詫びします!わたくしたちのことはどうなってもいいから、どうかエリカ様を助けてください!悔しいですが、わたくしたちの言葉が今のエリカ様には届かないのです。虫のいい話だと思われても仕方ないですが、もう同じような苦しみを共有できるアリア様に頼るしかありません……!」


 重すぎぃ!このアイミって子、マジでやることいちいち極端なのね。


「……役に立てるかどうかわかりませんか、できる限りのことをやってみます」


「いいえ、アリア様ならきっと、エリカ様を救って見せるでしょう。私はそう信じています」


 なるほど。私を呼ぼうと提案したのは、多分この陰気メガネのシゼルよね。この子、妙に鋭いところがある……ような気がする。


 この屋敷の主である公爵様にも挨拶しなきゃ、と思ったけど、今は隣のアイミの家の屋敷に避難中。昨夜エリカを慰めようと顔を見せたら「期待を裏切って申し訳ありません」って大泣きされたから、孫娘に甘々のおじいちゃんとしてはしばらく距離を置くしかないか。


 寝間着姿のエリカがベッドの上で丸まって、すすり泣いてる。トレードマークの二つのドリル……じゃなくて、縦ロールしてない姿は超レアだね。アリアの記憶をカウントに入れても初めて見たかも。


 私が部屋に入っても反応がない。ステージの疲れもあるのに一晩泣き続けた。エリカはもう体力も精神もとっくに限界なはず。


 ベッドに近づくと初めて、エリカのうつろな瞳が私に向いた。


「……わたくしを、笑いに来ましたの?」


「そんなひどいこと、するわけないじゃないですか……」


「……そう、よね。アリアさんが、そんなこと、スンっ、するはずありませんね。分かっているつもりけど……グスっ……」


(はぁ……こりゃ重症ね……)


 今のエリカの気持ちを一番理解しているのは自分だと思うけど、いざ対面すると何を言えばいいのかわからない。とりあえずベッドに腰掛け、エリカが話してくれるのを待ってみるか。


「……アリアさんも、わたくしが『交響曲第七番』をやるのは、無謀だと考えましたか?」


「ううん、無謀だなんて思ってないよ。ただ、その……ちょっと、危なっかしいとは思いましたけど」


「……それ、意味が同じでしょう?危なっかしいと思ったのに、どうして、わたくしを止めなかったの?」


「他人のデビュタントに口出しするほど礼儀知らずじゃないよ。それにエリカさんなら、無事やり遂げる可能性も十分ありますし」


 もしエリカが実力をちゃんと発揮できたら、きっとステージはなんの問題もなく終わったんだろう。しかしそんなプレッシャーが半端ない環境でいつも通りのパフォーマンスをするのが難しい。結局やってみないとどうなるかはわからない。


「そうだったのですか。ははっ、買いかぶり過ぎましたね」


 力なく、自虐的に笑うエリカ。こんなエリカは見たくない。全然似合わない。


「エリカさんは、これからどうするつもりなんですか?」


「……わからない……今のわたくしに、何ができますの?」


 私が知っている音楽の世界は一度の失敗で終わるような厳しいところではない。現に二回目のコンクールで大ポカした私でも三回目の参加はなんの問題なく認められた。最初の躓きで再起不能になる人は、言い方が悪いかもしれないけど、自分に負けただと思う。その点では、実はエリカのことそんなに心配していない。こんなところで終わるような人間じゃないから。心配なのは、立ち直るまでにどのくらいの時間が必要か。いつ復活するかわからない人をずっと待ってくれるほど、音楽界は優しくないから。


 このデビュタントの傷が長引けば長引くほど、エリカの将来に悪影響を及ぼす。早急に挽回しないと、負け犬のイメージがついてこの先もずっとまとわりつく。かつての私と同じように。でも失敗のあと直ちに良いパーフォーマンスで上書きできたら、評価が一気に反転する可能性もある。だから今の状況は良くないがエリカにとってはチャンスでもあると思う。


「ずっとこのままにしておくわけにもいけないでしょう?NZTOのスケジュールはある程度自由にできるはずですよね。次のステージでどんな曲をやるかを一緒に考えるのはどうかな?」


 わざとらしく昨日のことについて何も触れず、未来のことだけを語る。しかし言ったそばから自分の失敗に気づく。性急すぎたか……


「また、あんな場所に立たないといけないと言うのですか?」


 この一言で今のエリカがステージをどう思っているのかがよく分かる。わずかに身震いするエリカは、昨日ステージの上から見た観客席の様子を思い出したかもしれない。もしくはパーフォーマンスの最中コントロールを失ったときの記憶が浮かび上がったかも。


 昨日のパーフォーマンス最初はよかったと思う。第一楽章は無難にこなしたと言える。事の始まりは第二楽章の途中。こういう低速の楽章では金管の出番が少なく、長期間待機することが多い。楽章中出番が一回だけとか、やること何もないときもある。


 金管楽器は特に体力を消耗するから、出番がないとき少し休めるのはありがたい。しかしずっと待機するのも案外しんどい。自分の目の前の譜面には百二十小節休止、などしか書かれていない。ふっと気がついたら、「あれ、今どこまで進んだの?」と、進行を見失うこともある。


 昨日のステージでは第二楽章のトロンボーンがまさにそうなったと思う。しかも出番より早くやっちまったのがまずい。出番をすっぽかしたなら場合によってはまだごまかしが効くから。予定より早く楽器を構えるトロンボーンを見て、きっとエリカは異変に気づいてサインを出したり、目線で気づかせようとしたり、事故を回避するために手を尽くしたと思う。しかしトロンボーンの人たちはエリカのことを見てなかった……いや、あれは指揮者を見てるけど、緊張しすぎたせいで全然目に入らなかったかな。昨日なぜか私がよく知っているNZTOのトロンボーン首席がいなかったのも関係してるだろうね。みんなガッチガチなのは観客席からでもわかるくらい。


 もしここでエリカが冷静に、適切に対処できたら悪い流れを食い止めるのもできたはず。しかしエリカは失敗した。結局エリカの動揺が伝染病のように他の団員たちにも伝わり、次々と歯車が狂ってしまい、そんな悪夢のような展開に。第三楽章のスケルツォで一旦体勢を立て直したが、第四楽章でまた制御が効かなくなった。最初はよく起きるような僅かな乱れでしかないが、エリカはちゃんと対応できず逆に事態を深刻化させ、そのまま最後まで挽回できずに終わった。


「だ、大丈夫ですよ。私も似なような経験があってね。今は怖くても、数日もすれば逆にステージに出たくて待ちきれなくなりますよ」


「いつアリアさんがそんな風になりましたの?わたくしを安心させるために適当なことを言うのはやめてください!」


 あっ、しまった。エリカが知ってるアリアなら大きな失敗をしたことがないよね。うっ、どうすればいい……


「違います。エリカさんは知らないけど、本当に昔に、」


「もういいのです!こんなわたくしなど放っておいてもいいでしょう!」


(……いや、放っておいてって言ってるのに、なんでそっちから抱きつくの?)


 私より身長高いエリカだから、抱きつくと言うよりのしかかるみたいになる。そしたら必然的その豊かな二つの山嶺を私に押し付ける。


(うおぉ、すげぇ……なんという重量感……柔らかくてさわり心地よさそう……いやいやいや、何考えてるの私!今はエリカを落ち着かせなくちゃ!)


「貴女の輝く姿を見て、わたくし、たくさん勇気を貰いましたの!自分にもできるんじゃないかって、思ってしまいました!」


 似たようなことは前にもエリカが話したことがある。でも私はそれをお世辞だと思ってた。自分がここまでエリカに強い影響を与えたとは思わなかった。


「でも、できなかったの!アリアさんみたいに!」


 かける言葉が見つからない。私にできるのは、泣き崩れるエリカを優しく抱き返すだけ。


 私がアリアとして転生して、デビュタント・コンサートで指揮したことで、エリカの運命を狂わせたかもしれない。それがなかったら、エリカのデビュタント・コンサートは予定通りNZTOの監督がやってくれる。エリカの指揮者デビューは後日にそこまでのプレッシャーがないステージで果たすだろう。


 もしくは、私が卒業コンサートにあの『オルガン付き』をやろうなんて提案したから、エリカの負担が増えて昨日のパーフォーマンスに悪影響が出たかもしれない。


 それでも私は、自分に責任があるなんて全然思ってない。やるかやらないかの判断は結局、本人の意志だから。


 でもそんなことはどうでもいい。責任を取る必要がなくても、私はこの子を助けたい。この子には、私と同じような思いをさせたくない。


 私は、純粋にこの子の力になりたいだけ。



――――――――――――――


 徹夜の疲れが出たのか、胸の中に溜まったものを吐き出したエリカはすぐに眠った。私にしがみつき、かすかに寝息を立てるエリカを起こさないように剥ぎ取るのは大変だった。


 部屋から出ると、外で待っているエリカのお母さんと下級生二人組がほっとした顔に。


「やっと落ち着いたのね。アリアさんに頼んで本当によかったわ。ありがとうございます」


「わたくしたちからも感謝申し上げます。そして改めて謝罪させていただきたいと思います。色々迷惑をかけてすみませんでした」


「まあ、その……過ぎたことですし。これからもうあのようなことをしてこないならそれでいいです」


 そもそもこの二人による実害がほぼないし。せいぜい教室に着くのが数分遅れる程度かな。面倒だと思うときもあるが、アリア的には彼女たちをからかって反応を見るのも面白いと思う節があるし……まぁエリカが彼女たち本当はとてもいい子だと言ってるくらいだから、嫌がらせしようにも大したことができないか。


「こんなにも簡単にわたくしたちを許すなんて、アリア様は心の広い方ですね。今後二度とナメたような真似をしないと誓います。シゼルもそれでいいですよね?」


「……ええ。本当は私ずっと前からアリア様が素晴らしい方だと気づきましたけどね。そもそもアリア様に噛みつくのは私の本意ではありません。アイミがどうしてもっていうから、仕方なく付き合っていました」


「なっ!う、裏切り者!最初にアリア様にちょっかいを出そうと言い出したのはあんたじゃないの!?」


「そんなことありましたっけ?おかしいですね、記憶にございません」


 黒いよシゼルちゃん!あなた本当はいい子なんだよね?今のはアイミちゃんの反応が面白いからからかってるだけだよね?そう信じたい。


「貴女達!せっかくアリアさんがエリカを寝かせてくれたのよ!騒がないでもらえる?」


 ……私のところにまで怒りの雷が落ちる前にさっさと退散しよう。

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