Saint-Saens: Symphony No.3 Op.78
日曜日の午後。ウェンディマール王立学院の大講堂。卒業コンサートの大トリ、私が指揮する学院オーケストラによるサン=サーンスの『交響曲第三番』の時間だ。時間も会場も観客層もいつもとは違う。組む相手も違う。それで私も少しそわそわしてるけど、なるべく顔に出さないようにしてる。学院オーケストラのみんなはもっと緊張しているはずだから。
第一楽章<*1>は薄霧に包まれ、姿形がよく見えない序奏で不安を煽ってから、第一主題に入る。この第一主題は全編を通して何度も現れる循環主題でもある。そして、かの有名なグレゴリオ聖歌の『怒りの日』に由来している。『怒りの日』はサン=サーンスの他の作品『死の舞踏』と『レクイエム』でも使ったし、彼はこのテーマが大好きなんじゃないかな?あとは、直接な繋がりがなくても、同じくフランスの代表的作曲者であるベルリオーズの『幻想交響曲』でも『怒りの日』を引用しているから、どうしても関連付けしたくなるよね。まぁ『怒りの日』を引用する作品は他にもたくさんあるから深く考えすぎるのはよくないか。
細かく絶えずに動く弦楽はまるで、人を不快にさせる昆虫の羽音。このあたりはシューベルトの『未完成交響曲(D759)』<*2>を彷彿とさせる。ここは絶妙な不快さ加減を保つ必要がある。足並みが乱れると羽虫ではなく、スライムになっちゃう。こういうところが弦楽のパート練習を何度も何度も繰り返す必要がある原因だね。
クライマックスを経て、もう一度スラー(途切れさせずに)の木管で一風変わった第一主題を奏で、そこから第二主題に入る。第一主題と比べると、第二主題はかなり短い。それに第二主題の背景では第一主題の陰が見えている。伝統的なソナタ形式では第二主題の最後に第一主題が現れるのは普通だが、これはそういうレベルの話じゃない。時には第二バイオリンとヴィオラの羽音、時には何かの予兆させるようなトロンボーンの訴えかけ、第一主題は様々の形に変えて、ずっと背後から睨んでいるのだ。そう考えると、この第一楽章では二つの主題の力のバランスが極端に偏っているような気がする。
展開部の最初に使うのは序奏、次は第一主題の後半。それからだんだん激しさが増して、循環主題が再び登場する。最後は荒ぶる旋風のように弦楽がいきなり連続の下行音階で急回転し始める。狂風が過ぎた後に残ったのは、木管の高音組が総力で示す、再現部に至る道筋。この展開部の最後から再現部に繋がるところは本当にかっこよすぎて大好き。再現部の第一主題は簡略化される同時に勢いを増す。金管の見せ場が多く、特にトランペットにはかなり難易度が鬼畜なやつがある。まぁそのための超強力助っ人よ。第二主題のほうは逆に勢いを失い、大人しくなる。このままゆっくりと消えてなくなる。
第一楽章が静かに収束して一旦全休止に入り、これでオルガンは他の人に配慮しなくてもいい、自分のペースで入れる。ここからはエリカも参加するから、どうしても気になってステージの奥を見るが、エリカのために私ができることは限られている。彼女は鏡から私の動きが見えるが、鏡は遠すぎてこっちからはよく見えない。他のメンバーなら目線を向けると何らかの表情や反応があるが、エリカのほうは背中しか見えない。鏡越しで視線を交わすなんてできない。現代の地球ならモニターテレビや遠隔演奏台などの工夫でもう少し円滑な意思疎通ができるが……まぁ仕方ない。エリカも指揮者の視点で総譜を読んだし、オルガンの譜面には他の楽器の動きがちょっとだけ書いている。私はオーケストラのほうに専念して、エリカがうまく合わせてくれるのに期待しよう。
第二楽章は基本的に、物静かなメロディを紡ぐ弦楽をオルガンが背景で支える、とても美しくて儚い楽章だ。だんだん強くなってから急に消えるように小さくなる、こんな繊細な音量制御が儚さを表現するキーポイントかな。バトンを受け取るクラリネットの下にホーンとトロンボーンを配置する組み合わせは非常に印象が強いだね。低速楽章でトロンボーンにこんな重要な役割を与えるのはかなり珍しいような気がする。
主部をもう一度変化させ、今度は木管と弦楽と会話となり、最後は一旦他の楽器が全部身を引いて次の段落に入る。ゆっくりと落ちてくるオルガンの向かう先は荒涼な雪原。まるでバイオリン二部だけがこの世界に取り残されて、お互いに寄り添うような、虚しくて寂しくも尊い光景。次にオルガンとヴィオラ、チェロも加えると、まるで世界が活力を取り戻したように一気に色彩豊かに。この劇的変化の後は、コントラバスが不穏なピチカート(弓を使わず、指で弦を弾く技法)で循環主題を呼び出して、主部に戻る。
帰還した主部では第一バイオリン、ヴィオラとチェロがそれぞれ二つの組に分けて、片方はピチカートのままで背景を維持して、もう片方は弓で第二楽章最初の主部を歌い出す。複雑になるパート分けは要注意だね。このまま夢心地に浸るように第二楽章が終わる。ここまで休みなく演奏したから、第三楽章の前に少し長めの休息を入れよう。しかしこうして実際やってみるとわかる。第二楽章のオルガンはとても大きな役割を果たしているのね。オルガンの出番は第四楽章から、と勘違いしている人たちはもしかして、第二楽章で寝てたかな?
第三楽章はとても激しくて痛快なスケルツォ。構成する素材の大半は第一楽章と共有している。主部のテーマは明らかに第一楽章第一主題の変化だから、音楽に詳しくない父兄たちにも理解しやすいと思う。強烈な短い音の群れがまるで自動小銃の三点バーストのように、断続的に刺激を与える。ここでも弦楽の紀律が乱れると形が崩れて台無しになる。『第三番』は本当、こんな密集音符が多すぎるね。
トリオは目新しい要素満載の、華麗絢爛なパートだ。エリカがオルガンよりも目立つと言ったあのピアノのハイスピードな上行音階が登場するし、雲を掴んで滑空するような独特な動きをするバイオリン、さらに打楽器のトライアングルとシンバルも投入する。『交響曲第三番』が作曲されたのは1886年。この世界で言えば作曲禁止令が出た直後の猶予期間中。ほぼ最末期の作品だね。同じ時期には同じくスケルツォでトライアングルが大活躍する、ブラームスの『交響曲第四番』とドヴォルザーク『交響曲第九番』がある。この時期の流行りかな?
二回目のトリオは木管の導入までが同じだが、後ろから颯爽と登場する金管の勇ましい調べが場の支配権をかっさらう。この金管のテーマは後の第四楽章にも大切な役目があるから、曲の後半の鍵を握っていると言っても過言ではないかな。トリオの終わり、普通に考えれば主部に戻るところだが、さっきの金管が奏でたテーマを受け継いで、なぜかバイオリン二部とヴィオラによる三部フーガが唐突に始まる。どこか第二楽章途中の物寂しい光景を思い出す、聴き手に息を呑ませる、純粋で高潔な調べ。最後でまたしても、コントラバスが不穏なピチカートで循環主題を呼び出す。二つの楽章に渡って、ここまで類似な手法でもう一度循環主題を処理するのはかなりの異例なような気がするね。自分にはうまく言えないが、普通なら演奏技法や担当楽器を変えるなどの工夫をするところに、あえて同じにすることに何らかの意味があると思う。
さて、この第四楽章からはエリカのターンだ。第三楽章で一切出番なしのオルガンはまさにこのときのために力を蓄えていた。九つの音を同時に奏で、まるでこの世のすべてを内包するような荘厳な響き。この強烈な始まりはおそらく『交響曲第三番』の最も有名なところだね。ここからオルガンは長音、オーケストラは第三楽章後半に初出のテーマを担当する。あのテーマをこうしてハ長調に転調させ等速に変化させると、C-D-F-Eの進行がモーツァルトの『交響曲第41番』を思い出させる。第四楽章はこのテーマとお馴染みの循環主題を中心に構成される。冷冽なピアノ連弾を伴う整然とした構造の弦楽は、天上の神々が住む白亜の宮殿。壮麗なオルガンの行進に加勢する金管の盛大なファンファーレ……こんな風に多彩な変奏を次々と披露して、盛り上がっていく。
終盤に入ると連続の速度変化でギアを上げ、特に観客を熱狂させる魔性を秘めている二回のストリンジェンド(だんだん早くなる)が重要だ。本当は大空を自由自在に飛び回るような感じで派手に行きたいが、それには高度な制御力が必要。相方が学院オーケストラではどうしても不安だから今回は控えめにやると決めた。いつかSWPOともこの曲をやりたいな、と思いながら、ついに華々しい総奏によって楽曲が終わる。ここまで来て多少のミスは誰も気にしないだろうけど、トランペットによる循環主題の最終形態は超強力助っ人のおかげて無事終わってよかったね。
カーテンコールが始まって、一度ステージを離れた私はもう一度台に登って一礼する。そして振り向いて、オルガニストのエリカにタクトを向けて立たせる。微笑んで観客に答礼するエリカを見て私が思う。願わくば、これからも私たちはこんな風に笑いながら音楽の道を進みたい。
しかし、そんな私の想いとは裏腹に、三日後のエリカのデビュタントは大失敗に終わった。
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<*1>サン=サーンスの『交響曲第三番』の楽章分けはちょっと変則的です。NO.4-2で一度説明したのでここでは詳細は省略させていただきます。楽曲パートを書き終わって改めて考えるとやっぱり四楽章だと思って書くのが正解だと思います。もし「第二楽章」を全部「第一楽章後半」に置換したりすると読みづらくて仕方がありませんね。
<*2>シューベルトの後期の交響曲の番号は様々の事情があって非常にややこしいです。誤解を招くことがないようには、この表記の方がわかりやすいじゃないかと思います。この辺の事情はシューベルトをチャプターのテーマにする時にもう少し詳しく説明するかもしれません。
ちなみに、「オルガンの出番は第四楽章から、と勘違いしている人」というのは、昔の私です、はい。録音で聴いたし、第二楽章寝てましたから。本当にすみませんでした。
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