Brahms: Symphony No.3 Op.90

 『交響曲第三番』は天を衝く二連の雄叫びから始まる。その直後豪快な旋律が一瞬で会場を制圧してしまい、まるでヒーローの登場のように、観客たちの心を奪う。


 ブラームスをベートーヴェンの後継者として見る人たちは、二人の交響曲を並べて比較するのが好き。彼の『交響曲第一番』は「ブラームスによる『運命』」だと考える。美しい自然と活発な生命力を表現する第二番なら、「ブラームスの『パストラール』」。その流れで、勇ましく人間性あふれる第三番が「ブラームスによる『エロイカ』」と言われるのも必然であろう。ちなみに最後の『交響曲第四番』だけ、ベートーヴェンの交響曲のどれとも関連付けることができない。だからあのバカ皇帝がどうしても受け入れられないだろうね。


 最初の勢いは長く続かない。すぐに追想に浸り、穏やかになる。この第一主題は鮮明な二面性を持つ。大きくて暖かいヒーローの後ろ姿は、強さと優しさを兼ね備える。それがブラームスが考える理想的なヒーローのあり方かもしれない。


 第二主題は牧歌的メロディ。快活でお茶目、まるで子どもたちと戯れるように。それは戦いから離れて田舎でのんびりと過ごす一時。『交響曲第三番』が描く英雄像は、決して功名心にはやるような人物ではない。大義を掲げ人々を導く聖人でもない。ただ身近な毎日の平穏を守りたいだけだと思う。きっと、平気で他人を踏みいじり幸せを奪うような輩を許せないから、つい戦いに身を投じ、成り行きでヒーローになったに過ぎないだろう。


 束の間の安寧が終わろうとしている。第一主題の面影もちらっと見えるけど、このあたりで雰囲気がガラリと変わるから第三主題だと認識してもいいかな。せっかく手に入れた平和を脅かす闇の侵食。愛する家族と土地を守るため再び立ち上がるヒーロー。上に向く急旋回の音階は、燃え上がる闘志。敵と対面して一歩も引かない。普段の姿から想像できない怖い顔になって、敵に怒りをぶつけて、威嚇する。


 この先の展開部は私にとって非常に印象深いところ。初めて『交響曲第三番』を聴いたとき、ここでめっちゃテンション上がった。展開部に入るといきなりこんなかっこいい新要素を投入するとは……『第一番』の展開部のあの聖歌風の新メロディといい、ブラームスのこの手法は本当にすごいなぁと思った。


 でももう一回聴くと、自分がひどく勘違いしているのに気づいた。そして恐ろしくなった。新要素なんてどこにもなかった。あれの正体は、第二主題の変化。あまりの変貌ぶりで最初はまったく気づかなかった。木管で楽しく羽根を伸ばすように奏でたあの第二主題、ここではチェロ、ヴィオラとファゴットで一回、そしてバイオリンにバトンタッチしてもう一回奏でる。元の第二主題と比較すると、リズムと音の進行の形はそんなに変わってないのに、雰囲気が全然違う。観客たちの心に刻む悲壮な調べ、力強い弦楽の往復切り込み、まさに怒りに駆られてがむしゃらに戦う英雄の姿。


 どうして恐ろしくなったと言うと、私はつい想像してしまったから。いつも子どもたちを乗せるヒーローの大きな両腕、今は剣を握り敵を次々と斬り倒したり薙ぎ払ったり、返り血で真っ赤に染まる……ここは確かにヒーローの凛々しさを強調する、ヒーローが奮戦する場面であるが、同時に戦いの凄惨な一面も表現していると思う。


 幸いヒーローの意識が闇に飲み込まれそうになるのはこの瞬間だけ。再びダークサイドが表に出るのは、闇との激戦を描写する第四楽章……いや、第三楽章もある意味ではダークサイドと言えるかな……おっと、いけない。すぐに他のことを考えて集中が切れるのは、私の悪い癖。もう展開部が終わるところまでいった。ここで冒頭の英雄の叫びに戻り、再現部を始める。


 楽章の最後に第一主題をベースにした盛大なコーダがあるが、この『交響曲第三番』に一つ大きな特徴がある。はっきりと、果決に終わるようなことは絶対にしない。どの楽章もフェードアウトするように、追想の中で静かに収束する。英雄をテーマとする作品なのに、その偉業を称える雄大、壮麗なコーダで終わる楽章は一つもないのだ。祝勝のパレードからこっそり抜け出して、遠くから眺めるだけで満足するのが、ブラームスが描いた英雄像かもしれない。


 なるほど。だんだん見えてきたような気がする。確かにこのブラームスは、私が考えるのとはまったく別物だけど、そんなに不思議なことでもないかな。地球でも同じ曲が指揮者の解釈によって大きく変わることなんてよくあるから。


 まず気になる点は、お父様は譜面をいじっている。例えば本来は弦楽だけのところにホーンを投入して、それでもっと威勢よく、もっと侵略的な音を出す。このやり方に見覚えがある。確か、レオポルド・ストコフスキーのブラームスも似たようなことをやった。ストコフスキーといえば、化学実験のように音色を探求し続け、楽器の配置位置を微調整したり、細かい演奏指示を要求したり……必要だと思えば、楽譜を勝手に改変するのもいとわない。たとえそれが批評家の恰好な的になるとしても。すべては理想な音色を練り上げるため。


 お父様はそこまで極端にやっていないけど、楽譜にそれに似たような改変を入れたのは確か。そういえばお父様はマーラーの指導を受けたことがある。あのマーラーも譜面に手を入れることで批判されたことがある。そうか……マーラーのスタイルから考えればいいのか。


 若い頃のマーラーは非常に激しい、誇張な動きで有名。しかし晩年になるとスタイルが大きく変わった。不気味なくらいに物静かとまで言われた。その極端な動と静の対比、今のお父様は両方に好きなように切り替わって、使い分けているように見える。まだ少し見ただけだから確信は持てないが、多分お父様は最小限の動きだけでSWPOを完璧に制御できるだろう。それでも曲の起伏に合わせて動きの幅を変えるのは、観客たちへのパーフォーマンスを意識しているじゃないかな。録音を聴くなら関係ないが、客席からコンサートを観るなら指揮者とオーケストラの一挙手一投足もパーフォーマンスの一部になる。最も効果を実感するのは第一楽章の最後かな。クライマックスからすぐに沈静するところで、その動と静の対比が特にはっきりと見えて、より臨場感を味わえるでしょう。


 第二楽章の序盤はクラリネットを中心とした牧歌風のテーマ。第一楽章の第二主題もそうだったが、ここでは低速楽章らしく、ゆったりとした雰囲気を作り出す。ドラマチックな第一楽章の後でこんな心を落ち着かせる音楽を聴くと、まるで風景画を鑑賞するような気持ちになる。一面に広がる緑の原野に、流れる川のせせらぎ。そんな長閑な田舎景色が目に浮かぶ。


 一段落して、ちょっと不思議で静謐な雰囲気を醸し出す。息を呑ませる細い弦楽の高音で浮遊感のある背景を構築。その下に並ぶ木管の何重にも重なるような模様、まるで下りる夜の帳。気がついたらもう遅い時間。見上げると満天の星空、周りには心地いい虫と蛙の大合唱……そんな幻想的、ノスタルジックな光景が音楽を通して伝わってくるような気がする。つい昔いたワルマイヤの田舎を思い出す。王都の夜は魔道具の光が溢れて空が曇るから……んー、また妙な感じがする。アリアの記憶なのに懐かしく思うこの感覚、まだまだ慣れないね。


 こんな感じで、戦いのたの字もなく、ただヒーローが故郷で休みを満喫する様子を紹介する第二楽章だった。


 さて、次の第三楽章は舞曲の役割を担うはずなんだが、ブラームスの交響曲の第三楽章はどれも一筋縄ではいかない。例えば『第一番』のあの間奏曲。第三楽章と言えばメヌエットかスケルツォという固定観念に囚われた、昔の頭が固い私が初めてそれを聴いたとき、未知な衝撃を受けてひどく混乱した。


 この『交響曲第三番』の第三楽章は、舞曲にしてはあまり動かないし、大分おとなしい……と言うより陰気臭い。華麗なリズムの動きで目を引くではなく、蕭然たる音で聴き手の精神面に訴えかけ、様々な感情を呼び起こす。迷い、後悔、虚しさ……観客たちにヒーローの苦悩と葛藤を分かち合ってほしいからこんな風にしたかもしれない。


 私のイメージでは、ベートーヴェンの『エロイカ』が描くヒーローは神話的。無限の勇気と折れぬ意志、そしてなにより一度葬式で見送られても這い上がる<*1>。対してブラームスのヒーロー像は非常に人間らしい。疲れるし、迷うし。傷ついた体と心が常に癒やしを求めている。そして自分が正しいかどうかを確かめずにいられない。


 この第三楽章はまさにそんなヒーローの精神面を、つまりヒーローの内なる戦いをテーマにしていると思う。肌寒い晩秋の風の中で佇み、考え込む。自分の戦いに意味なんてあるのか?目の前の人を救っても、手が届かない場所には救えない人が大勢いる。悪人をいくら懲らしめても、人の欲望がある限り悪は滅ばない……


 そんなやるせない思いをして、力なく嘆くうちに、霧で視界がだんだん悪くなる。まるで感情がない木管の、木霊のような虚ろな音は、出口のない迷路。自分が頑張って戦い続ければいつか世界が平和になる、なんて甘い幻想はとうの昔に捨てた。それでも諦めきれなくて、希望と絶望の狭間でさまよい、無駄に精神がすり減る終わりなき戦いから抜け出せない……結局答えが出ないまま第三楽章が終わり、とりあえず悩みは一旦忘れて、決戦の地へ急ぐヒーローであった。


 ちょっと難解な精神世界の描写があったが、この後の第四楽章に入ると一気にわかりやすくなるでしょう。『交響曲第三番』の中で一番わかりやすいところだと私が思う。闇と光の大決戦そのまんまだから。広がる闇を模する第一主題と、ヒーローの勇姿を描く第二主題が、とてもきれいな形で対立している。特に第一主題の表現の仕方がすごいと思う。あのぐねぐねする音、まさに不気味に這い寄る、蠢く闇。


 遠くから迫って来る闇と、待ち構える光の軍勢がついに激突する。大いに盛り上がる後は、颯爽に登場するホーンとチェロで紹介される第二主題。ヒーローの規格外の力を中心に、押され気味の光側が一気に押し返す。このまま闇の大元を断つべきところだが、進めば進むほど濃くなる黒い霧に方向感覚が狂わされる。気づいたら進路は無尽蔵に湧き出る闇に阻まれ、さすがのヒーローも守りに入らざるをえない。


 緒戦では双方とも攻めきれず、膠着状態に入った。このまま戦いが長引くじゃないかと思われるとき、異変が起きた。高い空の彼方より響く荘厳な音色は、戦場を走る閃光。誰もが戦いを忘れて空を見上げる。ついに戦いのターニングポイントが訪れる。ヒーローが振り降ろす剣に導かれるように、輝く空から眩しい光が闇を目指して降りていく。


 金色の光に焼かれる闇の群れは、最後の力を振り絞って反撃を試みる。闇を象徴する第一主題は再現部で大幅に簡略化された形で現れる。もう後がないと悟ったから、前よりも猛々しく、直接に、力強くに襲いかかる。それに比べると、第二主題はほぼ完全に元の形のままで再現。もう勝利を確信したから、これ以上無理する必要がないとヒーローが判断する。このまま陣形を維持して、余裕を持って闇の悪あがきを防ぐだけでいい。味方を誰一人とも無駄死にさせたくないから。


 やがて地上に舞い降りた輝きが霧散する。残されたのは浄化されて徐々に晴れる闇。不気味な第一主題が穏やかな長調になり、緩やかに、静かに消えてゆく。それを見届けると、すべての力を使い切ったヒーローは仰向けに倒れ、目を閉じて今までの戦いを振り返る。第一楽章の第一主題がかすかに聞こえる。すべてが懐かしく思える。ようやく勝ち取った平和がいつまで続くかはわからないが、少なくとも今の自分の戦いによってたくさんの命が救われたのは間違いない。そう思うとちょっとだけ報われた気分に。今はもう何も考えたくない、ただ気が済むまで寝たい……


 まるでヒーローが眠りにつくのを見届けるように、お父様が動きを止め、団員のみんなを見渡してから、軽く頷いて構えを解く。観客席は国の英雄の帰還に大はしゃぎする。普通ならこんな静かな感じで終わる曲では、観客たちの反応はもう少し控えめになると思うけど、今は暴動一歩手前くらいの熱狂っぶり。


 でも観客たちがここまで興奮するのもわかる。それくらいのパーフォーマンスだったから。


(これが、異世界のマエストロ……すごすぎる……!)


 お父様のパーフォーマンスを一言で言えば、派手。変幻自在の速度変換。極限まで表現力を追求した音色。『交響曲第三番』はもともとドラマチックな曲だけど、ここまでやるのもあまり観なかった。こうなってしまった原因はおそらく、この世界のブラームスは、地球のとは全く違う人なりだから。それで作曲者へのイメージが解釈に影響が出たんだろう。


 もし初対面の相手と組むときこんな派手なやり方をしたら、いかにコントロールが得意な指揮者でも事故する。それを実現するために必要なのは、日頃の地味な努力。ひたすら練習を積み重ね、お互いへの理解を深める。最終的には、どんな無茶でも長年付き合ってくれた相方なら応えてくれるようになる。地球でも20世紀終盤まではそんなスタイルが多いが、今はそういう超長期政権ができないように数年ごとに監督を交代させる体制が主流。まぁ昔と比べると観客が飽きるのが早いし、様々な娯楽と文化が発達した時代だから業界も生き延びるのに必死なわけよ。


(……これなら、お父様が他のオーケストラを指揮するとどんな感じになるかも観てみたいね。本来なら来月にウェンディシュ王立交響楽団ことWRSOの客演があるけど、お父様が倒れたから中止になったね。次の共演は……)


 満場の拍手の中で、私はもう次のコンサートのことを思い浮かべ、WRSOのプログラム表をチェックしてる。



~~~~~~

<*1>ベートーヴェンの『交響曲第三番』の第二楽章は葬送行進曲だから、アリアがそんな風に解釈したと思われます。実際どんな解釈するかは人それぞれ。「英雄の過去との訣別」とか象徴的な意味の葬式だと考えるほうが多いじゃないかなと思います。

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