チャプター2

NO.2-1 新しい日常

 天井がいつもより低いような気がする。と言うより、近い。


 そうか。これはアリアの天蓋付きベッド。とても体に馴染むのに、はじめて見たような気もする。どうしても違和感を覚える。


(夢じゃなかったのね……昨日色々ありすぎて、まだ実感がわかないけど)


 あの後も大変だった。この世界での初めてのカーテンコールは歓声が止まなくてなかなか終わらせることができなかったし、ハイエナのように寄ってくる記者たちの取材はお父様が心配を理由でどうにかあしらったし……シャワーを浴びてベッドに潜ったらすぐに意識を失った。


「あれ?アリアちゃん、もう起きてる?」


「うん。おはよう、シャルカちゃん」


「おはよう。では朝の支度いっくよー」


 とても令嬢とメイドの会話とは思えないけど、これが人目につかないところのアリアとシャルカだから。スタンニスラウが伯爵になる前のアリアはワルマイヤの田舎で育ち、平民の子供たちと遊び回っていた。中でもシャルカと一番仲が良くて、大人たちが手を焼く二人の悪ガキとして知られていた。後にスタンニスラウが活動拠点を王都カランカオーに移すことにしたが、娘が貴族社会にうまく溶け込むことができるかすごく心配だった。それで少しでもアリアのストレスを減らすために、シャルカをアリアの付き人にして一緒に王都に連れてきた。


 他の人がいるときは流石にメイドらしく振る舞うが、今でも二人っきりになるとシャルカは昔のようにアリアを接してくれる。それがアリアの望みでもあるから。


 鏡の前でシャルカちゃんに髪を整えてもらう。この世界に来てから初めて自分の容姿をじっくり観察できるチャンス。アリアは顔が整ってるし、肌がすべすべ。スレンダーな体型で身長は平均的。ちょっと生意気な目つきも桜色の唇もチャームポイント。


 ……自分で言うのもなんだけど、アリアは結構かわいいと思う。つまり、ベースとなった前世の私もかなりかわいかったかな。前世の記憶が薄れた今では以前の自分の容姿も思い出せない。でもこのまるで炎みたいな赤い髪は絶対前世とは違うと思う。


 強いて言えば、残念なところは、胸元が少し……いや、かなり寂しい。まぁ大きすぎても指揮するとき邪魔だから別にいいか。昔大学の先輩がそう言ってた。


 身だしなみを整えて、音楽科の制服に着替えた。白を基調にスタイリッシュな黒い装飾線、これは五線譜を意識した意匠。今やこの制服は羨望の対象。でもアリアも、私も、こういう決められた制限はあまり好きじゃない。卒業まで後少しの間の辛抱だ。


 階段を降りてダイニングに行くと、朝食の用意がもうできている。執事のアンドレイさんがいつものところで待機している。クリューフィーネ家の王都屋敷に他にも多数の使用人がいるが、そのほとんどの業務実態はSWPOの裏方。普段は屋敷別館のコンサートホールで働いている。まぁアリアと両親しかいないから本館にそんなに人員を配置する必要がないね。


「お父様とお母様はまだ……あっ、そうか。今日はいないね」


 昨日スタンニスラウはそのまま神殿へ搬送され、マニエラもコンサートが無事終わるのを見届けたら神殿に向かった。今この家にアリアの家族は一人もいない。


 席に座ったら、シャルカちゃんも定位置について、口調を変える。


「アリア様の本日の予定なんですが、午後の自主練習時間はどういたしましょう。今日は学院オーケストラがない日なので、SWPOの皆様にお願いしますか」


(そっか、学院オーケストラのこともあるか。卒業まであと二ヶ月の短い付き合いだけど、まだ卒業コンサートという最後の大仕事が残ってる……)


 王立学院の音楽科は三年生になると午後の授業全部自主練。専攻弦楽と管楽の生徒は独奏と小編成の練習もあるから、週に二回だけ学院オーケストラとして集合して、アリアともうひとりの指揮者志望の子と一緒に練習する。集合日以外私たち指揮者組は図書室で勉強するか、ゆかりのあるオーケストラのところに行く。


 もう卒業間近だから、自主練の時間になるとみんな結構自由にやっているし、家の都合で休んでも咎める人がいない。今はやることいっぱいだから私も休もうかな。


「午後はお父様のお見舞いに行きましょうか」


「かしこまりました。神殿に連絡を入れておきます」


 料理はどれもアリアの大好物だけど、落ち着かなくて味がよくわからない。この食卓は私一人が使うには大きすぎる。


「ねぇ、シャルカちゃん。一人だけで食べるのが落ち着かないから、隣に座って一緒に食べよう」


「無茶言うな。そんなことしたらアンドレイさんに殺されるって」


 私にしか聞こえないように小声で喋ったつもりだが、その考えが甘かったようね。


「……お嬢様に対して敬意のかけらもない話し方をしているメイドがいるような気配を感じます。どうやら久しぶりに再教育が必要ですね」


「ひぃ!き、気のせいですよそんなの、きっと」


「お嬢様が立派にデビューを果たしましたし、これからは注目されることが多くなるでしょう。付き人がこんな調子ではいつお嬢様に恥をかかせるか不安でなりません。ではシャルカくん、お嬢様を学院まで送ったら私のところまで出頭するように」


 あっ、シャルカちゃんがこの世の終わりみたいな顔してる。うん、その、ごめんね。


「お嬢様も使用人を困らせるような無理な願い事はしないように」


「あっ、はい」


 しかしこんなにも豊かな表情と鮮やかな反応を見ると、本当にみんなのことを普通の人間としか思えない。管理者たちが魂を自由に作り出せるって話、嘘ではないかもしれない。私の精神衛生的にもそのほうが都合がいいし、もうこの世界のみんなが本物の人間じゃないという疑いを捨てよう。


(さて、食事しながら現状の確認でもしようか。今は考えないといけないことがいっぱいあるし……)


 まず一番重要なのは、私の意識とアリアという器の関係。管理者が「記憶の統合」について説明してくれたけど、内容が難しくて思い出すだけで頭がパンクしそう……


 前世の生活、知人などの記憶は残っても新しい器の記憶と競合して不具合の温床になるから、器移動の仕様で消される。昨日転生の直後、自分はこれからアリアとして生きると意識した瞬間、前世の記憶の大半を失ったような気がする。後で検証してみたら、前世の自分の顔や名前、両親のことなども含めて、かなり徹底的にやられた。


 その一方で、学んだ知識と技術はあまり被害がない。特に音楽関連は管理者がプロテクトをかけたから全部持って来られた。私の大好きな親友も人間関係に該当するから、今は顔も思い出せないが、あの子と過ごした時間の中に音楽関係の出来事が多いから覚えていることは案外多い。


 逆にアリアの記憶は今私が閲覧できるようになったが……これはなかなかすんなりにいかない。記憶は確かに頭の中にある。でもそれを思う通りに引き出すことが難しい。どんな記憶があるかもわからないから探しようがない。まるで図書館で索引なしで本を探す苦行みたい。まぁなにかきっかけさえあればすぐに関連の記憶を思い出すからそこまで困らないかな。


 今はまだアリアのことを完全に自分と同一視できなくて、時々第三者みたいに客観的な角度から観察するようになる。アリアの記憶も消化しきれていない。正直自分は貴族令嬢なんて柄じゃないと思うけど……幸い周りの人々はなんちゃって貴族のアリアにかなり甘い。多少貴族らしからぬ言動があっても許してもらえる。これならなんとかやっていけそうな気がする。しばらくは目立つ行動をしないほうがいいか。アリアの日常生活に順応することに専念しよう。そのうちアリアのことを違和感なく受け入れると思う……管理者の話が本当なら。


 次は、この世界のことについても考えてみよう。全体的に見るとこの世界の文明レベルは地球の十九世紀後半か、二十世紀前半くらいかな。アリアが住むウェンディマール王国は帝国の中心から離れているからもう少し遅れて、まだ十九世紀前半の雰囲気を感じる。


 科学と工業による恩恵で豊かな生活ができる現代地球とはだいぶ違う感じの世界。でも魔法があるから、上級階層の生活は前世と比べても特に不便はない。生産、通信、運送、医療など様々の分野に魔法の運用がすでに確立されているから、地球で似たような役割を担う発明品の数々はこの世界では見当たらない。


 私が今住んでいる地域の詳細情報、歴史や文化、特に音楽関係の考察もしたいが……そろそろ時間ね。シャルカちゃんと学院に行こう。



――――――――――――――


 意外かもしれないが、王都では馬車で登校することが禁止されている。大貴族の子女でも朝は徒歩で登校するしかない。人口増加と教育の普及によって、朝の交通渋滞がひどいことになったのが原因らしい。生徒たちに適度な運動をさせる意図もあるみたい。


「もう、アリアちゃんのせいだからね!朝からひどい目にあったよぉ……」


「ねぇ、外でそんな口調で大丈夫?」


「へーきへいき。どうせこのあと死ぬほど絞られるのはもう確定なんだから」


「そんな大げさな……」


 まぁ、アンドレイさんの説教はマジきついから、そう言いたくなるのもわからなくもない。


 校門でシャルカちゃんと別れて、敷地に入る。ウェンディマール王国の貴族であれば、十歳からの六年間はこの由緒ある王立学院で教育を受ける義務がある。全員同じ内容の授業を受ける初等部で三年、そしてそれぞれの専門学部に分かれる高等部で三年、無事卒業して初めて一人前として認められる。昔は魔法科が一番優遇されたが、音楽文化の盛行によって今は音楽科が最も人気のある学部になった。


 音楽科の校舎に向かう途中、待ち伏せに遭った。紫の制服の少女二人が近づいて来て、すごい形相で私を睨む。


「ふーん、これはアリア・クリューフィーネじゃありませんか。昨日あれだけの活躍をして、さぞ得意げな顔をしているだろうと思っていたが……ここまでとはねぇ」


「ごきげんよう。見ていてむかつきますが、その間抜け面あなたによく似合っていますね」


 いかにも高飛車な茶髪の子に、メガネしている陰気な黒髪の子。アリアの記憶を見てもこの二人のことはよくわからないが、何度か会ったことがあるみたい。制服の色が紫なのは、確か魔法科の子かな?魔法が使えるなんて、羨ましい……じゃなくて、なんでアリアに因縁つけてくるの?って言うか、私の顔そんなに変なの?


「……おはようございます。その、なにかご用でもありますか」


「ふん!ちょっとちやほやされたくらいでいい気にならないでね!」


「調子に乗らないでください。平民と大して変わらない下級貴族生まれのあなたがエリカ様に楯突くなんて許されるようなことではありません」


 やばい。話が通じない人種みたい。


「えっと、何が言いたいのかわからないんですが……あなたたち、魔法科の生徒なんですよね?どこかで会ったことあるような気がしますが……」


 おかしい。アリアの記憶を辿ってもこの二人の情報がほとんどない。名前すら出てこない。あの天使モドキの設定ミスかな。頭の不具合とか絶対に勘弁してほしいんだけど。


「あ、あなた!まさか……未だにわたくしたちの名前も覚えていないと言うの?どこまで人をバカにしているのですか!」


 おっ、良かった。不具合ではないのね。名前がわからないのは正しい反応っぽい……って、そんな呑気なことを言う場合じゃない!茶髪の子が激昂して今にも飛びかかって来そう!どうする……?


「貴女たち、なにをしているのですか」


「「エ、エリカ様!」」


 金髪縦ロールの美しい令嬢が颯爽と登場。その姿はまるで少女漫画の登場人物みたいで、見るだけで思わずため息をつきそう。彼女のことをアリアはよく知っている。モラウーヴァ公爵の孫娘エリュシカ・カレンデム。アリアの同級生、音楽科の学年首席、そしてアリアと同じ指揮者志望。エリカは指揮だけでなくオルガンも得意。特に好きな作曲者はオルガニストとしても有名なブルックナー……んー、若いのに渋い趣味してるね。


 アリアには見慣れたはずの同級生の姿だが、今の私に非常に気になるところがある……でっか!「どこが」はあえて言わないけどとにかくでっか!おかしい……大学の先輩情報によると、あれくらいあると絶対指揮の邪魔になるじゃん。学院オーケストラとの合同練習でエリカが指揮しているところを何度も見たことがある。でもアリアの記憶の中ではエリカはいつも普通に動けたような……薄々気づいてたけど、やっぱりあの先輩デタラメ言ってたかも。先輩は胸の大きい女性を親の仇のように憎んでいるから。


「貴女たちどうしていつもアリアさんのことになると……色々言いたいことあるけど、まず上級生に対して敬意を払うべきですわ」


「「申し訳ありません……」」


 ってこいつら下級生かよ!あっ、アリアの記憶から今のやりとりと似たようなエピソードがいくつか出てきた。毎回こんな感じに二人に絡まれてエリカに助けてもらって、そして下級生になめられてるのを知ってショック。なるほど、思い出した。こいつらもアリアと同じ伯爵令嬢なんだけど、うちのような国王直臣ではなくモラウーヴァ公爵の臣下。それでエリカに頭が上がらない……というより心酔している。


「わたくしにじゃなくて、アリアさんに謝罪すべきでしょう?」


「「………………ごめんなさい」」


(うわっ、そんな恨みがましい顔で謝られても……)


「――そろそろ授業が始まりますわ。ではエリカ様、また放課後お会いしましょう!」


「あっ、ちょっと……!あぁ、もう……」


 逃げ足が速い二人の下級生が退散し、エリカは追いかけようとしたが、私との話が終わってないので結局この場に残ることにした。そのまま私と一緒に教室に向かいながら話の続きを。


「すみません。またわたくしの身内が迷惑をかけてしまいました。わたくしの方から厳しく言うから、この件は任せていただけますか?」


「あ、大丈夫です。私気にしていませんから」


「そういうわけには参りません。わたくし途中から来ましたが、『下級貴族生まれ』という単語はしっかり聞き取れました。アリアさんからすればそれは侮辱ともとれる言葉です。さすがに今回は厳しく言わないといけないですわ」


 相変わらず他人に厳しく自分にもっと厳しい。そんな生き方してつらくないかと、アリアはいつも思っている。


「身内をかばうわけではないですが、あの子たちに悪気がないと思います。アリアさんの家族を侮辱するつもりはないと思うから、どうかサレンジア伯爵様に報告しないでもらえますか?」


「本当に大丈夫です。お父様には言わないし、そもそもお父様たちもそんなこと気にしません」


 言われてみれば確かに。もともと男爵でしかないクリューフィーネ家を貶していた人これまでアリアはたくさん見てきたが、あの二人はそんな感じじゃなかった。今のはどちらかというとアリアを攻撃したいだけ。でも他にいい材料が見つからないから出身の話を引っ張り出した。もちろんそれで許されるようなことではないけど。貴族社会はこういうところ本当に面倒だね。


「ありがとうございます。しかし一体なぜなのかしらね。アリアさんに言っても信じてもらえないかもしれませんが、アイミもシゼルも本当はとてもいい子なんですよ。貴女と関わる時だけこんなにも変になります。不思議ですわ」


「そ、そうですねーどうしてなんだろうね……(えっ、マジでわからないのか。あなたと張り合うアリアのことが気に入らないから、としか考えられないじゃん……)」


「それにしても、昨日は大変でしたね。突然ステージに上がったにもかかわらず、あんな素晴らしいパーフォマンスができるなんて……感服いたしましたわ」


 同級生のデビュタント。それもただの同級生ではなく同じ道に進もうとする同志にしてライバル。当然エリカは昨日のコンサートに来てくれた。でもアリアとは開場前少し挨拶を交わしただけ。休憩時間から私がアリアになり、色々あってドタバタしていたから。


「ありがとうございます。まぁ、その……なんというか、最初はすごく緊張しましたけど、無我夢中やってるうちになにも感じなくなりました。どちらというと、SWPOの皆さんに助けられました、かな」


 ボロが出ないように少し大げさに言うけど、本当は前世の経験があるからそこまで緊張してなかったかな。さすがに昨日みたいな非常事態は体験したことがないけど……まぁ二回目のコンクールで大火傷したことと比べれば、ねぇ。


「ご謙遜を。昨日指揮した時の姿とても輝いていましたよ。アリアさんの学友であることを誇りに思っています。わたくしのデビュタントもあんな風に自分の手で指揮したいですわ。しかしお祖父様とカリームさんにずっと反対されてきました。アリアさんも同じでしたね。全くみんな過保護なんですから」


 カリームは……たしかにエリカの家が所有する新ザロメア劇場オーケストラことNZTOの監督。エリカがNZTOと練習するときアドバイスしてくれるらしい。保護者と指導者両方ともだめと言うならさすがに厳しいか。アリアの時と同じだ。アリアの場合保護者と指導者は同じ人だけどね。


「アリアさんがやり遂げたおかげで、お祖父様たちを説得するいい材料ができましたわ。ふふっ、アリアさんには負けていられませんからね」


 まさか、私ができたから自分も大丈夫と主張して、強引にデビュタント・コンサートの指揮権を奪い取る気なの?気持ちはわからなくてもないが、やっぱり危なかっしいと思う。中身にちょっとしたチートを積んだアリアと違い、エリカはただの音楽科三年生。十五歳にしては非常に優秀なのはわかっているけど、初めてのステージは失敗が許されないデビュタントではなく、もうちょっと重要度が低いやつにしたほうが……ああ、だめだ。すごく心配だけど、アリアの立場ではエリカを止めるなんてできない。アリアも同じような愚痴を散々言ってきたから、自分がデビューしたら手のひら返してエリカを諌めるなんて……怒られる未来しか見えない。


「これだけは忘れないでください。誰よりも貴女の成功を喜ぶのはこのわたくしですわ。今は貴女が一歩先に行きましたが……わたくしはすぐに追いついて、そして更に上に行きますわ。どこまでも競い合いましょう。この先ずっと、ね」


「えっ、ええ。そうですね。あはは……」


 アリアはエリカのことが嫌いではない。どちらかというと尊敬している。でもその曲がったことを許さない正義感と、過剰なまでの向上心はアリアには眩しすぎる。その熱い眼差しにどう反応すればいいのかわからない。一緒にいるとたまに息苦しくなるから、エリカのことが苦手だと感じる。


 それにしても、好敵手ライバルか。前世の私にそんな人がいなかったような気がする。大学で私の他に本気で指揮者になりたい同級生いなかったし……その代わりに、作曲科に私の大好きな親友がいた。いつか私の指揮であの子の作品を初演させると約束を――


 そうか。あの夢はもう、叶わないのか……



――――――――――――――


 座学の授業は貴族としての一般教養、そして音楽科の音楽理論、音楽史など。音楽の授業は前世の大学で学んだ範囲を超えてないから適当に聞き流してもいいけど、この世界の一般教養は今の私にとって非常に重要。幸いアリアの頭の中に今までの授業内容が入ってるから、授業を受けるとすぐにそれと関連する記憶が浮かび上がる。


 地理と歴史の授業で、この世界の情勢に対してだいぶわかってきた。どうも今私がいるオーラニア大陸は地球のヨーロッパをベースに作られたみたい。タイトルやニックネームに地名がついてる楽曲がたくさんある。この世界ではこっちの地名に置換されているから、すぐにわかった。例えばモーツァルトの『交響曲第38番』。プラハで初演され、そのまま「プラハ」の愛称がついた。その『交響曲第38番』、この世界でついた愛称は「プラーウガ」。プラーウガはアリアもよく知っている有名な街。中央オーラニア有数の国際都市にして、「百の尖塔の都」……プラハじゃん。でも地球のプラハはチェコの首都。どうしてこの世界でプラーウガが帝国の自由都市になってるのかはまだわからない。もっとこちらの世界のことを知らないと。


 ちなみにチェコは三つの地域で構成されている――ボヘミア、モラヴィア、そしてチェコ領シレジア。この世界のモラヴィアはおそらくモラウーヴァ公爵領――エリカの家の領地ね。シレジアは間違いなくサレンジア伯爵領――お父様の領地ね。サレンジアから北東に進むと王都カランカオーにたどり着く。相対位置的に考えると、王都は地球のポーランドの旧都クラクフかもしれない。だとすれば……ウェンディマール王国はポーランドとチェコの一部が合体したってところかな。地図を見る限り多分これであってる。


 他にも、「イタリア」と呼ばれているメンデルスゾーンの『交響曲第四番』はこの世界で「ラテウム」と呼ばれている。チャイコフスキーの『イタリア奇想曲』も『ラテウム奇想曲』になっている。ブラームスの『ハンガリー舞曲』はこちらでは『マツァール舞曲』。ハイドンの『交響曲第104番』についた愛称「ロンドン」はこちらでは「ルンディヌ」……こんな感じでこの世界の国名、地名を調べて、それと関連する楽曲があればモデルとなった地球の国や街が実在していることがわかる。


 ヨーロッパ以外のことも楽曲から知ることができる。例えば『魔笛』はエジプトの話。『蝶々夫人』の舞台は日本。それらの脚本を調べればこの世界での対応の地名などいろいろがわかるだろう。でもアリアは大陸の外のことについてほとんど知らないから海外の調査は難航しそう。商人や外交官など特定の職に就く人だけが海外について勉強する、というのはこの世界の教育方針らしい。


 午前の授業が終わり、シャルカちゃんと合流する前に図書室にやってきた。まだ時間があるからこの世界のことを知るための資料になりそうな本を借りたい。特に音楽史関係は急いで調べないと。良さそうな本をいくつかピックアップして、貸し出しの手続きの前に少し中身を確認しよう。もしかしたら思った内容と違うかもしれない。


「あら、こんにちは。また会いしましね」


「こんにちは。エリカさん今日は図書室で自習ですか?」


 学院オーケストラの集合日以外、午後自主練の時間私たち指揮者組はよくここで遭遇する。


「はい。今NZTOは新しい演目の稽古をしている最中ですから、邪魔したら悪いと思うのですわ。アリアさんもご一緒にどうでしょうか」


「ごめんなさい。私はこれから父の見舞いに行きますから」


「そうですか。サレンジア伯爵様の病気、大事ないとは聞いていますが、早く治るといいですね」


 私が借りようとしている本を見ると、エリカは怪訝そうな顔をする。


「ア、アリアさん?貴女一体、どうしましたの?そんな本を借りて……」


「えっ?私が、音楽史の本を借りるのは……変なのかな?」


「変ですわ。だってあのアリアさんですよ?図書室に来てもひたすら譜面とにらめっこのアリアさんでしょう?作曲の背景など楽譜にないものなんて考察しても無駄、というより有害と言ってたあのアリアさんですよ?」


 うそっ、私そんな原理主義的なことやってたの?言われて記憶を確認してみたら、本当にそうだったみたい。アリアは学院で全体的にいい成績をおさめるが、音楽史だけ毎回追試でなんとか単位を落とさずに済んだ。いつも授業を頑なに拒否したから。アリアマジとんでもない子だった……


 最初は管理者に文句を言いたかったが、すぐに気づいた。これは別に私を困らせるために作った設定じゃない。私は地球の音楽史を勉強してきたが、この世界で歴史がどんな風に改変されたかは全然知らない。だから辻褄が合うようにアリアにこんなむちゃくちゃな設定を付けた。これはむしろ管理者なりの気遣いじゃないかと思う。ちょっと強引すぎるような気もするけど。


 スタンニスラウはアリアと見解違いがあってもよしとする。というより娘の行動に基本的に全肯定。しかしそんなお父様でも、音楽史の件についてさすがに不安を感じた。そこでアリアの両親は一計を案じた。シャルカちゃんにアリアが学びたくない分野を勉強させる。こういうのは普通メイドの勤務に含まないが、シャルカちゃんはアリアの付き人だから、アリアのサポートならどんなことも仕事のうちだと言える。その分他の仕事が減るから本人も喜んで引き受けた。アリアの両親の計画通り、シャルカちゃんの付きっきり一夜漬けなら、友達の努力が無駄になるのが忍びないアリアは授業を受け入れ、これまでなんとか追試をパスできた。


(そうだ。今思い出した。こんな本より直接シャルカちゃんに教えてもらったほうが早いじゃないか。後でお願いしよう)


「……アリアさん?」


「あっ、ごめんなさい。ちょっと考え事していました」


「やっぱり変ですわ。急にそんな本を借りるし、ずっと上の空ですし。調子が悪いのかしら?」


 エリカが違和感を覚えるのも当然か。私がアリアとして転生したから、もうエリカが知っている、管理者が設定したあのアリアと同じじゃなくなった。


「……いいえ、そんなことありません。ただ昨日いきなり目を覚めたというか、衝撃的な出来事の後でまるで世界が違うように見えて……それでいろいろ考え方を変えました、かな」


 もう昔のアリアではなくなったことをやんわりと伝えようとしたら、エリカが予想外の反応をする。


「……そう。一足先デビューを果たしたことを自慢したい、というところかしら」


「えっ?どうしてそんなことに、」


「余裕でいられるのも今のうちですわ。貴女には負けませんから」


 そう言って別れも告げずに去るエリカ。なんで急に不機嫌になるの?朝はアリアのデビュタントの成功を祝ってくれたのに……


 ……いや、本当はわかっている。今はエリカにとって非常にデリケートな時期。デビュタント・コンサートを控えているし、それを自分で指揮したいが許してもらえないし。試験前の情緒不安定みたいなものかな。そんなところで、すでにテストをいい成績でパスした人が目の前にウロウロされると……そりゃイライラもするしね。


(それでも、今のはエリカらしくないよ……ほんとどうしちゃったの)


 私の言葉を勝手に深読みして、煽りと受け取ったなんて……アリアがよく知っているいつものエリカならそんなことをするなんて考えられない。


(心配だけど、そっとしておこう……アリアにできることは何もないから)


 本を借りる必要がなくなったので、本棚に戻して私は図書室を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る