NO.1-3 デビュタント・コンサート
気がついたら、目の前にお父様が血を吐いて倒れている。
「あなた、血が!」
隣にいるお母様は血を見て動転している。
「……ゴホッ、いつもの胃炎だ。大した、ことない」
(いやいやいや、なんなのこの状況?いきなりとんでもない場面に放り出されたんですけど?)
慌ててお父様のもとに駆けつける人にぶつかられて、転倒しそうなところで付き人のシャルカちゃんが受け止めてくれた。
「アリア様!大丈夫ですか?」
……そう。私の名前はアリア。
サレンジア伯爵令嬢アリア・クリューフィーネ。独り子だから今のところ伯爵位の第一順位相続人でもある。
いったいなにが起きたと言うの?ついさっきまで、私はお父様とソリストのべリャンスクさんと一緒にカーテンコールに出ていたはず。そしてステージ裏に戻ると通路でお父様がいきなり倒れて……
あれ?なんか違う。私はさっきあの管理者の悪趣味な部屋にいたんじゃない?
なんだろう?記憶が混乱している。まるで自分が二つに分かれているみたい。
それを気づいた瞬間、地球にいた頃の記憶が急激に希薄になってゆく。とても大切ななにかが次々と抜き取られるような感じがする。それを止めたくてもどうすればいいのかわからない。やがて前世の自分の名前も、最愛の両親の顔も、親友と過ごしたかけがえのない日々も思い出せなくなった。
代わりにアリアが生きてきた十五年間の記憶が鮮明に浮き上がる。
……そうか、私はもうアリアとして生きていくしかないのね。この新しいステージで……
状況を把握するために、大至急にアリアの記憶からこの世界の知識と常識を引っ張り出す。
上流階級は子女が成人と認められる十六歳の誕生日を盛大に祝う風習がある。昔なら社交界の仲間入りとしてパーティーを開くが、音楽文化の盛行によって今は別の形に変化した。それが「デビュタント・コンサート」。楽器を演奏することができる貴族の子女はもちろん、音楽ができない人てもツテさえあれば演奏家を招いてコンサートを開く。なぜかというと音楽に携わる人間として認められたいから。パトロンしているだけでも一種のステータスになる。今どき子供のデビューにパーティーを開く人は時代遅れと思われがち。
そして今日はアリア・クリューフィーネ、つまり私の十六歳誕生日。今はまさにデビュタント・コンサートの最中である。
出演者はSWPOことサレンジア=ワルマイヤ・フィルハーモニアオーケストラ、その監督を務めるサレンジア伯爵スタンニスラウ・クリューフィーネ、そしてソリストのピョートル・べリャンスク。スタンニスラウの指揮でモーツァルトの『魔笛:序曲』と『クラリネット協奏曲』が演奏され、前半が終わり休憩時間に入った。
指揮者志望のアリアは今日のコンサートを自分でやりたかったが、「お前にはまだ早い」とスタンニスラウに却下された。お父様がそう判断したのもわかる。指揮者の養成に時間がかかるから。普通なら十六歳の時点で技も心もまだ発展途上。無理にステージに上がって挫折でもしたら将来に悪影響を及ぼす恐れがある。しかもそのステージは人生に一度だけの社交界デビューでもあるから。実際これまでのデビュタント・コンサートで主役が自ら演奏するのは独奏や小編成ばっかり。指揮者として自分のデビュタント・コンサートを采配する者はいなかったみたい。
通路の真ん中でアリアの両親がまだ言い合っている。
「……大丈夫だ。服に血がついただけ。着替えてから、後半に出る」
「どこが大丈夫なのよ!この前治療官が言ったよね。また血を吐いたら一刻も早く神殿に強制連行って!」
「しかし、俺がいないと、アリアのデビュタントが……」
管理者ががわざわざこの状況を作り出して、新しい世界の始りとして設定したというなら――
(これ、どう考えても……お父様の代わりに私が出ろって流れよね?ぶっつけ本番かよ!)
あの天使モドキめ。なんて恐ろしいことをしやがる。もしもう一度会えるなら文句を言ってやりたい。
でもよく考えると、今のアリアの中に音大卒の私が入っている。私が前世で勉強したことは頭の中に詰め込まれている。アリアは私をベースに作られた器だから、動き方もちゃんと体が覚えているみたい。それに何より大事なのはコンクール三回失敗の経験で鍛えた度胸がある。こんな軽くチートしている状態ならあるいは……
(いやいやいや。そんな簡単な話じゃないよ……)
アリアの記憶からある重大な懸念事項を見つけた。アリアとスタンニスラウの間に音楽に対して意見が大きく別れているところがある。
それ自体は別に悪いことではない。スタンニスラウも「自分の考え方があるのは素晴らしいことだ」と褒めてくれた。しかし今の状況ではこんな見解違いは致命的。この日までオーケストラはスタンニスラウが目指すパーフォーマンスができるようにを準備してきた。そこでいきなり別のイメージを描く指揮者がバトンを繋ぐことになったら、まず時間をかけて慎重に意見交換する必要がある。リハーサルも行わないといけない。例えるなら、この状況はサッカーチームの監督交代と新しいタクティクスの導入に似ている。これまでと違う戦術に適応するにどうしても練習時間が必要。プレイヤーたちに新しい監督のことを認めさせる必要もある。
(アリアの場合、今更オーケストラとの信頼関係なんて気にしなくてもいいのがせめてもの救いか……SWPOは我がクリューフィーネ家自前の楽団だから。彼らにとってアリアはボスの娘、小さい頃からよく知っている。アリアの指揮者修行にもよく付き合ってくれたし……っていうかアマチュアの練習に一流のオーケストラが付き合ってくれるなんて贅沢すぎない?そもそもこの自前でオーケストラ持ってる設定自体がめちゃくちゃだし……いや、地球でも十九世紀までならそこまでぶっ飛んだわけでもないか。あの管理者、気に食わないやつだけど太っ腹だね)
「……中止はなしだ。中止にするくらいなら、たとえ命を削っても俺は出る」
娘の大事なお披露目だから必死になるのはわかる。しかし一生に一度の大事なイベントであっても、アリアとしてはあまり無茶をしてほしくない。
「わ、わかったわ。代役を用意すればいいでしょう?誰か心当たりがないの?」
「こんな急に、ゴホッ、頼んでも、引き受けてくれる人がいるわけない」
普通なら指揮者の代役を探すのはそんなに難しくない。活躍の場がほしい若手が喜んで引き受けてくれるから。でも今回の状況は違う。時間が厳しすぎる。まともに準備ができないままステージに上がるのはベテランだって怖気づく。それに距離的にも、その代役候補が今王都カランカオーの西区画にいないとまず間に合えない。
アクシデントがあったと観客たちに説明して、納得してもらえれば少し時間を稼げそうが、それも限度がある。いつまでも引き伸ばしなんてできない。
(――どう考えても代役の線はない。私を除けば……やっぱりここは私が出るしかないのか?)
実は前任指揮者との見解違いを手っ取り早く解決する方法がある。それもとても単純な方法。オーケストラに私の考え方を浸透させる時間がないなら、私が現在のオーケストラのやり方に合わせればいい。ひとまずこの場ではお父様の流儀に従う形で切り抜ける。さっきのサーカーの例で言うと……監督交代したが時間がないので、タクティクスを下手に変えず今まで通りに最初の試合に臨む。
しかしこの方法で行くと新たに浮上する問題もある。今度は私の技量が問われる。本来の自分のやり方ではなく、他の指揮者のスタイルを意識して動く。それはつまり自分を押し殺して他人になりきろうとすること。当然いつものようにタクトを振るより難しい。
今の私にできるの?打ち合わせもしていないのに、自分のスタイルを曲げて指揮する……やっぱり自信がない。前世の経験を計算に入れても、私はまだまだ駆け出し。そんな高度な立ち回りなんて絶対無理。
せめてあと三十分あれば、リハーサルができなくても最低限の打ち合わせが……あと十分で後半が始まるこの状況に、私になにができると言うの?
「今からゼニエムくんを頼んでみるのはどうかしら」
「……間に会えるわけない。あいつはプラーウガにいる。どんなに急いで来ても一日かかる」
ゼニエムと言うのは……確かお父様の一番弟子で、今は西の自由都市で客演指揮者をしている。もう時間がないのに、お母様からそんな案が出るなんて、いよいよ万策尽きたみたい。
私もそろそろ結論を出さなければならない。とりあえず後半のプログラムを確認しよう。
(今日は、すべての曲目をモーツァルトで固めるのね。後は、『交響曲第39番』――)
なんという僥倖。確かにアリアは父と根本的に思想が対立するところがあるが、古典時期についての考え方はむしろスタンニスラウに近い。モーツァルトに至ってはお父様の教えに全面的に賛同している。
しかも『交響曲第39番』と言えばアリア――つまり私の大のお気に入り……そうか。思い出した。指揮するのは許可されなかったが、アリアのデビュタントだから曲目は自分で決めてもいいと言われた。この曲なら前世の私も大学でやったことがあるし、それに沿った管理者の設定では、アリアもSWPOとの練習で何度か指揮したことがある。
同じ組み合わせで該当の曲を練習したことがある。これは非常に大きい。こんな状況だから、いろいろ手順を飛ばして前回の練習と同じようにしよう。彼らはプロだから何をすべきかわかってくれるはず。
それで肝心のアリアの今までの指揮スタイルはどんな感じ?記憶を覗く限りやっぱり私と完全に同じ。前世の私をベースに作られたとは聞いたけど、ここまで完璧に再現するとは……
アリアがSWPOと『交響曲第39番』を練習した光景を思い出す。これ、私が大学でやったのとほぼ同じじゃない?違うのはオーケストラのレベルだけ。これなら私も自分のスタイルを曲げずにオーケストラに合わせることができるはず……
(あれ、なんだが……いけるような気がしてきた……)
意を決したので、お父様たちに私の決断を告げよう。
「こんな状態では、お父様が出るのは無理だと思います」
さっきから一言も喋っていないアリアが急に意見を述べたことに、この場にいる全員がキョトンしている。
「今すぐ神殿に向かって治療を受けるようにお願いします。こちらのことはどうかご心配ならずに」
「いや、しかし――」
「ここからは私が当主代行として果たすべきことを全うしますから」
「まさか……アリア、お前――」
――――――――――――――
急いでドレスからスーツに着替えて、髪を後ろに束ね、邪魔にならないようにポニテールにする。
照明魔法が切り替わって、客席が闇に包まれ、ステージが輝き出す。後半が始まる前に、プログラムの変更を告知しないといけない。
予定の時刻を超えてもオーケストラが登場せず、代わりにスーツ姿の私が出て来ることに、客席がざわめく。
「本日のプログラムを楽しみにしているところで大変申し訳ありませんが、サレンジア伯爵様はさっきの休憩時間中に急病で倒れました。幸い命に関わるような病気ではありませんが、残りのプログラムの出演は断念せざるを得ません」
大騒ぎになった。国の英雄、「ウェンディマールの至宝」と呼ばれているお父様が倒れたから、動揺が広がるのが当たり前。
「サレンジア伯爵様が出演できなくなりましたので、急遽代役を立てることになりました。このあとの『交響曲第39番』の指揮者は私が務めます。本日はもともと私のデビュタントですから、私がステージに立つのが本来あるべき形とも言えると思います」
こっちは予想より騒ぎ立てていない。先程デビュタントの一環でアリアは指揮者見習いとして紹介されたし、私の服装を見てすでに状況を察した観客も多いだろう。
「まだ勉強中の若輩者ですから不安もありますが、精一杯がんばります」
一礼してステージ裏に戻る。少ししたら拍手の音が聞こえなくなり、それはオーケストラが位置についたことを意味する。
チューニングが始まった。もうすぐだ。深呼吸して、心を鎮めよう。
通路を歩いて門をくぐり、ステージに出た途端満場の拍手が響く。
さぁ、私が新しい世界での第一歩を踏み出す時が来た。
~~~~~~
さて、いよいよ実際に音楽に触れるところまで来ました。
皆さんは普段クラシック音楽を聴くことがあるでしょうか?ハードルが高いと感じる方が多いではないでしょうか?
実は今はそうでもありません。ネットを通じて合法、無料でいくらでも聴くことができます。とてもいい時代になりました。
例えば前回(NO.1-2)で話題に出たフルトヴェングラーの『ドン・ジョヴァンニ』。こういう歴史録音/映像は50年経つと著作権保護期間切れ、というのは私の認識なんですが、実際は各国の法律が違うみたいですごくややこしいです。白なのかグレーなのかは断言できませんが、少なくともYOUTUBEでは視聴できるし未だに削除されていません。
そして同じYOUTUBEに他にも完全に合法なクラシック音楽がたくさんあります。なぜなら配信元が公式ですから。公式チャンネルを持つオーケストラが日に日に増えています。おそらくコロナの影響によってコンサート中止や観客禁制が日常になり、活躍の場を求めてYOUTUBEチャンネルの経営に力を入れるようになりました。(ちなみにこの作品を書き始めたのはコロナの最中でした)大体の曲目は検索すればすぐに映像が見つかります。物語中で紹介される楽曲も例外ではありません。次のチャプターのような、楽曲をフォーカスするチャプターのタイトルは英語の曲名と作品ナンバーにしています。それで検索しやすいと思うのでぜひ音楽も楽しんでいただきたいと思います。
ちなみに以上は録音/映像の話で、楽譜を求めるならIMSLPという素晴らしいサイトがあります。この作品の執筆中アイディアを探しに、もしくは描写のチェックで、どうしても楽譜を見たくなるときがあります。いつもお世話になっています。ありがとうございます。
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