第30話 揺れる心

「亨さん、バシバシ女の子をフッてるって噂らしいですよ」

 くすくす笑いながら、有馬さんがカーテンを開ける。

 否が応でも新しい1日はやって来る。気が付くと今日は土曜日で、亨くんの面会日だった。

「どこからそんなエネルギーが湧いてくるんでしょうね? だって恵夢ちゃんは絶対的に遼くんのものでしょう? それでも諦めないのってすごくエネルギー使うと思うんですよ」

 有馬さんが持論を披露する。

「そんなんじゃないのかもよ? みんながそう思ってるだけで、本当のところは従兄弟の責任感が大きいかもしれないじゃない? そっちの方が全然ありそう」

「ただの従兄弟でそんなことできます? わたしなんか従兄弟の名前、たまに忘れますよ」

 苦笑するしかなかった。そうか、名前も忘れるのか。それは確かに『責任』なんてものは程遠いかもしれない。


「亨くんも早く彼女、作ればいいのに」

「え? そんなこと言います? 亨さん、泣きますよ」

「亨くんだってその時が来たらわたし以外の人と」

「恵夢ちゃん、悪い癖」

「ごめんなさい」


 でも本音だった。亨くんになら素敵な彼女ができるだろう。わたしなんかじゃなく、亨くんのかけがえのない時間を使ってほしかった。

 一方で狡いわたしは、彼に寄り添っていてほしかった。遼とは違った意味の安心感が亨くんにはあった。

 小さい時からわたしは亨くんに懐いていて、親戚の法事に行っても亨くんにべったりだった。

 亨くんは「めぐちゃん」と言ってわたしをかわいがってくれたので、尚更べったりになった。

 病気になって自暴自棄になった時も支えてくれたのは亨くんだった。それからもできるだけ実家の方の病院にいた時にもお見舞いに来てくれて、ここに移った今も⋯⋯毎週お見舞いに来てくれる。

 本当に二股じゃないかと言われたら、完全否定が難しいくらい、亨くんはマメで献身的だ。

 亨くんがいなかったら、逆にわたしはどこかで遼との付き合いに疲れてしまったかもしれない。いろんな意味で。


 ◇


「思ったより元気そうだね」

 亨くんはハンガーに春物のジャケットをかけると、イスに座ってそう言った。

「それはいいこと?」

「僕にとってはね。めぐに会うことで1週間頑張れる」

「亨くんは元々優秀じゃない」

「そんなことないよ。もし仮にそうだとしても、頑張れるには心の栄養が必要」

「心の栄養?」

「めぐのことだよ」

「わたし、そんなに大それてないよ。わたしこそ栄養、亨くんにたくさんもらってる」

 亨くんは――ベッドの端に腰を下ろした。それは珍しいことだった。わたしは驚いてなにも言えなくなった。

「じゃあ、お互いに1週間分の栄養を分け合おう」

 彼はわたしの手を握りしめた。わたしたちにはそれが精一杯だと、その手が語っていた。

 従兄弟の手。

 それ以上でも以下でもない。


「大学の構内の桜が開き始めてたよ。久しぶりにあの高台に行ってみない? 歩くのが不安だったら車椅子、借りてくるけど」

「大丈夫だと思う」

「高台に古い桜の木があったよね?」

「うん」

「よし、それを見に行こう」


 高台から見える景色はあまり変わらず、新しいビルが建つのを街におりた時に見たわたしには不思議だった。

 街さえその中身は進歩していく。

 わたしとは反対に。

 ベンチに座って遠くを見てると亨くんが声をかけてきた。

「桜はようやく開き始めたくらいだね」

「一分咲きって感じかなぁ」

「なかなか季節って進まないね。こう花冷えが続くと、めぐを散歩に誘いにくいからね」

 それにはなにも答えなかった。季節が進むということは、タイムリミットが近づくことだからだ。

「早く暖かくなるといいね」

 亨くんは暢気な調子でそう言った。


 わたしは胸のつかえをここで吐露しようと決めた。


「あのね、実はこの前、友達が亡くなったんだ」

「仲がよかったの?」

「唯一の友達だった人」

「⋯⋯めぐはまだ大丈夫だよ」

 わたしはなにか違和感を感じた。この話はわたしが中心じゃなくて、清香さんの話だったから。

「わたしのことはどうでもいいの。彼女が、どんな気持ちでこの世を去ったのかと思うとやり切れなくて」

「めぐ⋯⋯やっぱり延命措置をする気はないの?」

「ここを出るつもりはないの。ここには遼がいるから」

「そんなこと! 下にもいい病院はあるよ。ここへは通えばいい」

「遼をひとりにはできないもの⋯⋯亨くんには馬鹿げて見えるかもしれないけど」


 その日の会話はそれ以上弾むことがなかった。

 空気が宙ぶらりんのまま、亨くんが帰る時間になる。なんだか悪いことをした気になる。わざわざ来てくれたのに――。


「⋯⋯遼には僕から話すよ」

「やめて! わたし、ここを出たいって言ったわけじゃないでしょう?」

「そうかな? 僕にはめぐは遼に囚われてるようにしか見えない」

「囚われてもいいの。一緒にいたいの!」

「めぐ!」

 男の人の力は強い。

 亨くんの腕は簡単にわたしを捕まえて離してくれなかった。

「命がかかってるんだよ!」

「亨くんこそわかってない! わたしに延命措置して生き続けることになったとしても、腫瘍は消えないし、また辛い思いをすることになるんだよ。それから、本当の『死』がわたしに訪れる⋯⋯」

 頬を涙が伝う。

 死ぬのは怖かった。

 でも生き続けるのも同じくらい怖い。いつ死ぬのかわからない中で生きるのは辛い。


「緩和ケアをやめて、もっと前向きな治療をしたらどう? 病院が変わっても僕は会いに行くし、めぐは遼に会いに来ればいい。僕みたいに」

「病院に入ったら外出なんてそうそうできないって知ってるくせに! もう帰って!」

 思いっきり力を込めてドンと亨くんを突き飛ばした――。

 追いかけてくる亨くんをかわして、廊下を必死に走った。

「めぐちゃん! 走ったらダメって言ってるでしょう! めぐちゃん! 忍野くんまで」

 遼、遼、遼、⋯⋯。

 わたしは遼と運命を共にしたいだけなのに。


「遼!」

 扉が開く前に、亨くんに捕まる。

「離して! 離してよ!」

 早坂さんと宮城さんが走ってくる。

「落ち着いて、めぐちゃん。身体に響くから。遼くんもビックリしちゃうでしょう?」

 その時、バンと勢いよくドアが開く。

「めぐ! どうかしたの? ⋯⋯亨、めぐになにかしたのか!?」

「ちょっと3人とも落ち着いて!」

「遼、離れたくない。一緒にいたいよ――」

 遼はわたしを後ろに庇った。亨くんは早坂さんに宥められ息を切らしたまま、理性的にこう言った。


「大切な人に一瞬でも長く生きてほしいと思うのは、自然なことでしょう?」


 その場にいたみんなが口を閉じた。まるで時間が止まったようだった。

 亨くんは「帰ります」と踵を返して、ジャケットをかけたままのわたしの部屋に向かって歩いていった⋯⋯。

「めぐちゃん、遼くん、とにかく落ち着いて」

「俺は落ち着いてるけど」

「そうかな? まだ顔が怖いよ。また発作が起きてめぐちゃんに会えなくなったら嫌でしょう?」

「⋯⋯」

 わたしはしゃっくりのように嗚咽を漏らして泣いていた。あんなに怖い亨くんは初めてだった。

「めぐちゃんも。さぁ、とりあえず部屋に戻ろう? 忍野くんはもう帰ったと思うから。ね?」

「ちょっと待ってよ! ⋯⋯めぐ、なにもされなかったのか? 大丈夫なのか?」

 縦に首を振る。

「ほら、めぐちゃんもこう言ってるわけだし」

「少ししたらめぐに会える?」

「ふたりとも落ち着いたらね」

 わかった、と遼は言った。


「恵夢ちゃん、怖かったね」

「うん」

「⋯⋯困るわね。忍野くんは恵夢ちゃんの保護者代わりの大切な人だから、出入り禁止になられちゃったら」

「そういうケースもあります?」

出入り禁止出禁? たまにあるわね。センターの中であんなに大きな声で緩和ケアを否定されちゃうとねぇ。気持ちはわかるけど」

「わかるんですか?」

「⋯⋯大変なのは恵夢ちゃんだもんね。選ぶ権利は恵夢ちゃんにあるのよ」

 口を閉じて考える。

 まだ涙は止まらなかったけど、亨くんの言葉に心が揺れる。

 もっと前向きな治療を受けたら、少しでも長生きできたら――といういつか手放してしまった欲望がむくむくと頭をもたげる。

 その一方で、1秒でも長く、ここでふたりの時間を過ごしたいと思う。

 揺れる、揺れる。





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