第29話 理不尽な別れ

 いよいよ本格的な散歩だ!

 わたしと遼だけでは不安なので、有馬さんが介助に付いてくれることになった。有馬さんは最初、若くて勢いがあるだけの人に見えたが、今はしっかり仕事のできる頼りあるお姉さんになった。

「桜の蕾はまだ開こうか迷ってる感じで、外は寒い日が多いですよ。三寒四温てヤツなのかな? ――ここに来るようになってから、天気予報がすごく気になるようになっちゃって」

 有馬さんは恥ずかしそうに笑った。亨くんの紹介した大学生の年下の彼氏とも上手く行っているようでなによりだ。

「えー? 上手く行ってるかなんて微妙だと思うけど。誰だって不意になんてことない理由で別れちゃうことがあるでしょう? 喧嘩する度にビクビクしちゃう」

「有馬さんは別れたくないんだ?」

「その時々かなぁ。すっごく頭に来る時もあるしね」

 それ以上は長くなりそうなので聞かないことにした。


『なんてことはない理由で別れる』というのは、わたしたちにも当てはまる気がした。理不尽な死がある日突然わたしたちに訪れて、わたしたちを引き離す。どんなに強い絆があっても、だ。

 死ぬことが、どんどん怖くなる。

 遼をすきになって、わたしの荷物はどんどん増える一方だ。その分、天国へ飛び立つ時の足枷が重くなるのはわかってることなのに⋯⋯。


 ◇


 有馬さんの言った通り、まるで意地悪をしているかのごとく桜は固く蕾を閉じていた。わたしたちに晴れ姿を見せないつもりだ。

「あー、今年も桜、見られるんだなぁ」

「そうだね」

 遼の手をギュッと握る。

「俺さ、小さい頃から心臓弱かったからさ、何時からかこの後、何回桜を見られるかなぁって気になるようになってさ。今年も見られそうで良かったよ」

「最近、調子良さそうだもんね」

「まったくめぐの心配ばかりでさ、自分の身体まで悪くなってる暇はないよ」

 陽光が雲間を割って差し込む。ぱぁっと暖かくなる気がする。

 桜はまだ開いてなくても、足元の野の花たちはしっかり花を咲かせていて、わたしの心を和ませる。

「お花がいっぱい」

 わたしも春をあと何回迎えられるかわからない。それを考えて、まだ冷たい風を肺いっぱいに吸い込む。

 春は命の季節だ。その生命力の強さを分けてほしい、そう願う。


「ふぅ」

 庭の薔薇はまだ咲いていない。ベンチがお尻に冷んやりする。

「疲れた?」

「ちょっとだけ。週に一度は亨くんと歩いてて、本当によかった」

「亨とだからだろう?」

「誰かさんは冬の吹きすさぶ寒風に耐えられないじゃない」

「そんな言い方ないだろう?」

「うわぁ、痴話喧嘩は中でやってください! これでふたりが風邪ひいたら、わたし、立場ないです」

 なるほどこれが『たわいもないことから』の喧嘩かぁと思う。隣に座った遼が肩を抱いて「寒くないか?」と尋ねる。「大丈夫だよ」と答える。

 そういうことがわたしの小さなしあわせだ。

 つまり、天国への荷物が今日も増えてしまった。どこまでも増え続けたら、カバンがパンクして、大変なことになるかもしれない。


「どうしたの?」

「なんでもない。しあわせなだけ」

 遼はとびきりやさしい瞳を見せた。キュンとなる。甘い時間はチョコレートのように溶けていく。

 わたしの心もとろとろに溶けだして、遼のことでいっぱいになって溺れそうになる。

「⋯⋯俺、長生きするよ。今までそんなこと思ったことなかったけど、めぐの喜ぶ顔が見られるなら余命なんて吹き飛ばして長生きしてみせるよ。めぐの悲しむ顔は見たくないしね」

「当たり前じゃない! 縁起でもない」

「めぐが辛そうにしてる時、なにもしてやれなくて本当に辛かった。だから⋯⋯俺が辛くなったらダメなんだ。めぐも辛くなる」

「そうだよ。遼が辛い時はわたしも辛い。忘れないで」


 ふたりは繋がっている。


 ◇


 清香さんが亡くなった。

 それは突然のことだった。

 昨晩、発作を起こして医療スタッフたちが手を尽くしても、清香さんの心臓は止まってしまった。

 清香さんは最期まで延命措置を拒んだそうだ。


 ◇


 その日、わたしたちは池の前のベンチに座っていた。まだ風の冷たい日だった。

 池の水面に張り出すように桜の枝が腕を伸ばしている。その枝に付く蕾は少し綻んで見えた。

 どっちもなにも言わなかった。

 有馬さんまでなにも言わなかった。

 病院にいる時、同室の子が亡くなったこともあったけど、それ程悲しくならなかった。いつか自分もそうなるんだなって、モデルケースを遠くから見ているようだった。

 でも――。

 清香さんの笑顔を思い出す。長い髪を思い出す。

 髪を揺らしてわたしを励ます彼女を思い出す。


「成人式、着物似合ってたよな」

「わたしも憧れちゃった」


 わたしたちが彼女についてその日話したのはそれだけだった。それだけ。

 彼女について多くを語るほど、知っていることは少なかった。それでも心の中にはたくさんの想いがあって、わたしの中で消化するには重すぎた。

 ――清香さん、荷物が重かったよ。

 わたしは彼女にそう言いたかった。彼女のもたらしたものは、わたしにとって大きなものだったから。


 ◇


『めぐ、メッセージ読んだよ。今日は辛い一日だったんだね。すぐに駆け付けたいけど、それは遼の役目なんだろうから僕は遠慮しておくよ。また怒らせると大変だろう?

 土曜日になったら今週も行くから、それまで毎日でもメッセージを送っておいで』


 亨くんからのメッセージはわたしを少し笑わせた。いつか亨くんが遼を殴った時のように、わたしが困っている時に亨くんをいちばんに呼んだら遼は彼を確かに殴るかもしれない。

 そんなこともあったなぁと、思い出す。


 もしも死んでしまったら、こういう思い出はどこへ行ってしまうんだろう? 火葬場の煙とともに空気中に霧散してしまうのだろうか? 思い出なのに?

 人ひとりの命の重さなんてそんなものなんだろうか? 人間は思い出の容物いれものなんだろう。壊れてしまったら、中身は飛び出して『覆水盆に返らず』だ。

 清香さんの思い出は今頃どこを漂っているんだろう? その中にわたしも含まれると思うと堪らなかった。

 わたしたちは喪に服するように、今日は自分たちの部屋にそれぞれ帰っていた。

 わたしは泣いた。大きな声で――。

 だって酷い! 早過ぎる! わたしたちから死は理不尽に彼女を攫っていってしまった⋯⋯。


 トントントン、正しいリズム。「入るよ」と遼は部屋に入ってきた。

 わたしのチェストからタオルを1枚出すと、わたしの元に近づいてきた。そして涙をすっかり拭いてしまうと、わたしを抱きしめた。

「俺をタオルにすればいい」

 ギュッと抱きしめ返す。嗚咽が止まらない。

「神様は酷い! あんなに素敵な人をわたしより先に⋯⋯」

 遼がわたしの耳元で囁く。

「それは言わない約束だろう? 洒落にならない」

「そうなんだけど⋯⋯そうだけど」

「言いたいことは伝わってるよ。泣きたいだけ泣くといい」

 とんとん、と彼はわたしの背中をやさしく叩く。嗚咽が喉の奥からどんどん飛び出してくる。泣いたからと言って、清香さんが戻ってくるわけじゃないのに――。

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