第25話 最期まで

 ビートルズを聴いている。

 ひとり、部屋で。

 あの後、遼と亨くんはとりあえず面会禁止になった。当然の措置だ。

 わたしはどちらにも会えるけど、どちらにも会わなかった。そのまま数日が過ぎてとうとう遼がわたしのところに来た。

「めぐ、なにが起こってる?」

 訊かれたら答えなくちゃいけないな、と思っていた。答えたくなかったその問いを、彼は持ってきてしまった。

「誰も遼になにか言わなかったの?」

「誰も」

「そっかぁ」

 わたしはベッドに座り、隣をポンポンと叩いて遼に座るように促す。遼はよくわからない、と戸惑った顔をしながらも、大人しく腰を下ろした。


「久しぶり」

 わたしは遼の頬に軽く口付けした。遼はこちらを覗き込むようにして、わたしの唇に唇を触れた。

「亨に戻りたいってこと? 俺、いっぱい考えたけどそれしか思い付かない」

「違うよ。もしそうならキスしたりしないでしょう? 遼に⋯⋯言ってなかったことがあって」

「秘密があるってこと?」

「どんなことでも聞いてくれる?」

 わたしはベッドを降りると座ったままの遼の首に腕を回した。遼は戸惑いがちで、わたしに腕を回していいのか迷ってるようだった。

 わたしはそのままゆっくり、耳を遼の心臓のところに持っていった。

「落ち着いて最後まで聞いてほしいの」

「うん」

「興奮しないでね」


 窓の外に葉を殆ど散らしたけやきの木が立っていた。ひとり、寒さに凍えるように。


「わたし、実は数値がどんどん右肩下がりなの。どんどんって言っても、先生はまだ大丈夫だって言ってくれてるけど」

「どうしてそんなに大切なこと、隠してたんだよ! ずっと具合が悪かったのはそのせいなのか?」

「半分本当。薬が一段階、強くなったからね」

「⋯⋯俺だけが知らなかった?」

「ううん、誰にも言わなかった。怖くて言えなかった。本当になっちゃいそうで」

 馬鹿だな、と言って彼はわたしの頭を抱えた。

 静かな時間が過ぎる。

 わたしと彼だけの、邪魔の入らない時間。

 こういう時間が欲しかった。


「治療法はないの?」

「いろいろやったけどあんまり効果がないの。じゃなきゃここにいないじゃない?」

「そんな訳ないだろう? なにかしら⋯⋯」

「今は薬物療法だけ。パパとママもそれに同意してきたって」

「おいおい、最先端技術はどこに行っちゃったんだよ? めぐだけ治せないなんてそんなこと!」

「興奮しないで、もっと理性的になって。ここがどこだか思い出してみて?」

 遼はわたしの顔を持ち上げて、じっとわたしの目の奥を見つめた。そこになにかを見つけることができたのか、わたしは知らない。

 彼はわたしを強く抱きしめた。

「めぐ、やっと捕まえたのに」

「そんなに深刻にならないで。まだすぐに死んだりしないから」

「そうだね⋯⋯そうだ」


 彼は少し落ち着いたようだった。

 手慣れた様子でカップに紅茶を注ぎ、わたしの分も持ってきてくれる。

「忘れるところだった、約束。まず、置いていかないこと」

「うん」

「つまり、一緒にいること。一緒にいる時間を大切にすること」

「うん⋯⋯置いていくのがどっちなのかはわからないけど、努力はする。無理はしない」

「そうだ、無理は良くない。隠し事も良くない」

「ごめん。言えなかった」

「これからは小さいことでも言って? 約束して?」

「うん、ちゃんと言うよ」


 それからわたしたちはいつものようにベッドに転がってこれから先の約束事を決めた。そしてわたしの体調についてと注意することを話し合った。

 その後、窓からの冬の日差しを浴びてふたりで丸まって昼寝をした。それがいちばんな気がしたからだ。寝ているのがいちばん健康にいい――。


 それから有馬さんが食事を持ってくるまでわたしたちはこんこんと眠り続けていたので、彼女はとても仰天したそうだ。わたしたちになにがあったのか、興味津々だったところ、わたしは目を覚ました。

「有馬さん、おはよう」

「恵夢ちゃん、もう夜だよ」

 気が付くと隣で遼も寝ぼけていて、わたしたちはセンター中にいい噂話を提供することになるところだった。

「お昼寝したくなりますよね、暖房いい感じだし」

「なんかいろいろあって疲れちゃって」

「ああ、忍野さんの! 武中くん、もう殴られたところは大丈夫?」

「もう解決したの、その件は」

 相変わらず彼女は空気読みが下手で、その後も亨くんのことを悪く言った。

 すると黙って話を聞いていた遼が「亨は俺たちのいちばんの理解者だよ」と言った。何故だかわたしはひどく悲しくなった。


 ◇


「少しだけ歩こうか」と久々に現れた亨くんがわたしにそう言った。拒む理由もなかったのでついていく。

 センターに入る道沿いの楓の木の落ち葉が茶色く変色していて物悲しい。少しの風でも落ち葉は飛ばされていった。

「遼には話した?」

「うん。すっきりしたよ」

「そっか。遼に『悪かった』って伝えてくれる?」

「それだけでいいの?」

「いいよ」

 久々の散歩は外の空気に洗われるようで、自分が清浄になっていくような錯覚に陥る。

 夏にここに来て、今はもう冬。

 余命3年が2年半になるのも不思議ではない。そう、不思議なことじゃないんだ。

「考えたことだから笑わないで真面目に聞いてほしい。――めぐ、やっぱり僕のところに来ない? 馬鹿なことを言ってるのは重々承知してる。だけどめぐの近くにいるのは、やっぱりずっと僕の方がいいと思うんだ」

 ドキッとした。

 そんなことを言われるとは思ってもみなかったから。

 亨くんの周りにはかわいい女の子がたくさんいて、もう彼女がいたっておかしくないくらいだと思っていた。


「お願いだよ。心配でなにも手につかない。そばにいさせてほしいんだ」

「でもわたし、なにも返せないし」

「見返りなんかいらない。めぐのを隣で見ていたいんだ」

 残りの人生、という言葉が妙に生々しい。この人は本当にそばにいてくれるつもりなんだろうか? わたしは死んでいくというのに。

「でもわたし、終盤はきっとずっとベッドだよ。外出も難しくなってきたし、なにも楽しいことを共有できないよ」

「そんなこと求めてないよ。めぐが目の届くところにいてくれたら、僕にその権利をくれたら、それだけでいいんだよ」

 彼はそう言うと、わたしの手をいつかのように繋いだ。いつも完璧な彼が手袋を忘れてきたらしく、その手は冷たかった。

「答えはゆっくりでいいから。とにかく、毎日が苦しい⋯⋯」


 風が吹いて、鳩がパタパタと数羽飛び立った。

 足元の落ち葉はカサカサと音を立てて転がるように飛ばされる。

「遼がいるから」

「それが答え? ならふたりを無理やり引き離そうか?」

「わたしたち、周りの助けが必要なくらい不器用だけど、同じ運命を背負って、同じ道を歩いてる。時には一緒に躓くけど。――そんな考え方はおかしいかな?」

「めぐの隣には遼みたいに同じ境遇の人じゃなくて、めぐを助けられる人がいた方がいいと思うんだ。例え僕じゃなくても」

「遼は失格ってこと?」

「残念ながら。アイツ、自分の健康管理も満足にできないじゃないか」

 それにはわたしも苦笑せずにいられなかった。


「残酷なことを言うようだけど⋯⋯僕は君の死を必ずそばで看取るって約束するよ」

「⋯⋯」

 心が一瞬にして凍った。そして、その氷は弾かれるように粉々に割れた。

「死んじゃったら終わりなのに! なにもかも終わりなのに! なんで死ななきゃならないの?」

 その後は言葉にならなかった。

 背の高い彼はわたしを抱きしめる。

「めぐ⋯⋯最期まで君を見ていたい。たったひとつの僕の願いだ」


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