第21話 その時が来たら

 また散歩の日々が始まった。

 真冬の風は容赦なくわたしたちを吹き飛ばそうとした。わたしはうんと足を踏ん張らなくてはいけなくなった。

 始めはうるさかった有馬さんも落ち着いてわたしたちに付き添ってくれるようになった。時々、わたしが具合を悪くしているのを知っているのは彼女だけだった。食後に嘔吐しているのを見られてしまったからだ。

「静かなところですね」

 初めて散歩で遼くんを見た池だった。わたしたちは手を繋いで滑らないように、注意深く進んだ。わたしには前科があったからだ。

「大丈夫よ」と言っても「亨はあの時の話を何度もするよ」と言われると、なにも言い返せなかった。

 あの日にわたしは亨くんに多大な迷惑をかけてしまったから。


「忍野さんは武中くんに比べると大人ですよねぇ」

「そう思う?」

「わたしたち3人が同じ歳だなんて思えない」

 確かに個性がバラバラな3人だった。わたしは普段、人の年齢をあまり気にしてないからわからないけど、並べてみると本当にバラバラだったので笑ってしまった。

 有馬さんは「歳上の人に失礼です!」と笑いながら言った。

 亨くんは有馬さんのことを『底抜けに明るくてちょっと失礼な子』と称した。ちょっと失礼、というのは有馬さんの欠点、知りたいことを根掘り葉掘り聞くところだろう。

 わたしたち3人の関係は有馬さんには理解し難いようだったけど「わからないからこそ、美しく見えるんです」とある日言った。


「美しい仲かな?」と亨くんに問うと、「僕は早くめぐを独り占めしたいけどね」と答えた。

 板ガラスのような真っ青な空だった。吹き流したような細い雲が動く。

 高台のベンチに並んで座っていると、亨くんがわたしの両手をぐっと掴んで逃げられないようにして、わたしにキスをした。

 こんなことに上手・下手があると思わなかったけど、亨くんのキスは上手だった。初めてじゃないな、とすぐにわかった。

「キス、上手なんだね」

「比べられるんだね?」

 沈黙する。なにも言えない。

「僕も待てなかった頃があったんだ。初めてじゃないことに失望した?」

 腕を強く握られたまま、首を横に振る。

「わたしこそ」

「⋯⋯わかってたさ」

 木枯らしがすべてを吹き去っていく。わだかまりも。わたしたちには時間がなかったから。それを3人ともなんとなく感じ取っていた。

「もう一度⋯⋯」

 そう言ったのがどちらからだったのか、そんなことはどうでも良かった。


 ◇


「恵夢ちゃん、最近無理をしすぎてるんじゃないかな?」

「散歩はがんばりすぎかも」

 先生は苦笑した。

「数値が少し下がってる。念の為にエコー撮ろう」

 ジェルを塗られてエコーを撮る。画面にお腹の中が映る。

「うん、少し休んだ方がいいね。自分のためだよ」とやさしく先生にさとされる。あの、体調の良かった時はどこへ行っちゃったんだろう? 自分の身体のことを疎かにして、労らなかったからだろうか?

「⋯⋯先生、わたし、まだ大丈夫でしょうか?」

「ビックリしちゃった?」

 先生はくるっとイスを回してわたしの方を向く。

「まだこれくらいなら大丈夫だよ。少し安静にすればまたすきな散歩もできるよ。少しの我慢だ」

「⋯⋯はい」


 緩和ケアは根本的治療より、人間としての自然な死を迎えられるように治療をしていく。無理な治療はしない。生存率は下がる。

 わたしは希望してここにいる。

 自分で希望してここに来たんだ。


 ◇


「診察どうだった?」

「うん、いつも通りだよ。ただちょっと薬の副作用が酷いから変えようかって」

「そんなに酷いの?」

 彼はわたしの方にベッドの上を転がって、顔を上げるとそう訊いてきた。

「そうだね。気持ち悪くなっちゃうの。薬が強いんだって」

「薬が強いってことは具合が悪くなってきたってことじゃないの? なぁ、ちゃんと答えなよ」

「答えてるって。先生だってたまには薬の加減を間違えることもあるでしょう?」

 そりゃそうだけど、と彼は釈然としない顔をした。


 本当のことを言ったら、彼は、亨くんはどんな顔をするんだろう?


「めぐ、最近、散歩休んでるんだって?」

「寒いんだもん」

「確かにね。あのさ、よかったらクリスマスディナーに行かない?」

 あー、と思う。

 これはいいレストランの予約をもう取ってあるってヤツだ。断れないヤツ。

「着ていく服がないな。どうせ素敵なお店を選んだんでしょう?」

「服、買いに行く?」

「どうかな? そんなに何度も外出許可出るかな?」

「⋯⋯めぐ、本当のことを教えて。ちゃんと聞くから」

 ぐっと言葉が喉の奥に引っかかる。本当のことは決していいニュースじゃない。

 躊躇う。


「絶対、遼くんに言わないって約束してくれる?」

「そうしてほしいなら」

 わたしは言葉を選ぼうと考えた。少し長い時間がかかる。その間、亨くんはわたしの言葉をじっと待っててくれる。息を吸う。


 ◇


「最近、亨、よく来るね」

「うん、内々定出たみたい。よくわかんないけど」

「そりゃそーだ。社会に出るチャンスなんてこの先ないしなぁ」

 ふたり、川の字になって狭い布団に転がっていた。横になっている方がありがたかった。

「あのね、話したいことがあるんだけど」

「ん?」

 あのね⋯⋯の先が出てこない。自然に話すことが難しい。

「前に話したけど、副作用あるけどその薬が効いてるんだって。副作用が出るってことは、それだけ薬の効果も出てる証拠なんだって。だからしばらく⋯⋯」

「会えない?」

「会いに来てくれない?」

「良かったぁ」と遼くんは脱力した。「会えないのはキツい」

「少し散歩は禁止なんだけど、部屋では自由にしてていいから」

「遊びに行くよ」

 うん、と返事をした。


 ◇


 冬の夜空の星は震えているように小さく瞬いて、わたしの目を奪う。

 オリオン座のひとつの星はもう何万光年も前に死んでいるかもしれないと聞いた。それでも星には超新星爆発というのがあって、また小さな星からやり直せるのだと。

 わたしという命はひとつしかない。

 やり直しはきかない。

 怖い、というのとはちょっと違う感情が心に浮かぶ。

 ――ああ、これが天国への荷物だ。

 増えすぎたことに後悔する。荷物は持たないはずだったのに。

 たくさんの荷物は両手でも持ちきれない。一緒に来て手伝ってくれる人もいない。

 そう、いないんだ。

 人は生まれてきてからひとり、という意味を知る。

 その時が来たら。

 一瞬でも長く、一緒にいてほしい。さみしくないように⋯⋯。

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