第20話 予兆

「この1週間、なにしてた?」

「全部話したじゃない」

 ふたりしてベッドに腰掛けて、お互いにもたれかかっていた。遼くんの温もりが懐かしい。その匂いも、シャツ越しの腕も、すべてが懐かしくて愛おしく思える。

 もう一度会えることの奇跡を、噛み締める。

「亨のヤツはまだしつこいの?」

「そういう言い方やめてくれる?」

「だってライバルだし」

「⋯⋯ノーコメント」

 会話が途切れる。そんなつもりで来たんじゃないのに。今日の面会は1時間。すぐに経ってしまう。

 トマトとパプリカはテーブルの上に放置だ。

「つまらないことで黙るのやめようよ」

「同じこと、言おうと思ってた」

 遼くんはわたしの手を握った。

 その指の1本1本を、どれも欠けていないか確かめているようにも見えた。


「俺⋯⋯まだめぐとキスしたいって思うよ。夢にも見た」

 そこで彼は照れくさそうに笑った。

「でも。めぐはどう思う? どうしようもないことってあるかな?」

「あると思うよ」

「即答だな」

「だって何度も考えたもの。あの時、どうしてあんなことしちゃったんだろうって⋯⋯」

「後悔してるの?」

「当たり前でしょう? あなたの命に関わるの。もうあんなことしない、絶対。決めたの」

 空気がふたりの間を通る。

 木枯らしのように冷たい空気だ。

「喧嘩はやめよう。不毛だよ」

「だな」


 彼は彼らしくスマホを弄ると、ビートルズが部屋を満たしていった。いつか聴いた『Let it be』からプレイリストは始まった。

「困難な時にマリア様が言うんだ。『Let it be』って。つまりそのままにしておけってこと」

「そのまま待ってれば運命は動くのかなぁ?」

「何教徒?」

「仏教徒。でもマリア様の知恵に富んだ言葉も聞かないと」

「かもな」

 わたしたちはどちらからともなく、ベッドの上に倒れた。さっきまでの姿勢が辛かったのかもしれない。

 手を繋ぐ。それしかできない。


「もしも、もしも俺が先に死んだら、亨としあわせになってよ」

「なんでそんなこと言うの? 寝てる間に悲観主義者ペシミストになっちゃったの?」

「俺たちってさ、行き詰まってない?」

「⋯⋯馬鹿じゃないの? キスできなかったらもうそこでサヨナラなの? わたしはその分、亨くんにキスしてもらえば満足だってこと? ダメ、やめてよ!」

 彼はわたしの耳を塞ぐように両手で頭を固定すると、深呼吸をひとつした。わたしには怖いことしか考えられなかった。

 そうして。

 心の底では待ち望んでいた感触が、やわらかく訪れた。

 ぐいと頭を胸に押し付けられる。

「心臓、大丈夫そう?」

「強く脈打ってるけど、苦しくない?」

「ごめんな、これ以上してあげられなくて――。でももしめぐが『遼くんの方がすき』って言ったら、死んでもいいからまた思いっきりキスをする」

「じゃあ言わない」

「どうしてだよ?」

「生きて、隣にいてくれた方がうれしいもん」


 Let it be⋯⋯このままで、今のままでいいんです。神様、まだ遼くんのカバンはパンパンになってないから。

「馬鹿だな。俺なんかに惚れるからだよ」

自惚うぬぼれ。まだ誰がすきかなんて言ってないもん。それに⋯⋯言ったらいなくなっちゃうんでしょう? わたしたち、永遠に友達決定じゃない」

「⋯⋯約束をしたらダメかな?」

「どんな?」

「お互い死ぬまで相手しか見ないって」

 わたしは泣いてしまった。

 わたしたちはどちらも短命だ。

 その残り短い期間の中で、強くて太い絆を結ぶ、そういう約束。

 いずれはどちらも消えてしまうのに――。

「そんな約束したくないよ。『64歳になっても』って曲、知らないわけじゃないでしょう?」

「めぐ、勉強したんだ?」

「ビートルズばっかりずっと聴いてたから」

「64歳まで生きる決意ができたら、改めて申し出てください」


 その時、丁度またドアチャイムが鳴って、わたしは焦って髪を直した。

 遼くんはドアを開けに行き、わたしを送り出した。

「俺の方がヘタレだったね」と言ったので、「そうよ」と肘で突いた。また明日、と言い合って別れた。


 ◇


「なんかすごい」

「なにがですか?」

 有馬さんは頬を紅潮させて話を続けた。

「ふたりの雰囲気が! ふたりだけの世界ってすごーく憧れる」

「⋯⋯そんなんじゃないです」

 誰かに憧れられるような関係じゃないことは、わたしたち自身がいちばんよくわかっていた。

 どん詰まりにいることだって、本当はわかっていた。

 ただ、言葉にしたら本当になってしまいそうで。

「恵夢ちゃん、具合悪い? 顔色悪いよ」

「大丈夫」

 ――その晩、わたしは嘔吐した。


 ◇


 翌日も朝から遼くんのところで過ごす。ふたりきりでいることにすっかり慣れてしまって、馬鹿な話ばかりしている。

 その度にわたしは笑って、彼は更にわたしを笑わせた。

 昼食を取ってから一旦、部屋に戻ると倦怠感がわたしを襲う。目眩がして、ベッドに倒れ込む。

 ああ、そう言えば最近、いい気になって自分の身体の心配を忘れてたなぁと思う。これじゃあ遼くんになにも言えない。

 少し気を付けようと決める。


 週末になると亨くんも加わって、遼くんの快復パーティーを開いた。

 真っ赤なイチゴタルトが眩しいくらい美味しそうで、遼くんが盗み食いしようとする。それを亨くんが持っていって素早くナイフで4等分した。残りのひとつは清香さんにお裾分けだ。

「なんで俺のパーティーなのに、俺が多く食べられないの?」

「パーティーっていうのはそういうものだよ」と亨くんが言って、わたしはくすくす笑った。

「大体さ、おかしいだろう? どうして恋敵の俺がお前の誕生日を祝うんだよ」

「え? 俺たち友達じゃん。友情だろう?」

 ふたりのやり取りは延々続いて、本当におかしなパーティーだった。


 帰りに亨くんはわたしを遼くんの部屋に残して「バースデープレゼントじゃないからな」と言った。「粋な計らいだな」と遼くんは言った。


 引き潮のようにわたしたちの馬鹿騒ぎは終わって、気が付くとふたりきり、わたしは片付けものを始める。そのわたしを後ろから抱きしめる人がいる。

 亨くんのお祝いが仇となる。

「ダメだよ、それ以上は」

「なにもしない。髪の匂いを嗅ぎたかっただけ」

 彼は本当にわたしの耳裏に鼻をつけて、髪の匂いを嗅いだ。吐息がくすぐったい。

「ねぇ、もうダメ。くすぐったいってば」

「もう少し」

 もう、とわたしはくすくす笑って身体を折った。彼はわたしの腰に手を回した――。

「最近、痩せた?」

「ほんと? 散歩の成果が出たかな?」

「そういうんじゃないよ」

 ぐいっと姿見の前に立たされる。そこにはいつも通り、青白い髪の短い小さな女の子がいた。


「気付かないと思ってたの?」

「なんのこと?」

「亨も気付いてる」

 ドキッとする。基本的に週末にしか来ない亨くんの目には、1週間ごとに変わっていくわたしがわかりやすく映ってることだろう。

「でも先生は大丈夫だって言ってるし。薬変えたから副作用かもって」

「ならいいけど、心配させないで。心臓止まる」

 わたしのことなんてどうでもよかった。振り向いて彼の心臓の辺りに手をやる。

 そっと、耳を寄せる。

「すきだなんて言わないから、止まらないでね」

「馬鹿だな。めぐに殺されるなら本望だ」

「そんなこと言わないで。わたしをひとりにしないで」

 わたしをひとりにしないで――。

 死ぬなら見送られる方がいい。






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