第18話 熱帯魚

『遼が倒れたってどういうこと?』

 朝イチの清香さんからのメッセージだった。

 わたしはいっそ無視してしまおうかと思ったけど、既読が付いてしまった以上、そういうわけにもいかない。

 身体中が怠い。

 重い腕でスマホを手に持った。


 ◇


 キスのところは省いた。他人に言うことではないと思ったから。それに聞いたら清香さんはまだショックを受けるだろう。

「ねぇ、軽い発作だって言われたんでしょう? きっと大丈夫だよ。ここの先生は腕のいい人たちが揃ってるんだし」

「でも」

「ねぇ、酷な事を言うようだけど。ここにいるってそういうことだよ。熱帯魚、飼ったことある?」

「ない」

「熱帯魚ってすぐに死んじゃうの。そうするとね、新しいのを買ってきてまた水槽に入れるんだ。ここと同じ。出ていく人がいて、入ってくる人がいる。⋯⋯わたしの友達も亡くなったよ」

『亡くなった』のところでズキンと来る。清香さんの言うことは確かだ。みんな、最後の死に場所としてここに来る。その人が死ねば新しい人が来る。

 わたしたちも死ねば⋯⋯死ぬんだ。


「ううっ」

 嗚咽が漏れる。清香さんが慌てて背中をさすってくれる。

「ここに来てまだ半年のアンタには刺激が強かったよね、ごめん!」

「いいの、わたしが馬鹿だったの」

 死ぬことなんて、なにも怖くないといつからか思っていた。死はいつからか手を繋いだお友達だったから。影法師のようにわたしについてきてたから。

 だけど彼が死んだら?

 わたしが死んだら?

 わたしたち、会えなくなる。

 散歩も、雨の中の読書会もなくなって、いつしかそれぞれの存在を忘れてしまうの?

「なに考えてるのかわかんないけど、いい機会かもしれない。ここにいることの意味、よく考えてみな。遼のことは大丈夫。放っておきなよ」

 清香さんは部屋に帰っていった。


「恵夢ちゃん!」

「佐藤さん! 佐藤さん! ⋯⋯佐藤さん」

「大変な目に遭ったって聞いて、居ても立ってもいられなくて外来患者の見舞いって言って来ちゃったわ」

「佐藤さん⋯⋯わたし、どうしよう?」

 佐藤さんには一部始終、すべてを話した。そして「死ぬのが怖くなったの」と本当のことを言った。

「まぁまぁ王子はたまたま落ちてきたラプンツェルの髪の毛をよじ登ったのね。行儀の悪い子だわ」

 わたしは佐藤さんの膝の上に頭を乗せて横になっていた。佐藤さんがそうしたらいいと言った。

「それで落ちなかったんだから大したものね。でもケガはしたし、ラプンツェルを驚かせちゃったのね」

「すごく驚いたの⋯⋯」

「それはそうよ」


「前にも話したけど遼くんの発作はほかの同じような患者さんより多いのね。ここのところをよく理解してあげないとダメよ。⋯⋯でも、キスひとつで倒れるなんて遼くんもまだまだ子供だったわけだ」

「茶化さないでよ」

「きっと、恵夢ちゃんがファーストキスの相手だったのね」

 微笑ましい、という顔をされて恥ずかしくなる。わたしは手近なクッションを抱きしめた。

「遼くんはきっと大丈夫だと思うけど、これからはもっと慎重にならないと。もっとも彼がそうできるかはわからないけど。恵夢ちゃんと少しでも一緒にいたいなら、我慢を覚えないといけないわ」

「もうキスなんてしない。⋯⋯だってそれが彼と一緒にいるための近道だもの」

「悲しいけど、きっとそうね」

 あの日のように、佐藤さんはわたしの頭をゆっくり撫でた。ただそこに遼くんはいなかった。


 ◇


「めぐ!」

「亨くん!」

 亨くんは息を切らして走ってくると、わたしを抱きしめた。

「遼が発作起こしたって?」

「そうなの。一緒にいる時に⋯⋯」

「ビックリしたでしょう?」

「⋯⋯怖かった」

 素直にそう言った。

 こんな時、亨くんを呼ぶのはどうかと思ったけど、連絡するべきだと思った。やっぱりふたりは友達に見えたから。

 でも亨くんは遼くんよりわたしを心配したようだった。

「今夜は面会時間終了までここにいるよ」

「忙しいんでしょう?」

「忙しくたってめぐちゃんが優先できなくちゃ僕のいる意味がないでしょう?」

「亨くん⋯⋯」


 気持ちはうれしかったけど、それでわたしがいなくなった後のことは責任が取れない。そこまでしてもらうわけにはいかない。

「わたしなら大丈夫。佐藤さんも来ててくれてるし。亨くん、大事な時期なんでしょう?」

「だけど」

「大丈夫だから。これから先、ちょっとしたことがある度に来るつもり? わたしになにか大きなことが起きたら、絶対誰かから亨くんのところにも連絡が行くでしょう? だから今日は安心して帰って。呼び付けてごめんなさい」

「いや、遼が心配だったんだ。良かった、軽い発作で。じゃあ帰らせてもらうよ」

「下まで送る」


 長いなだらかなエスカレーターを、わたしたちはなにも喋らずに降りた。気まずい。こんなことになるなら、いっそ連絡なんかしなければ良かった。

 亨くんの背中を見ていると、そう思えてきた。

 純粋に想われているという重みが感じられる。

「めぐちゃんさ」

「はい」

「もう遼に深入りしない方がいいよ。この先どうなるかわからないんだ」

 清香さんの言葉を思い出す。ここはなんだ。それは避けて通れない。

 遼くんが先か、わたしが先か、それだけの違いだ。

「わたしだってこの先、どうなるのかわかんないよ。亨くんはわたしを避ける?」

「避けたりしないよ、大事なんだ!」

 エスカレーターは丁度、階下に辿り着いた。亨くんは人気の少ないエスカレーターホールでわたしの手を引いた。前のめりになる。


「こんなに大事に想ってるのに、どうして伝わらない?」

 耳元で囁かれる。

 以前のわたしなら蕩けるくらいうれしい言葉だっただろう? でも今のわたしは――。

「大事にされてるの、痛いくらいよくわかってる。でも亨くんも自分を大事にしてよ。わたし、お荷物になりたくない!」

 ターンして2階に上がるエスカレーターに乗る。後ろから追いかけて昇ってくる音がする。

「お荷物なんかじゃない。どうか真剣に考えてほしい。僕なら絶対に君をひとりで向こうにやったりしない。ちゃんと最期まで付き合うから」

「⋯⋯ごめん、そんな先のこと考えてないの、まだ」

 自分が消える時、誰にそばにいてほしいのか。まだそこまで考えが回らない。パパとママ、それから⋯⋯。


「僕がいるよ。絶対さみしくしない。就活してる会社もこの近くなんだ」

「そんなに心配しないで大丈夫だよ。思い出は心のカバンに全部しまって持っていくから。――お願い、今日はもう帰って」

 ふぅ、と彼はため息をついた。想いが伝わらない苛立ちが伝わってくる。

 だけど今日は遼くんのことを思っていたい。

「わかったよ。めぐがこんなに頑なになるんだから、僕は従うしかないよ。でもなにか困った時はすぐに呼び付けて。また来るよ、お土産持って」

「楽しみにしてる」

「メッセージも送るよ」

「うん、待ってる」

「じゃあまた」

「うん、またね」

 彼はまたエスカレーターを降りていった。


 ◇


「忍野くんも熱心ねぇ。恵夢ちゃんはかわいいから」

「どの辺が?」

「ひたむきで頑ななところ。助けてあげたくなるでしょう?」

「そうかな?」

「実際みんな助けてくれてるじゃない」

「そうなんだけど⋯⋯時々わからないの」

 自分のことだけでずっと精一杯だった自分が、誰かに助けられることが正しいのかどうか。わたしはみんなに報いることができるのかどうか。

「恵夢ちゃんも寝支度始めないとね。なにかあったら起こしてもらえるように、ナースステーションでお願いしておいてあげる」

「ありがとう、佐藤さん」

「⋯⋯無茶しちゃダメよ。ふたりでベッドに入ってたら会えないわよ」

「うん⋯⋯」

 そうだ。とにかく自分の身体を大切にすることをいちばんに考えないと。でないと遼くんに会えなくなる――。

 まずは自分のことをちゃんとしようと決めて、佐藤さんを見送った。

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