第17話 キスの代償

『昨日は疲れちゃって具合が悪くならなかった? どこも変わりはない?』

 亨くんはいつもやさしい。1歩引いたところから、わたしを見守ってくれる。子供の頃とそこは変わらない。

 窓ガラスを打ち付ける雨の音が、まばらに強くなった。今夜は大荒れだ。風もごうごう吹いている。

『大丈夫だったよ。少し疲れちゃったけど、亨くんのお世話にならないで済んで良かった』

『それは折り込み済みだから、心配しなくていいんだよ。ただ、めぐちゃんが痛い思いをするのは嫌なだけだ』

『痛い思い、しなかったよ』

 このところ、そういう状況になることはなかった。先生は薬が効いているし、腫瘍も大きくなってないと言った。若い頃の癌は育ちやすいので運がいいと言った。

『今は体調がいいから』

『でもいつまでそれが続くかわからないんだから、気を付けないと。無理はしないこと。⋯⋯僕が言える立場じゃないけど。また電話する』

『忙しいんだから無理しないでね』と終話ボタンを押す。ノックが響く。相手はひとりだ。

 確かめる間もなくドアを開ける。

「読書会だ」


 ◇


 遼くんは読書してから一緒に夕食を食べようと言った。いつものことだから否定はしなかったけど、最近、食堂に行きたがらないのは具合が悪いせいじゃないかと心配になる。

「ねぇ、熱はない?」

「あるよ」

「え?」

「36.3℃。体温がなかったら死んでるよ」

 もう、と上げた手を掴まれて、久しぶりに親指を押さえつけられる。なんとかカウントが終わるまでに抜け出そうとするけど、指の長さがあまりに違って勝負にならない。

「狡いなぁ」

「悔しかったら毎晩、指を引っ張るんだな」

 遼くんは勝って満足そうだった。

 持ってきた遼くんの本の間には緑色の細いリボンが下がっていて、あの栞だとわかる。単純にうれしい。

 わたしはわざとそれを指摘しないで、自分だけの楽しみにすることに決めた。遼くんの自慢顔は見ない。


「なに? にまにまして」

「別に?」

「これのこと? ありがたく使わせてもらってるよ」

 なんですぐにバレてしまうのかわからない。ヤキモキすることばかりだ。遼くんは先回りが得意だ。

「どうしてわかっちゃったの?」

 トマトとパプリカのカップにお湯を注ぐ。こぽこぽとやさしい音がして、ティーパックから茶色い液体が染み出してくる。と、同時に香りが広がる。

「いつも思ってたんだけど、普通の紅茶と違うよね?」

「ごめんね! これ、苦手な人もいるよね? 亨くんは大丈夫だからつい」

「――亨とは違うんだよ。でもこのお茶の香りはオリエンタルですきだ。なんて名前?」

「アールグレイ」

「よし、今度外に行ったら一緒に飲もう」

 一緒に外に行くのは難しいだろうな、と思う。少なくともこの間と違って介助人付きだろう。

 なにしろ問題の多いわたしたちだ。


「めぐ、こっちに来て」

 遼くんはソファに寝転がってわたしを呼んだ。

「その手には乗らないから」

 すると、体を丸めて「うっ」と彼は唸った。

「遼くん!?」

 わたしは飛んでいって彼の顔を確かめようとすると、彼はわたしを攫うように素早く口付けをした。柔らかな唇の感触が一瞬して、まるでなかったかのようにすぐに離れた⋯⋯。

「酷い! 騙し討ちだよ」

「だってずっと忘れられなかったんだ」

「わたしは遼くんになにかあったらと思って⋯⋯」

 遼くんの、ピアノを習ってたという細い綺麗な指が涙を拭う。そうして、わたしの頬を撫でる。やわらかく、やさしく。

「俺が死んだら困るの?」

「わたしも死にたくなる」

「ほら、俺って天才。もうめぐの心をここまで持ってきてるんだもん⋯⋯」

 2度目はやさしかった。まず頬に口付けて、唇に――。わたしは頭を動かさなかった。どうしてだろう? 逃げ出すこともできたのに。


 ゆっくり交わしたキスはわたしの中の何処かにある扉を開いて、心を解きほぐした。こんなの初めてだった。

「遼くん⋯⋯」

 彼の、わたしの頬に置かれた手が小刻みに震えていた。わたしはその手を握りしめた。

 雨は容赦なく窓を叩きつけ、わたしが彼を呼ぶ声をかき消そうとする。

「遼くん?」

「ごめん⋯⋯自分からしておいて情けない。ちょっと刺激的だった」

 わたしは早坂さんを呼ぼうとインターフォンに走ろうとした。強い力で腕を掴まれる。

「お願いだから誰も呼ばないで。まためぐに会えなくなる」

「ねぇ、最近、具合が悪いんじゃないの?」

「そんなことないさ。でも、天国への荷物を増やすためにもう1回して。それで死んでも本望だから」


 躊躇した。

 彼の発作を見たのは初めてだったから、どうしてあげたら楽になるのかわからなかった。してあげられることは――。

 ゆっくり、ふたりの唇が近づく。彼の息が荒い。手加減なしで唇が押し付けられる。唇が、割って舌が入ってくる。

 今の彼のどこにそんな力があるのか、頭を動かすことができない。仕方なく、流れに流される。

 わたしの内側から吐息が漏れて、自分にこんなところがあったんだな、と初めて知る。

 ああ、わたし、病人である前に女の子だったんだ⋯⋯。心の、体の力が抜けて、扉が開いていく。


 その時、彼の頭がわたしの肩に落ちてきて、大変なことになったと知る。とりあえずソファに横にならせて急いで早坂さんを呼ぶ。

「ああ、呼んじゃダメだって言ったのに⋯⋯」

 紅茶の香りは部屋中に香って、わたしたちの甘美な瞬間を引きずらせようとしていた。それでもわたしは彼の容態が気になって、彼のそばを離れずにいた。

「ねぇ、いなくなったら困るの。自分だけ天国への荷物をいっぱいにして逃げるの?」

「⋯⋯めぐ、これくらいはよくあることだから勘弁して。少し休めば良くなるから」

 力いっぱい彼の手を握りしめる。神様にお願いする。わたしの命が尽きてもいいから、彼を助けてと――。


「恵夢ちゃん! 遼くんは?」

「⋯⋯まだ生きてるんだな、これが」

「ストレッチャー、すぐ来るから!」

 ガラガラという音が近づいてきて、「1、2の3」という掛け声で彼はストレッチャーに乗せられた。

 さっきまで重なっていた唇は真っ青で、まるでわたしは自分が悪い魔女なんじゃないかと震える。

「今度会う時まで、亨によろしく」

「馬鹿! 意気地無し! 早く帰ってきてよ⋯⋯お願いだから⋯⋯」

 早坂さんは「恵夢ちゃん、離れて」とわたしをソファに座らせた。そしてわたしはそこに置き去りにされた。


 ◇


 どれくらい経っただろう?

 一時的なものだったのか、雨はすっかり上がっていた。早坂さんがノックして「入ってもいい?」と言った。わたしは返事をしなかった。

「開けなくてもいいよ。でも聞いて。遼くんの発作、それほど酷くないって。すぐに面会はできないけど、1週間くらいじゃないかって。

 ⋯⋯一緒の時だなんてビックリしたでしょう? 大丈夫、あれくらいの発作は何度も乗り越えてるから」

「何度も?」

「じゃないとわざわざかわいい息子をこんなところに入れないでしょう? 延命治療を行わないっていうのはまだまだ賛否両論あるからね」

「⋯⋯」

「恵夢ちゃんまで倒れたら、また遼くんが発作起こすわよ。早く寝なさい」

「はい」


 元気そうだったから油断してた。

 遼くんにすべて委ねていいと、あの時思わなければ⋯⋯。

 流されたといっても最初のキスだけなら⋯⋯。

 悔やんでも悔やみきれない。

 狡いよ、わたしの中に自分を刻み込んでおいて。わたしを置いていってしまうなんて。

 間違ったことをしたという思いがわたしの中をぐるぐる泳いで、後悔ばかりが底に沈んでいった。

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