第16話 女友達

「これ」

 わたしは例の包みを渡した。

「なにこれ? 開けていいの?」

「いいの。遼くんのために買ったんだよ」

 ガサガサとクラフト紙の薄い袋を開けると、そこからはあの栞が出てきた。

「ピカピカだな。あ、睡蓮の切り抜き」

「本を読む時の栞だよ」

「なんだよ、やっぱり読書会グッズかよ」と彼は大笑いして、わたしにデコピンした。

 わたしも肘で攻撃したけど避けられてしまった。

「もうしない? 読書会」

「雨の日とどっちかが寝込んでる時が基本かな」

「そうだね。散歩できない日が基本だね」


 散歩してた日々が懐かしかった。

 毎日がなにも変わらないようで、毎日に彩りを与えてくれるのが散歩だったから。

 わたしの入所は夏休みで、暑くて散歩どころではなかった。散歩ができるようになるまでにセンターでの暮らしにすっかり慣れたくらいだ。

 初めて散歩に出た時は、そのコースの多さに驚いたものだ。しかもそのどれもしっかり整備されている。ボランティアさんが介助してくれるので、安心して散歩を楽しめる。


 そんなボランティアの佐藤さんは先日の件でお休みを取らされていた。もう何日も会ってない。


「佐藤さんのこと考えてたでしょう?」

「どうしてわかるの?」

「ここに泣いてる子がいるから」と言うとわたしにティッシュペーパーの箱を投げてきた。

「涙は拭きなよ。お兄さんが拭く?」

「ありがとう、自分でできる。気の利くお兄さんがいてくれて良かった」

「お兄さんじゃないけどね」とわたしの頭に大きな手のひらを沿わせた。ゾクッとする。初めての感覚だった。

「どうしたの?」

「なんでもないよ」

「これが気に入ったの?」と彼はわたしを抱き寄せるといつかのように自分の腕の中にわたしをしまった。


 髪を撫でる。

 ただそれだけのことなのに、ふわっとした気持ちになる。誰かにシャンプーしてもらった時のように。

 わたしは彼の胸にもたれかかった。

「気持ちいいの?」

「うん。子供に戻ったみたい」

「そうか。もう少し子供でいていいよ」

 うん、と彼の心臓の鼓動を聞く。どくん、どくん、と力強い。彼はまだここにいる。

 温かい。

 その温もりにわたしは甘えている。

 まだ誰のことも「すきだ」と言っていないのに。


「遼くん、もうやめて⋯⋯」

「どうして?」

「眠くなってきちゃった。温かいんだもん」

「熱は下がったはずなんだけどなぁ」

「そういうことじゃ⋯⋯」

 振り上げた手を掴まれる。一瞬、自由がきかなくなる。目と目が合う。パッと視線も手も外される。

「危なかった」

「⋯⋯なにが?」

「わかんなきゃいいんだよ。この分なら亨ともまだだな」

「だからなにが?」

「なにがってさ、キス」

「キス⋯⋯」


 考えただけで火を吹きそうになる。

 わたしが誰かとキスをする? なにかの冗談じゃない?

「ラプンツェル、なにか不都合があるの?」

「あるよ、いっぱい! 思い出は増やさないって決めてるって知ってるじゃない!」

「まだそんなこと言ってる。今日は亨と楽しく過ごして、思い出をいっぱい作ってきたんじゃないの?」

「⋯⋯それは」

「いいから早く塔を抜け出しておいでよ。焦れったいヤツめ」

「ダメ」

 寄せられた唇を両手で塞ぐ。

「先攻だよ」

「まだ付き合ってるわけじゃないし」

「順序が大事なわけね」

「大事だよ、帰るね」


 じゃあまた、とまだ散歩には誘えない彼を置いて部屋を出た。

 亨くんに会いたいなぁと思う。亨くんの方が冷静だ。現実をよく見てるのは、社会的生活をしているからだろうか?

 遼くんはなにもかも早すぎてそのスピードに時々ついていけない。確かに彼の言う通り、天国への荷物を増やすには、そうするしかないんだろうけど。

『キス』だって。わたしの人生にはいらないものだ。なくても困らないし、憎むべき思い出の材料だ。

 そんなものをほいほいしていたら、カバンはすぐいっぱいになってしまう⋯⋯。


 男の子の友達しかいないなんておかしいよな、と今更考える。無論、亨くんは親戚なんだけど、遼くんは友達だ。

 こういう時に相談できる女友達が欲しいと、初めて思った。


 ◇


 思春期の多感な時期に腫瘍が見つかったわたしは手術を繰り返すことで出席日数がどんどん減っていった。

 だからと言ってクラスで『無いもの』にされることはなく、かえって腫れ物扱いされた。

 ちょっとしたことで「大丈夫?」と訊いてくれる友達はありがたかったけど、当時は「大丈夫?」という言葉を忌々しく感じていた――。

 なのでわたしは女の子の友達が今まで苦手だった。

 やさしい女の子たち。

 でもわたしとは違う。

 その違いに羨ましさを隠せなかった。


「で、あたしのところに来たってわけ?」

 清香さんはけたけた笑った。それもそうだ、ついこの前まで清香さんにとってわたしは目の上のたんこぶでしかなかったんだから。

 遼くんを諦めるって言いに来てから数日しか経っていない。わたしは酷い女だな、と自分を恥じた。


「あのさ、男の子は恋愛に物理的なものを求めるもんじゃない? 仕方ないじゃん」

「みんな、そうなの?」

「うーん、あたしは経験ないからわかんないけど⋯⋯ドラマとか小説とか、みんな、手を繋いでキスするじゃん。それが自然な流れなんじゃない? ていうかさ、あたしだったら未遂だったとしても『うひょー』ってなっちゃうけど。あーあ、されてみたい。こう、顎クイってヤツ?」

「⋯⋯そこまでされてない」

 かぁっと顔が赤くなるのを感じて、視線を外す。そんなことされたらと思うと、怖さが増す。今度こそ逃げられるかわからない。


「遼とはそこまで行ってるんだ。うらやましいわぁ。もうひとりとは?」

「もうひとりって亨くん?」

「そうそう。あの人もスラッと背筋伸びてて格好いいよねぇ。アンタ、しあわせ者」

「亨くんは従兄弟だからやさしくしてくれるけど」

 言い淀む。

「最近は、お兄ちゃんて感じじゃなくなってきてて」

「うん」

「ちょっと怖い」


「仕方ない部分もあるじゃん? あたしたち、普通の人たちと時間の流れが違うんだもん。みんな急ぐよ」

 そうなんだ。わたしだってわかってる。

 わたしたちはみんなより早く散ってしまう。

 それだからみんな、急いでる。ゴールに着く前にたくさんの思い出を作ろうと――そこがわたしとの違いなんだ。

「どんなこともできるだけ早くしなくちゃいけない。そんなこと、わかるでしょう? 遼の気持ちになってみなよ。二股でもいいから、キスくらいさせてあげたら? 向こうもしてくるかわからないじゃん。お兄ちゃんなんでしょう?」

 それには答えられなかった。

「キスするとなにかが変わっちゃわない? 居心地が悪くならない?」

「ねぇ、よしてよ。こちとら経験ないんだからそんなことわかんないよ」

「ごめんなさい」

「アンタいちいち『ごめんなさい』が多い! もっと胸張って生きていかなきゃ」

『生きていく』――それこそがわたしの課題だった。まだ生きていてごめんなさい、という気持ちが拭い去れずに今もいる。

 だから大切な人たちの目を、真っ直ぐに見られないんだ⋯⋯。



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