第14話 例えば誰をすきになっても
「ほら、もうすぐ降りるよ」
タクシーの運転手さんはわたしに「気を付けて」と言ってくれた。そしてキリッと前を向くと車は出ていった。
美術館はまるで雲の上のように高層ビルの中階に入っていた。エレベーターに乗るのを待つ人の列ができている。亨くんはわたしを庇うように後ろに立った。
「ガンガンにCMやってるだけあって、すごい人だね」
「うん。こんな人混み、久しぶり」
押されるように列を作りながら、なんとかエレベーターに乗ると、そこは別世界だった。
「うわぁ、睡蓮⋯⋯」
「睡蓮見たことある?」
「ううん」
「昼間にしか咲かないから睡る、蓮なんだって」
「へぇ」
美術館の中にはまず模型の睡蓮のディスプレイがあり、その青々とした葉はお釈迦様の手を思わせた。
「それで何教徒?」という彼の意地悪な囁きが耳元に聴こえる気がして、横を見ると亨くんがいた。
彼は「迷子にならないように」としっかり手を繋いでくれている⋯⋯。恥ずかしい。
わたしの手は亨くんの手に比べると子供の手のようなもので、すっぽり包まれてしまう。背もずっと高いし、亨くんの端正な容貌は人混みの中でも目を引くようで、通り過ぎる女の子たちの目を睡蓮から奪った。
わたしなんかが隣にいていいのかと甚だ疑問に思う。
でも従兄弟だし、今日は保護者だし、勘弁してもらおう。
どん、と後ろから来た人とぶつかる。
案内の人は「流れに乗って歩いてください。立ち止まらないでください」と言っているがそれは無理ってものだ。せっかく来たのに絵をしっかり見られないなんて。ガッカリする。
モネの絵は風景画からどんどん睡蓮だけになっていき、晩年、目が悪くなってからの絵は色彩の刃のようになってわたしの心を切り裂く。
極彩色の絵は、ぐるぐるわたしの中を掻き回す。亨くんの手をぎゅっと握る。
「めぐちゃん、具合が悪いんじゃ⋯⋯」
「⋯⋯ごめんなさい、ちょっと御手洗」
わたしは踵を返してトイレの表示に向かった。戻ってこられるか甚だ疑問だったけど、もうそこにはいられなかった――。
例に漏れずトイレも混んでいて、列に並ぶ。
お洒落な女の子が多い。
「⋯⋯あの、大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですけど」
「ああ、人に酔っちゃったみたいで。ありがとうございます」
知らない人にまで迷惑をかけてしまってそんな自分にガッカリする。
普通の社会には自分はもう戻れないのかとも。
戻ったところで、もうなにも残ってないんだけど。
トイレ横のベンチに座って少し休んでいると、亨くんがやって来た。
「めぐちゃん、驚いたよ。迷子にならなくて良かった」
「子供じゃないんだから」
「なんだか小さい頃を思い出しちゃってさ。僕の後ろをついて歩いてたでしょう?」
いつだって亨くんがいちばんのお兄ちゃんだった。わたしはやさしい亨くんがだいすきで、いつでも後ろをちょろちょろ歩いていたものだ。
だいすきな。
その後も亨くんは、さっきよりしっかり、手を繋いでくれる。もうこの手を離さない、と言われているようで、安心なんだけど、ちょっと怖い。逃げ出したくなったらどうしたらいいんだろうなんておかしなことを考えてるうちに、ミュージアムショップに着いた。
ミュージアムショップも勿論、混んでいて、人が缶詰の中身のようだった。
わたしはその人混みの中を絞り出されそうになりながら、壁際に沿って進んだ。亨くんは何度も「危ないよ」と言ったけど、わたしは諦めなかった。
「せっかく来たから記念になにか買いたいの」というと「仕方ないなぁ。付き合うよ」と言うので、「厳選するから外で待ってて」と言った。
目が回りそうな人混みの中を、少しずつ移動する。背中と額に汗をかいているのを感じる。でもどこも痛くないし、体調は大丈夫。
今日、なにかあったら、次はないかもしれないから。
「あ」
わたしが見つけたのは金色のプレートに睡蓮を切り取ったような栞だった。両手で持ってじっと見る。これほどわたしたちに相応しいお土産があるだろうか?
想像する。遼くんがこれを本にすっと挟むところを。
速読派の彼のことだから使う機会は少ないかもしれないけど⋯⋯でもこれ以上の品物は見つからなかった。来ていない展覧会の画集は面白くないように思えたし、クリアファイルやエコバッグだってわたしたちにはあまり縁のないものだ。
協力してくれたみんなの分、多めに絵葉書を買う。遼くんにも、と思ったけど写真じゃなくても気に入ってくれるかな、と不安になる。
レジに向かっている間、これで本当にいいのか迷ったけど、やっぱりこれがいちばんな気がした。
「めぐちゃん、お腹空かない?」
「空いたかも」
「なにが食べたい?」
うーんと考える。せっかく下界にやって来たんだから、思いっきりジャンクフードが食べたい!
「チキンかハンバーガー」
「これはまた。僕が怒られそうだなぁ」
「ダメなものリストに入ってる?」
「いいや、大丈夫だよ。タクシー呼ぼうね」
タクシーは滑らかにやって来た。
◇
「あんなに人が多いと思わなかったからごめんね、辛かったでしょう」
ハンバーガーのトレイをふたつ挟んだ向こう側にいる彼に苦笑して見せる。意地を張っても仕方がない。
「でもね、モネの一生が観られて来てよかった。特に晩年、目が見えなくなっても描き続けたなんて知らなかったし、あのエネルギーがすごいなと思ったの」
「なんとしても描こうとするのはすごいよね。『生きる』ことへの執念が⋯⋯ああ、ごめん」
「いいよ、わたしは欲張らないといけないって言われたもの」
「遼に?」
ふふっとわたしは笑った。
「確かに遼くんは欲張りだと思うから納得しちゃった」
「めぐ⋯⋯めぐちゃんは今のままでも十分魅力的だよ」
「説得力ないよ」
「今までも手術に何度も耐えたし、そういう辛さを越えてきたこと、何度も知ってる。泣きたい夜もあるかもしれないけど、そういう夜に寄り添える自分になりたいんだ」
「亨くん⋯⋯」
「決して今だけのめぐちゃんを見て言ってるわけじゃないのはわかってもらえると思う。僕はね、子供の頃からずっと君をかわいいと思ってきた。特別な存在だって」
ポテトがしなびてくるのはきっとわたしのせいだ。
塩っぽいのもわたしの涙のせいだ。
こんな風に想われて、うれしくないわけがない。
「亨くんに飛び込めたらどんなにいいだろうと思うけど⋯⋯わたし、死んじゃうんだよ?」
知ってるよね、と続ける。
「亨くんの人生の汚点になっちゃう」
「⋯⋯遼だったらいいわけ?」
突然の切り返しに驚いて、つまんだポテトを落としそうになる。
「比べて考えたことはないの、本当だよ。それに、遼くんにも返事、ちゃんとしてない」
「良かった、それだけが心配で。今日も誘っていいのかすごく迷ったし、従兄弟としての枠を越えてもいいのか、それも迷ったんだよ」
「ただの従姉妹には戻れないのかな?」
「戻りたいの?」
「わからない。大切にされるのはうれしいし。⋯⋯わたしって欲張りだね」
「欲張ってもいいんだよ」
腕の長い彼はわたしの頭を撫でた。子供のような気持ちになる。
「ねぇ、亨くん。例えばわたしが誰をすきになってもわたしを嫌わないでくれる?」
かなり狡いことを言ってるのはわたしにもわかっていた。
彼の目にうっすら、失望の色が浮かんだ。
「僕には希望はないってこと?」
「そんなこと言ってない。例えば、だよ」
目を逸らされる。
彼の目は眼下を行き交う車の列を見ていた。
「痛いところ突くなぁ。どんなことがあっても嫌いになんてなれないよ」
でもわたしは誰もすきになんてならない。天国への荷物が重くなるのは困るから⋯⋯。
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