第13話 責任と同情

 遼くんの熱はなかなか下がらなかった。

 酷い高熱になることはなかったけど、面会は控えるように言われる。

 あの日、薔薇を見に行ったりしなければ――。

 責任や同情はいらないとあの人は言った。責任は感じる。わたしのせいだから。でも同情はどうだろう?

 自分と重ねて彼を想うことは同情?

 彼のことが気になって、たったこれだけの薄い本が読み終わらない。自分のスマホからビートルズが流れる。

 熱は今、落ち着いているのか、それとも上がったまま苦しい思いをしてるのか?

 時々、早坂さんが遼くんの様子を教えてくれる。「今日は食事を全部食べられたってよ」とか。

 少し安心する。

 安心して眠れそうな気持ちになる。


 ◇


 遼くんが寝込んで3日目、亨くんが会いに来てくれる。悪いけど楽しい気持ちになれないわたしがいる。

「めぐちゃん、モネのチケット取れたよ!」

「モネ?」

「すきだったと思って。今、混雑してるから予約制でなかなか取れないんだ。外出許可は取れる?」

 この間の打ち身は良くなっていたので取れないことはなかった。でも、気が引ける。

 遼くんは苦しい思いをしてるのに、わたしが楽しんでくるなんて⋯⋯。

「遼には報告済み。楽しませてあげてってさ」

「ほかには?」

「いや、特に。絵葉書の1枚でもくれたらうれしいって。冗談だろうけど」

「そうなんだ⋯⋯」

 亨くんはわたしのベッドの端に座った。

「ねぇ、塞ぎ込んでばかりいても良くないと思わない? それで遼が良くなるわけじゃないんだし。こうなったのは全部偶然で、めぐちゃんのせいじゃないよ」

「知ってたの!?」

 亨くんは苦笑すると口を開いた。

「実は遼から頼まれたんだ。『めぐを楽しませてくれ』って」

 わたしは立ち上がると廊下を走った。


「恵夢ちゃん、廊下は走るの禁止でしょう?」

「早坂さん、遼くんと話がしたくて」

「遼くんはわたしの管轄じゃないし、今はまだ面会禁止なの。わかってることでしょう?」

 じんわり涙が滲んでくる。情けないことに、涙がぽろぽろ止むことなく流れ落ちた。

「恵夢ちゃん、ちょっと落ち着こうか」

 早坂さんは困った顔をして、わたしを休憩コーナーに連れていった。


 ごとん、と音を立ててコーヒーが落ちてくる。ミルクたっぷりのカフェオレだ。

 それをわたしに渡してくれる。

 わたしは言われた通りにキャップを外して、一口、口に含んだ。温かい。胸の中がほっとする。

「遼くん、ちゃんと良くなってきてるわよ。今はまだ様子を見てるだけ。元々、発作も多いから医療スタッフも慎重にならざるを得ないだけ」

「本当に?」

「本当だよ。メッセージとか送り合わないの?」

「『大丈夫』ってそればっかりだから」

 くすくすと早坂さんは笑った。

「中学生の恋愛みたいね」

「失礼だなぁ」

「気持ちはわからないでもないけど、もっと冷静になりなさいな。彼の準備ができるまで」

「あ⋯⋯」

 確かにわたしは先走っていた。遼くんがまるでこの世から消えてしまうという幻想に囚われていた。

 ただ熱が続いてるだけなのに――。責任のせいだろうか?

「いいですね、両想い」

「両想い?」

「遼くんも毎日、恵夢ちゃんの様子を訊いてくるって。遼くんの担当と、毎朝、情報共有してんのよ。わかったら今度はゆっくり走らないで部屋に戻って」

 早坂さんは立ち上がるとナースステーションの方に振り向かずに歩いていった。お陰で随分、気持ちが落ち着いた。


 ◇


『いろいろ落ち着かないようだから今日は帰るよ。そんな時は誰しもあるから気にしないで。モネ、めぐちゃんが気乗りしなければ行かなくてもいいから』

 亨くんの流暢な文字でメモ書きが残されていた。わたしはそれを手に取って、自分を最低だと思った。

 遼くんがわたしのためを思って、亨くんに頼んだチケットは、モネの睡蓮の絵が印刷されている。

 モネ⋯⋯画集を出してきて、捲ってみる。

 まだ腫瘍が見つかる前、小学生の頃、流行っていたモネの展覧会に両親が連れていってくれた。圧倒的な数の睡蓮にわたしは驚き、飲み込まれてしまった。そんなわたしを見てパパが、画集を買ってくれた。ママが「まだ早いわよ」と笑った。

 亨くんはそんなことを知らないんだろうけど、行ったらいいことがあるような、そんな気がしてくる。

 亨くんに『ごめんなさい』と『連れていってください』のメッセージを送る。

 亨くんからは『元気になってくれて良かった』と返事が来た。恥ずかしくなる。

 冬枯れの木立は窓の外の敷地との境をぐるっと巡ってカーテンを閉めると視野から消える。命はあっと言う間に散ってしまったように思う。

 でも春にはまた固い芽を開くんだ、ということを忘れたらいけない。

 ――それまで生きていたら、だけど。


 ◇


 亨くんと出かける日が来て支度に追われる。

 わたしが佐藤さんと支度をしている間、亨くんは注意事項を聞きにナースステーションに行っていた。もしもなにかが起きた時の、緊急時の対策法、それを教わるらしい。

 亨くんたちが戻ってきた時、わたしは髪を梳かしていた。亨くんは廊下で待っていると言い、早坂さんは大股で歩いてきて「どう? たまにはハーフアップにしない?」と言ってきた。

「こんなこともあろうと思ってヘアクリップを持ってきたの。ラインストーンが大人っぽいでしょう?」

 早坂さんはわたしの髪を素早くハーフアップにすると、結び目に器用にクリップを留めてくれた。

「恵夢ちゃんも普段からお洒落すればいいのに。年頃じゃない、楽しまなくちゃ。見せる人もしっかりいるでしょう?」

「いません!」

「あーあ、いいなぁ」とにっこりした。


 わたしは冬物のツイードのコートを着て、青い手袋をはめた。足元には焦げ茶のスカートに黒の80デニールのタイツ、焦げ茶のショートブーツ。髪には青いラインストーン。

「めぐ、ストール忘れてるよ」

「あ、本当だ」

「ちょっと待って! すごく似合ってる。かわいいよ」と付け足した。照れくさくなって部屋にもう一度戻る。

 玄関を出るとタクシーが横付けされていた。

「バスで行かないの?」

「タクシーも乗り心地が良くていい物だよ」と亨くんが言う。


 今までも具合が落ち着いている時、何度か買い物に行かせてもらったことがある。

 パパとママと。

 その時はバスに乗ってセンターからの道をバスで降りた。いつもは窓から小さく見える街に、わたしは興味津々で、デパートに着いても落ち着かなかった。

 その度にちょっとしたかわいいものを買ってもらって、今のわたしの部屋がある。


 センターからの道を降りると、市街地は道が混んで雑然としていた。こんなものだったかしら、と思う。

 知らないビルやマンションが突然あって、センターに入ってまだ1年も経たないのに、時間の流れは早いなぁと感じる。

 わたしの知らないうちに、街はこんなにも変わってしまうんだ⋯⋯。さみしさを感じる。

「あの交差点の向こう側にね、新しい大きな美術館ができたんだよ。そこにね、今はモネが来てるんだ」

「亨くんは絵にも詳しいの?」

「いや、全然。ちっともわからないから、今日はよろしく」

 よろしくされても⋯⋯と言うと「ご両親が言ってたよ。恵夢はモネがすきだって」

 思ってもみないことだった。

 衝撃が走る。

「亨くんはパパとママと連絡を取ってるの?」

「めぐちゃんはなかなか連絡をくれないっていつも嘆いてるよ。めぐちゃんの家はここから離れてるんだから、連絡くらいしてあげればいいのに」

「⋯⋯会いに来ればいいのに」

「伝えようか?」

「ううん、いいの。気にしないで」

 遠いと言っても来られないわけじゃない。もっと会いに来れば⋯⋯。ううん、わたしはもう子供じゃない。わかってたことじゃない? センターに入った時から。



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