第12話 奇跡

 その夜、遼くんは発熱した。

 微熱だという話だったけど、お見舞いに行こうとして断られる。「情けない姿は見せたくない」というのが彼の言い分だった。

 わたしはスマホからメッセージを送った。

『読書会をしましょう』と。

『めぐには負けるな』と返事がかえってきた。粘り勝ちだ。

 ふかふかの厚手のカーディガンを着て部屋を出る。夕食は遼くんの部屋で食べると連絡を入れた。

『スカイ・クロラ』シリーズの残りの巻を手に持つ。ハードカバーで揃えたそれは、ずっしりとした重みがあった。

 わたしはジョナサンを読み終えてしまったので、予めリチャード・バックのほかの薄い本を借りてあった。読書会に備えて。

 その本は救世主の人生について書かれていて、仏教徒のわたしにもなにかもたらしてくれるものがあるかもしれないと思い、選んだものだった。


 情けないことにまだ歩くのが難しいので、大きなトートバッグにそれらを詰めて、早坂さんに手伝ってもらう。

「あーあ、カップルの手伝いなんてつまんない仕事だわ」と言ったので「そんなんじゃないです。そう、昼間のお返し。わたしのせいだもの」と答えた。

「恵夢ちゃんも知ってると思うけど、ちょっと気を付けないとあなたたちには発熱なんて日常茶飯事なのよ。それからどうなるか想像もつかないんだから、気を付けないとたった少しの熱が命取りなんだからね!

 仲良しもいいけど、お互いの身体を気遣わなくちゃダメだよ。ふたりともハンデがあること、忘れないで」

 そして視線を逸らして小さく「仕事が増えるでしょう?」と言った。


 ◇


 遼くんの部屋はわたしの部屋とまったく異なるワンダーランドだった!

 置いてある家具は殆ど同じなのに、部屋中に世界中の写真が貼られていた。ほとんどが鳥と風景写真だった。

「叔父が野鳥専門のフォトグラファーなんだよ」と彼は言った。

ツアコンツアーコンダクターなんかもやるから、世界中、飛び回ってる。渡り鳥より飛んでるんじゃないかな。写真集もそこにあるよ」

 写真集の中には、まるでそこにいるかという存在感のある野鳥たちが写っていた。世界中の、モノクロの鳥、極彩色の珍しい鳥。見たこともない世界がそこにはあった。

「これを見せられてさ『なにもしないで死んでしまえ』って言われても無理でしょう。俺だって見たい。飛行機に乗って現地に行って、茂みに隠れて、あとはじっと待つんだ」

「じっと?」

「物音がしたら逃げられるでしょう?」


 遼くんに比べるとわたしは知らないことだらけだ。生きることへの執着の差も、こういうところから来るのかもしれなかった。

「どう? いつか一緒に行かない?」

「まだ赤い顔してなに言ってるの?」

「ハネムーンでもいいじゃない」

 ハネムーン、わたしには縁のないものだ。気持ちが暗くなる。

「はい、本の続き。もうすぐ夕食だから、それまでね」

 彼は「はい、はい」と言いながらビートルズをセットした。彼の部屋には高そうなステレオが置かれていて、スピーカーはいつもより深い音でジョンとポールを歌わせた。

 ベースの音が静かに響く。


 遼くんの1人がけのソファにすっぽり収まって、ページを捲る。リチャード・バックの文章は滑らかで、どんどん読み進める。

 不思議な本だった。救世主が救世主じゃない自分の人生を歩く――いや、飛ぶ。奇妙にも『スカイ・クロラ』と飛ぶことが共通する。わたしが読んでるのは戦闘機じゃなくて古い小型飛行機の話だけど。

 自分に課せられた人生を捨てて、思う通りの人生を歩む。尊厳死も同じようなものかもしれない。科学という名の運命に抗う。

 でもきっとそういうことではなくて。

 遼くんは『病人』という自分の運命から飛び出したいんだ。例えそれが叶わないとわかっていても⋯⋯。

 それは痛々しいことのようにも思えた。


 食事を終えて部屋に戻ろうとすると「めぐ」と後ろから声を掛けられる。振り向くと、半身を起こした遼くんがいた。

「病気が治る人も本当にいるんだぜ」

 唐突に、突飛なことを言う。

「そんなの奇跡に近いよ」

「奇跡かもしれない。でも強く願えば祈りは叶うかもしれない。願わなければ叶うのは難しいんじゃないか?」

 わたしはベッドに歩いていって、遼くんの額を触った。熱が上がったのかもしれない。

「熱は大丈夫そう」

「こんなのすぐに治るよ」

「治ったらすぐに散歩は禁止」

「なんだよ、それ?」

「大事にしなきゃ」

 ほら、と布団に押し込む。

「わたしたちにとってはちょっとの熱が命取りなんだからね」

「それはそうだけど」

「って、早坂さんに怒られた」

 ふふふ、と笑う。

 してやられたという顔を彼はした。


「まだ就寝まで時間はあるだろう?」

「あるけど⋯⋯でも寝支度もあるし」

「1時間くらい」

「仕方ないなぁ」

 遼くんは、自分の兄について話し始めた。

 例の美しい人の婚約者だ。

「兄貴はさ、生まれた時から優秀で」

「そんな人はいないでしょう」

「いや、本当に。幼稚園では卒園生代表をやって、小学校では勉強から運動会まで総ナメ。中学では合唱コンでピアノを弾いてみんなをうっとりさせて、高校では学年トップ、大学入って法科行って、今では弁護士だよ」

「プレッシャーの多そうな人生だね」

 彼はぷっと笑った。

「こんなこと考えちゃいけないんだけど⋯⋯いいとこ全部持っていかれた気がして」

 こんな遼くんは初めてだった。弱さを他人に見せるような人じゃない。いつも堂々として、自分らしさを誇りに思ってるような人だ。


「馬鹿だよなぁ、俺。兄貴みたいになりたかったんだ、ずっと」

「ピアノくらいは弾けたんじゃない?」

「根を詰めた練習はダメだってやめさせられたよ」

 小さい頃の彼はどんなんだったんだろう? 抑圧されてた分、やんちゃだったのか、それとも大人しくて物静かだったのか。聞いても教えてくれそうにはない。

「そのお兄さんが今度、結婚するんだ?」

「出席しなくていいってメールが来た」

「結婚式くらい」

「移動が大変だろうからって。でもきっと、こんな弟は披露したくないんだろう」

 わたしの肩に彼の頭が乗る。仄かに温かい。

「なんか俺ってダメだ。夢はひとつも叶わない」

 遼くんの体温が上がってる気がしたわたしは彼をどけて、体温計を差し出した。案の定、熱が上がっていた。

 思えばわたしが無理に散歩に付き合ってもらったせいだった。


「苦しくない?」

「大丈夫だよ」

「手が熱い。わたし、朝までここにいる」

「ついててくれるの?」

「だってわたしの責任だし――」


 遼くんはがばっと起き上がると、思わぬ大きな声を出した!

「責任とか同情とか、そんなものはいらないんだ! 頼むから部屋に戻ってくれ」

 あ、と思ったけど遅かった。わたしにも覚えのある感情だった。

「⋯⋯ごめん、ビックリさせて。熱のせいだと思っておいて。これ以上めぐを失望させたくないから、今夜は部屋に戻って」

「わかった。⋯⋯無神経なことを言ってごめんなさい。でも本当に心配してるのはわかって」

「わかってるよ、本当は」

 おやすみをして、彼の部屋を出た。


 わたしは自室に戻って、医療棟のスタッフに遼くんの熱が上がったことを伝えた。スタッフは冷静に報告を受けてくれた。

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