第10話 勿体ない
亨くんがバスの時間に合わせて「じゃあね」と言って帰っていった。わたしが汚したコートの肩が落ちて見えた。
悪いことをしたのかもしれない。
亨くんはわたしに好意を持ってくれてると知っていながら、残酷な未来の話しかわたしにはできない。
もし、普通だったら?
亨くんの話を受けて、付き合って、結婚もするかもしれない。そうしたら子供もできるかもしれない。
――だからダメなんだ。
そういうしあわせな未来を夢見てしまうと辛くなるのは自分だと、わかっているから。だから全部、切り捨てることに決めたのに。
パパやママや、学校や友達や、全部!
悔しくて悔しくて、その晩は久しぶりに枕を濡らした。嗚咽が漏れないように布団をしっかり被って。
◇
「やぁ、おはよう」
朝食を終えるとすぐに遼くんが現れた。じーんと来る。
同じ立場の彼に全部、心の内を聞いてほしいけど、話せないことの方が多い気がして、上手く顔が見られない。
「今日は続きをしようと思って。ベッドでもできるでしょう?」
「⋯⋯気を遣ってくれてありがとう」
彼の手には先日の本があった。
「音楽をかけていい?」
「どうぞ」
ビートルズは時には陽気に、時にはしっとりと歌い上げる。それをそっと聴きながら、文字を目で追う。
「実はこの巻は読んじゃったんだ、あの日に。次のを借りられないかと思って」
「ご自由に。図書館みたいね」
「貸出ノートを作らないと」
わたしたちはくすくす笑った。それはやさしくて、暖かい笑いだった。
「昨日は大変だったんだって?」
「そう、やっちゃったの」
「『やっちゃった』でベッドの中じゃ済まないでしょう」
苦笑する。まさにその通りだ。
「いろんな人に迷惑かけちゃった」
「で、その中に亨もいたわけだ」
「たまたまよ」
「亨がいて良かったよ。俺じゃあの坂を走って登れないからな」
シュンとなる。それを期待してるわけじゃないのに、落ち込んでる彼に。
遼くんは『勝手知ったる』という感じで紅茶をいれてくれた。華やかな香りに今日は気持ちが華やがない。
「そんなこと⋯⋯」
「人間、向き不向きがあるもんな。仕方ない。でもめぐになにかあった時に自分じゃ力になれないんだって思い知ったよ」
「そんなこと言わないで⋯⋯」
彼は腕を上げてわたしの目を見ると、呪文を唱えた。
「ラプンツェル、髪を垂らしておくれ」
わたしは彼を励ましたくて腕を伸ばした。すると彼はわたしの腕を取って、手の甲にキスをした。
「王子様みたいだろう?」
「もう!」
「俺のこと、受け入れてくれるって思っていい?」
「それは⋯⋯まだ心の整理ができないっていうか、やっぱり誰かをすきになるなんて、踏み出せないよ、怖くて」
彼はわたしの手を離すと、悲しい目でわたしを見た。
「天国への荷物が重くなるから? キリスト教?」
「仏教⋯⋯わかってくれない? 遼くんならわかってくれるかと思った」
「死ぬまでにたくさんの思い出が欲しいと思ってる。世界中を旅したい。だけどできない。それならその分、ほかのことで思い出をたくさん作りたいんだ――。もしも天国への荷物が重くて足枷になるなら、その時に考えるよ」
はははっと彼は照れくさそうに笑った。わたしはとても笑えなかった。そういう心境になれずにいるから。
「なんか狡い。話をすり替えられたような気がする」
「そんなことしてないさ。めぐが欲張りにならないかなと思ってるけど」
「欲張り?」
うん、と彼は言って言葉を続けた。
「もっとたくさん欲しがってもいいんだよ。なんなら、俺と亨、二股したって⋯⋯痛ッ」
わたしは彼の手をつねった。
「怖いだけなの、すべてを失うのが」
「俺がめぐのすべてになってやるよ。そうしたら失うものはひとつだ」
気が付くと腕の中だった。ジョナサンがパタンと音を立ててベッドから落ちた。温もりが、毛布のようにわたしを包む。
「聴いて、このへなちょこな心臓の音。こいつがたまに言うことを聞かないんだ」
ドクン、ドクンと彼の心音が強く聴こえる。この鼓動が止まる時、その時彼は。
「やれることは全部やってくれたんだ。だけどそれでも発作がまた起きる。めぐ、俺の方こそ怖いんだって言ったら軽蔑する?」
「しないよ。絶対に、しない」
「どっちがしあわせだろう? キルドレみたいになかなか死ねなくて戦争を続けて生き続けるのと、俺たちみたいなのと」
「生き続けることだけがしあわせじゃないってこと?」
「かもしれないね」
今は珍しい時計の針が時間を刻む時の音のように、彼の鼓動は鳴り続けている。生きている。だからわたしは彼の温もりを感じている。
「長生きすることだけがしあわせとは限らないって、新しい発見だ。ほら、悪いことばかりじゃないよ」
「そんなの屁理屈だよ」
「屁理屈でもいいよ。こうして姫を腕の中に入れておけるなら――」
かぁっと体温が上がる。話の流れであまり疑問に思っていなかったけど、これは大変なことなのでは?
「酷い! 騙したのね」
「騙してないよ。でもほら、こうやって嫌でも生きていれば思い出が降り積もるように増えていく。めぐの天国へのカバンは俺ならパンパンにしてあげられるけどなぁ。そしたら天国に辿り着かないかもしれないよな」彼は笑った。
その後は大人しく読書をして、彼は順調に2冊目も半分読んでしまった。わたしは続きが気になるからって夜更かししたらダメだと彼に告げた。
◇
「食堂に行かない?」
「どうやって?」
「車椅子があればいいんだろう? 借りてきてあげる。たまには美味いものを食べないと」
「それも思い出?」
「かもね」
彼の提案に乗ってもいいような気がしてくる。何故だろう? 美味しいものが食べたいだけかもしれない。
遼くんと早坂さんに手伝ってもらって、車椅子に乗る。骨も折れてないのに仰々しいけど、まだ腰が痛くて長い間立っていられなかった。恥ずかしいけど仕方ない。
早坂さんが屈んだと思うと「で、どっちが本命?」と聞いてきて、わたしは恥ずかしくて仕方なかった。
食堂に着くと、清香さんが飛んできた。
「めぐ! どうしたの?」
「落ち葉を踏んだら滑って転んじゃって」
「危ないじゃん。あたしたちにとっては小さいことでも命取りなんだよ」と大袈裟に言った。
幸いわたしの腫瘍はここ最近、薬が効いて落ち着いている。そうでなければ散歩もできっこない。
「遼、ちゃんと見ててあげなきゃ。そう決めたんでしょう?」
「⋯⋯清香さん?」
「やってらんなーい。ふたりがしあわせなの見てるより、新しいしあわせを探すわ。時間が勿体ないもの」
時間が勿体ない。わたしには無い考え方だった。
効率よく新しいしあわせを増やしていくには必要な考え方だ。
でもやっぱり――。
「清香ちゃん、感じが変わったね」
「遼をフッてあげることにしただけだよ」
わたしと遼くんはお互いに目を見合せた。思ってもみない展開に。
「あたし、遼をフッて、いい女になるの。じゃあね」
清香さんは友達の方へ帰っていった。
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