第9話 アクシデント

 昨日の雨は、最後まで枝にぶら下がっていた木の葉をことごとく散らしてしまった。僅かに残された葉も、そろそろ終わりが来る頃だと告げるように、オレンジや茶色が斑になっていた。

 秋はとっくの昔に通り過ぎ、冬が来たことを思い知らされる。ここで初めての冬だ。

 雨は上がったけれど、またいつ降ってもいいかのように雲は空を薄暗く覆っていた。


 わたしはふたつの課題を考えあぐねていた。

「まさか自分が!」なんてハッピーな気分にはなれず、憂鬱さがわたしを満たす。

 困るんだ、ハッピーな出来事は。できるだけミニマミストでいたいわたしを揺さぶるのはやめてほしい⋯⋯。残るのは未練だけだもの。

 この世に未練を残さないためにここに来たのになぁ、と思う。

「恵夢ちゃん、最近お盛んね。ああ、いいなぁ。わたしもモテたい。腕のいい医者を見つけて開業して、それでもって看護士なんかバシっとやめるのよ。そしたら奨学金も彼の収入で払えるし、この先の将来、金銭的に困ることなし!」

「金銭が問題なの?」

「そうよ、恵夢ちゃんだってご両親がお金をかけてくれたからここにいるんでしょう?」

「⋯⋯やっぱりここって高いの?」

「えー? その、まぁ普通じゃない? 見晴らしがいいとこくらいしかほかと変わらないわよ。それじゃね」

 早坂さんは話したいだけ話すとどこかに行ってしまった。


 病気の治療にお金がかかることはわかっていた。

 けど、そんなに真剣に考えたことはなかった。

 パパとママはなにも言わないけど、ふたりが無理をしてないといいなと思う。病気なのにわたしだけ贅沢をしてるのはおかしな話じゃないだろうか?


 そんなことを考えてると「お待たせ」と佐藤さんが現れた。佐藤さんはショールをマトリョーシカのようにすっぽり被っていて、わたしを笑わせた。

「だってこんなに寒いのよ。耳までちぎれそう。こんなおばさんを寒い目に遭わせてまで散歩したいのはどの子?」

 くすくす、わたしは笑う。

「寒いのは体に悪いから、ちょっとだけね」

「はーい」


 贅沢だとは思うけど、ふたりの気持ちが重すぎて、とても部屋にこもっていられなかった。だからと言って食堂などの共同スペースに行くかというと、それはそれで神経が疲れてしまう気がした。

 気分転換には散歩がいちばんのように思えた。

 足元が悪いので、今日は舗装された別の道を行く。センターの敷地を入ってすぐの小道を行くと、見晴らしのいい高台に出る。そこに行こうという話になった。距離も短いし、完全舗装だ。

 わたしと佐藤さんは寒い中、手を繋いで「寒い、寒い」と緩やかな坂を登った。途中に見える景色は、センターの下にある街を模型のように見せた。

 高台に着くと、そこには1本の大きな銀杏の木が生えていて、かわいそうに、その三角形の葉はほとんど散って裸になっていた。木の根元にはその証拠に黄色い絨毯が敷かれていた。


「下から吹き上げる風が冷たいわねぇ。寒くない?」

「佐藤さん、カイロあげる。ふたつ持ってるの」

「あらあらこの子はちゃっかりしてる」

 笑いながら佐藤さんはそれを腰に貼った。

 わたしにはこの冷たい風が必要だった。火照った心を冷ますには最良に思えた。

 でも実際に風に吹かれてみると、気持ちはちっとも冷めなくて、耳の先が冷えてかじかんだ。佐藤さんに習ってショールを深く巻く。

「ねぇ、恵夢ちゃん、見て! 海が見える」

 高台にあってもこんなに海が見えたのは初めてだ。冬の澄んだ空気がそうさせるんだろう。潮の香りがしないかと、すんと匂いを嗅ぐ。冷たい冬の匂いしかしない。

「いいもの見たわねぇ。そろそろ戻りましょうか? ほかの人たちにも教えてあげなくちゃ」

 佐藤さんは来た時と違ってルンルンだった。


 と、その時、銀杏の葉の吹き溜まりにうっかり足を乗せてしまい体勢を失った。

「きゃ」という声が出て、腰と腕を強かに地面に打ちつけた。

「恵夢ちゃん、大丈夫? 痛いところはどこ?」

「ちょっと待って。痛いところが痺れててすぐに立てなさそう」

「誰か呼んでくるわ――」

 待って、という間もなく、佐藤さんは慌てて走っていってしまった。咄嗟に着いた右腕が痺れて、体重を支えきれなくなってくる。

 仕方なく、その場に横になる。

 あ、雪が降りそう。こんな時に馬鹿なことを考えている。心細くて涙が一筋、頬を伝う。どうして考え無しにこんなところに来てしまったのか⋯⋯。


「めぐ!」

 息を切らして走ってきたのは亨くんだった。かなり無理して走ったんだろう。肩で息をしている。

「めぐ! どうした? 転んだ拍子にどこか痛くなった? 早く医者に」

「待って、違うの。腫瘍は痛くないの。転んだところが痛くて、いっそのこと寝転んじゃっただけ」

「本当に? 無理してない?」

「忍野くん、車椅子、来てくれるって」

「わかりました」

 亨くんは自分のコートを脱ぐと、わたしの身体にかけて「少しはマシでしょう」と苦笑した。

 わたしは本の中じゃなく、自分の身にそんなことが起こるなんて驚いてしまい、頬が熱くなる。

「泣いてるの?」

 横に首を振る。

「怖かったよね?」

 縦に首を振った。

「亨くん、ありがとう」


 センターに戻ると一応、念の為に検査をしようということになった。わたしはただ打っただけだと主張したけれど、念の為、と押し切られた。

 レントゲンを撮って初めて、骨に異常はないことをわかってもらう。早坂さんが車椅子を押して、部屋に連れ帰ってくれる。

「無茶したらダメよ。ほら、忍野くんだって心配してるでしょう」

「⋯⋯ごめんなさい、反省してます」

「これで骨折してたら大騒ぎだったわよ」

 もう十分に大騒ぎだったけどなぁと思ってチラッと目に入ったのは、亨くんのコートだった。

「亨くん、コート汚れちゃったね。クリーニング代出させて」

「気にしないで。叩けばキレイになるよ」

 その笑みが眩しい。返せない恩を作ってしまったな、と思う。情けなさでいっぱいになる。


 自分で自分のことをきちんとできない。

 これは病人だから仕方ないことなんだけど、受け入れるには重すぎる。やってもらって楽、ということはない。心の中に申し訳なさが積もっていく。

 今回のこともそうだ。

 佐藤さんは上の人にきっと叱られただろう。

 そういうことを思うとやり切れない。

 涙が出そうでわたしは下を向いた。


 ◇


 部屋に着くと亨くんには出てもらって、早坂さんに手伝ってもらいパジャマに着替える。打ちつけたところに湿布が貼られている。

「じゃあ恵夢ちゃん、困ったことがあったら呼んで」

 早坂さんはキビキビと部屋を出ていった。代わりに亨くんが入ってくる。わたしは申し訳なくて、その目が見られない。

「めぐ⋯⋯こっち向いて。もし、申し訳ないと思ってるなら尚更、僕の方を見てほしいんだけど」

 わたしはごそごそと体勢を変えて、亨くんの方を向いた。相手の目を見ないなんて、まるで子供みたいだ。勇気を持って、その目を見返す。

 真剣な眼差し。まるで射られそうだ。


「よかったよ、なんともなくて。バス降りたら丁度、佐藤さんが降りてきたところで『恵夢ちゃんを見てて』って走っていったものだから、驚いたよ」

「驚かせてごめんなさい。こんな日に散歩に出るなんて、ほんと、どうかしてた」

「気分転換は必要だけどね」

 くすっと彼は笑った。


 ◇


 夕食は部屋で食べるしかなかった。

 亨くんは同じものを食べていくと言って譲らなかった。

 看護士さんの手も借りず、わたしをベッドから降ろすと、難なくテーブルに連れていった。

「やっぱり医療系に進めばよかったな」

「お医者さんになりたかったの?」

「いや。でもめぐちゃんと一緒にいられるでしょう?」

「そうかなぁ? お医者さんは患者がいっぱいで忙しそうだけど」

「医者になればめぐちゃんの介助人になれるし」

「え?」

「ここに住めるよ」

 なんと答えていいのかわからなかった。この間のことも保留にしてあるし、きちんとしなくちゃいけないという思いが頭を横切る。


「わたし、気持ちはうれしいんだけど⋯⋯誰もすきにならないって決めてるの」

「決めればならないってわけじゃないんだよ」

「でもね、恋をしたらこの世を去る時に辛くなるから」

「⋯⋯長生きすればいいよ」

「簡単に言わないで」

「僕は暇がある限りここに通うし、めぐちゃんはできるだけ長くこの世にいることだけを考えて」

「そんなこと⋯⋯そんなこと考えて、希望を抱いてどうするの? 治らないからここにいるのに」

「⋯⋯無神経なことを言ってごめん。ただ、めぐちゃんが普通の人と同じだったらって思うと悔しいんだ」

 その一言がわたしの心を揺さぶった。普通の人と同じだったら! わたしはやっぱり普通の人じゃない。

 ノックが鳴って、ボランティアさんが食事を持ってきてくれた。

「まだ、生きてるんだよね。先のことを考えるのはやめよう」と彼は言った。




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