第8話 雨の日
目覚めると、酷い雨が降っていた。
土砂降りの空は垂れ下がるようにどんよりとした真っ黒な雲に覆われ、光は奪われてしまったようだった。空調の効いた部屋でも、寒気がするような気がした。
「いやぁね、こんな天気だと。一日が台無しになる気がするわ」
佐藤さんが顔を顰めてそう言う。
確かにわたしも同じことを考えていた。
これで今日の散歩はなしになったし、ほかに娯楽と言えば限られている。
「今朝は和食よ。冷めないうちにいただかないとね」
佐藤さんはトレイを取りに廊下へ行った。
あれから以前より頻繁に亨くんからメッセージや電話が来るようになり、まるで毎日の報告のように彼の活き活きとした生活が届けられた。
わたしはそれを興味深く聞き、一方で色をなくした自分の生活と比べた。
わたしの方は話題が当然少なくて、亨くんがその穴を補完するように、その分の話をしてくれる。
その中には家族の話もあった。
離れていてなかなか面会に来られないわたしの家族と亨くんは密に連絡をとっているようだった。聞いても面白くない話ばかりで、相槌ばかりになってしまう。
そんな中、亨くんがスマホのマルチゲームを勧めてきたけれど、丁重に断った。
話で聞く限り、色鮮やかな世界が想像できたけど、他人との交流はわたしには荷が重すぎた。誰かと時間を共有するのは、やはり最小限でいいように思えた。
つまらない人間だと、亨くんを失望させたくないと思いつつ、誰かとよく知り合うのは怖かった。思い出はいちばんの恐怖の対象だった。
◇
トントントン、と弾むようなノックが聞こえてインターフォンを覗くと遼くんだった。退屈していたわたしは快くドアを開けた。
「ラプンツェル、ラプンツェル、髪を垂らしておくれ」
「なにそれ?」
わたしは思わず笑った。
「だって呼びかけないと姫はこっちを向いてもくれないからさ」
「姫なんて呼ばれる立場じゃないし」
「俺と亨から見たら、めぐちゃんは『姫』だよ」
もう、と苦笑する。
遼くんはあのことを知らないはずなのに、どうしてそうジャストミートな話題を振ってくるのか、不思議に思う。実はふたりはわたしの知らないところで頻繁にメッセージを交わしあっているのかもしれないと思いつつ、それはないな、と思う。
遼くんと亨くんの間の友情が戻るといいなと思ったけど、それはわたしの浅はかな考えで、一度すれ違ってしまった関係は結び直すのに時間がかかるようだった。
環境の変化がいちばんの原因なのには違いない。
「雨だと暇だろうと思って」
「思って?」
「読書会しない?」
ああ、彼は以前わたしの部屋に来た時に見た本棚の中のたくさんの本から、それを提案してくれてるんだなぁと思うとありがたかった。
「えーと、それぞれ読んで感想を送り合ったり?」
「いや、ここで読むけど」
「え? それはなくない?」
「あるある。ほら、本を選ぼう」
彼は予め用意してきた本の数冊をわたしに見せた。わたしは悩んだ結果、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』を選んだ。文字通り、1羽のかもめの話だ。未読だった。
彼はわたしの本棚をじっと見て、森博嗣さんの『スカイ・クロラ』を手に取った。戦争のために空を飛ぶ成長しないキルドレという人間の物語だ。
「空つながりだね」と彼は言った。
「音楽かけてもいい?」
「騒がしくなければ」
彼は自分のスマホを器用に操作すると、テーブルの上にそれを置いた。ビートルズがノスタルジックなバラードを歌い始める。
「すきなんだ」と彼は言った。
彼はわたしのアイボリーのファブリックソファに座ると、早速1ページ目を捲った。ぱらり、という音が聞こえる。
わたしはケトルでお湯を沸かしながら、トマトとパプリカのカップを用意した。紅茶でいいかと尋ねると、いいよといつかと同じ返事が来た。
カップにお湯を注ぐと雨のにおいを吹き飛ばす勢いで、アールグレイの香りがぶわっと広がった。気分が上がる。
わたしはベッドに腰掛けて本を開いた。遼くんが「俺も疲れたら横にならせてもらうから、ベッドに入りなよ」と言ってくれる。少し恥ずかしいけれど好意に感謝して、ベッドに潜り込む。
アールグレイは手もつけられず冷めていく。わたしたちは本にのめり込む。
お茶が完全に冷えてしまう前に、彼が「最初の休憩を取ろう」と声を掛けてくれた。
戸棚の中にしまってあったイチゴジャムを挟んだクッキーを出してきて、彼に勧めた。「美味しい」と喜んでくれる。
どの辺まで読んだかという話になる。
わたしは薄い本だったので3分の1くらい読んでいて、彼はもっと厚いのに半分近くまで読んでいた。かなりの速読だ。
「この人の文章が読みやすいからだよ」と彼は言った。わたしがシリーズものだと言うと、ぜひ読んでみたいと言った。
「空はいいよね。自由になれる気がするんだ、ジョナサンみたいに」
「鳥になりたいの?」
「うん、鳥に生まれればよかったよ」
果たして鳥になったところで、遼くんが群れを飛び出さないか甚だ疑問だった。彼なら自由を求めて群れを離れるだろう。そう、ジョナサンのように。
「めぐちゃんは?」
「わたしはそういうこと、考えたことがなくて⋯⋯その、今の自分に精一杯で」
素直な言葉が、なぜかするりと出て来た。自分でも驚いた。
「今の自分を持て余してるから、ほかのことを考える余裕がなかったっていうか」
「うん、おかしなことじゃないと思うよ」
真面目な顔で真っ直ぐ彼はわたしの目を見た。わたしは彼の目を見返すことができなかった。
「じゃあ来世は一緒に鳥になろう。俺はぐうたらだから、ジョナサンみたいにひとりではりきったりしないから安心して大丈夫。
「番に!?」
その言葉の重さをわかっているのかと思って驚く。でも彼はゆったり穏やかに言葉を続けた。
「そうしたら、髪を垂らしてもらわなくても一緒にいられるだろう?」
「ラプンツェルじゃないし」
「そうだよ、塔からすきなときに出られるし」
「髪も長くないし」
「そんなの関係ないさ」
「髪の長い人がすきじゃないの?」
「髪の長さで人を選ぶの?」
立ち上がると彼はそっと、わたしの肩にショールをかけてくれる。ふわっと彼の匂いが紅茶に混ざる気がして戸惑うと、背中から抱きしめられていた。
「すっかりやられちゃって」
「なにに?」
「君に」
心臓の鼓動がかつてなく強く打つ。「離して」と小さな声で言った。
「だってさ、めぐちゃんてツンデレなんだもん。その表と裏がかわいい」
「それってかわいい?」
「ドキドキするね」
彼の真意がわからない。
「決して亨と張り合ってるわけじゃないから」
「友達でしょう?」
「今はライバルだよ。この前は敵に塩を送っただけ」
ビートルズが『I love you』と高らかに『ミッシェル』を歌い上げる。その外国語の歌詞の意味をわたしは知らない。けど、恋の歌だということだけはよくわかった。
「亨は奥手そうだからな。宣戦布告」
そうでもなかったということは、伝えずにおく。ふたりの間に火をつける気はないから。
「ねぇ、考え直して。わたしのことなんて思っても、なにもいいことないよ」
「なんで?」
「なんでって⋯⋯すぐに消えてなくなるから」
「それはお互い様。でも外の世界だってそうでしょう? 長さは別にして、人はいつかみんな死ぬ。それを怖がってたら恋なんてできないよ。俺たちの方が寧ろ恵まれてるかもしれないよ? 死期が同じく近いだけ。どっちかが長く取り残されることはない」
「それってちょっと悲観的」
「だろう? 悲しいかな、俺も君も消えてなくなる。でも思い出は消えない」
わたしは口を噤んで、言っていいものか考えた。この人なら、わかってくれるかもしれない。
「あのね、その時が来るでしょう?」
「そばに誰もいない時がいいなって思ってる」
「ダメだよ、助かるかもしれないじゃない」
「そうだね、もしかしたら。続けて」
勇気を出して言葉を探す。
「わたしは多分、ベッドの中で、ママが、わたしの延命措置をしない瞬間に泣くの」
「相変わらず具体的なんだね」
「そう。それで意識が消える時、天国から天使が金のラッパを持って現れて、美しいメロディを吹くの」
「キリスト教?」
「仏教」
ふたりでふふ、と笑う。
「その時、天界に持っていく荷物は軽ければ軽い方がいいと思う。重いと飛べなくなるから」
「それだけ?」
「それだけ。思い出に縛られたくないの。だって本当は天使なんて来ないんだよ。荷物を持ってくれる助けはないんだから」
「俺のラプンツェルはなかなか髪を垂らす気にはならないらしい。手強いな。でもこれでわかった。俺は君を思い出で縛りつけることが出来るってことを」
また来るよ、とスマホと本を持って、彼は部屋を出て行った。
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