第6話 オンリーワン
「最近すごーく話題になってるわよ」
「なにが?」
髪を梳かしながら、鏡越しに佐藤さんを見る。佐藤さんはわたしのテーブル周りを簡単に片付けながら、わたしに話しかけた。
「あの遼くんにオンリーワンが現れたって!」
「⋯⋯オンリーワン。なんですか、それ」
「唯一の人ってことよ!」
まったくなんだそれ、と思いながら髪を梳かす。
「誰のこと?」
「決まってるじゃない、恵夢ちゃんよ!」
「わたし?」と驚いて急に振り向こうとしてバランスを崩す。椅子が床の上でダンスをするようにわたしを弾く。わたしは思ったよりずっと派手に床に落ちた。
「恵夢ちゃん、大丈夫!?」
慌てた様子で佐藤さんが走り寄ってきた。じーんと強く打ちつけた膝や肘に痺れが走る。
「佐藤さん、大丈夫だけどちょっと待って。すぐには立てない」
「誰か呼んでくる!」
佐藤さんはインターフォンのことも忘れて、部屋を飛び出していった――。
◇
「打ち身。大丈夫、骨に異常は見られないから」
「良かったぁ! わたしがくだらないことをぺちゃくちゃ話して恵夢ちゃんになにかあったらと思ったら」
笑顔なのに佐藤さんの目元は光っていた。わたしはあちこちに痛み止めのテープを貼られたけど、歩けなくなったりはしなかった。
「頭を打たなくて良かったね」
「はい、大丈夫そうです。ご迷惑おかけしました」
それじゃ、と佐藤さんと一緒に部屋を出た。
ここは国立病院関連の緩和ケアセンターなので、大体の診療科が揃っている。勿論、みんなそれを期待してここを選んで来ているわけだ。
一見、何事も無かったように見えるわたしの身体はあちこち痛んでいた。
「恵夢ちゃん、本当にごめんねぇ」
「大丈夫ですってば」と言いつつ、これは酷い青アザになるだろうと予想していた。
「あ、王子!」
懲りないなぁ、佐藤さん、と思いながら諦めて挨拶する。オンリーワンとかなんとか、みんな、週刊誌の読みすぎなんじゃないかとため息をそっとつく。
「めぐちゃん、医療棟で珍しいね」
「遼くんは?」
「検査。型通りのヤツだよ」
「めぐちゃんは⋯⋯」
あのね、とすごい勢いで佐藤さんが話に割り込んできて、話さないでおこうと思っていたことのすべてを暴露されてしまった。
「歩いてて痛くないの?」
「歩いててっていうか、あちこちが痛い、純粋に」
苦笑するしかない。骨に異常がないので、動けないわけではないんだ。
「あ、お姫様抱っことか考えないで!」
手で大きくバツを作る。遼くんは大きな声で笑った。
「さすがにここから居住棟まで、抱っこはできないかな」
「おんぶもノーサンキューです」
「それはそれは」
わたしたちのやり取りを隣で見ていた佐藤さんはぽかんとしていた。
ああ、やっちゃったかもしれないと思った時には遅すぎた。佐藤さんはほかに仕事を思い出したと言い出した。
遼くんには『オンリーワン』のところは伏せて話したので、快くわたしのお守りを買って出てくれた。ややこしくなる。
「じゃあ悪いけどお願いね」と、後はお若い方でと言わんばかりに佐藤さんは仕事に戻っていった。
「どうしたの、微妙な顔をして?」
んー、と思う。この人は鈍感なのかもしれない。
「知らないから、なにか言われても」
「またなにか言われた?」
ちょっと違うことだけど、と思いつつ、首を横に振った。
「外がいい? 今日は冷え込んでるかな。天気も悪いし」
「外にしましょう。コーヒーを買って、ベンチで飲むの」
それはいいね、と彼は言った。
◇
枝にぶら下がるようについていた木の葉たちは昨夜の雨で殆ど散ってしまった。
わたしたちは偶然出くわしたあの池へと歩を進めた。互いにたわいないことを喋りながら。
「じゃあ相変わらず姫は誘われない限り籠城なさってるわけだ」
「なんですか、それ? 単に『引きこもり』って言いたいんでしょう?」
「あはは、少し面白く脚色してみたんだけど⋯⋯危ない!」
わたしは雨に濡れた枯葉を踏んで、見事スリップするところだった。さっきの教訓は生きていなかった。
遼くんが、転ばないように掴んでくれた腕が痛くて、思わず声を上げてしまった。
「ごめん、強く掴みすぎた?」
ハッとして彼はそろそろとわたしから離れた。まるで他意はないんだというように。わたしだって馬鹿じゃない。こんなことで自分が特別だって勘違いしたりしないのに。
「違うの。ほら、話したでしょう? 部屋で打ちつけたところと丁度被って」
「そりゃ痛かったよね、ごめん」
「掴んでくれなかったらもっと酷いことになってたって」
「そうかもしれない」
わたしは付いてもいない土を
空は冴えないどんよりとした雲で覆われ、光はその勢いを奪われていた。この隙間を埋めるにはどうしたらいいのか、必死に考える。遼くんといて、こんなに気まずいのは初めてだった。
「手を繋いで行こう」
え? 見上げると彼は真っ直ぐな目をして、わたしに手を差し伸べている。戸惑いながらその手を取る。
――だって、特定の子と仲良くしないんじゃなかったっけ?
清香さんが見たら発狂ものだ。人気のないところで良かった。勿論、目立つところでこんなことはしないだろうけど。
「大人しいね」
ドキドキしてるだけ、と口に出さずに答える。足元に注意しているふりをしている。
「具合が悪いわけじゃないよね?」
「それはないです。痛くなったらとても歩けないし。もしそうなったらいつも持ってるバッグに痛み止めがあるから、無理にでも飲ませてください」
わかった、と彼は短く答えた。
惨めなくらいロマンティックじゃなかった。身体はギシギシ痛んだし、雲は空から垂れるように立ち込めているし。足元は悪く、靴はドロドロだった。つまり散歩コースの選択にミスしたわけだ。
ただ、その手の温もりだけが、これがロマンティックな出来事だと強く物語っていた。
「時々ね、その時が来たらどうなるのかなって考えるんです。考えるでしょう?」
「考えるよ。あまり人がいないところだといいなって思う」
池の縁に生えている芦が、風に揺れる。
「わたしはきっとベッドの中だから、その時に延命装置を外す瞬間、天使が枕元にやって来て金のラッパを吹いてくれる想像をする」
「キリスト教?」
「仏教」
顔を見合せてくすくす笑う。
目的のベンチは雨に濡れて座れなくて、東屋の奥に辛うじてふたり分のスペースを見つける。
コーヒーの蓋を捻る。
「その時にはお医者さんと家族がいて、ママがきっと泣いてる。サヨナラをするから」
「随分細かく想像してるんだね」
言おうかどうしようか、瞬間迷う。でもこの人になら言ってしまってもいいかなぁという気になる。
「怖いから。その時が来るのが。本当は天使なんて来てくれないって知ってるし」
「仏教徒だからね」
ふたりの手は気付かないうちに離れていて、手袋を持ってくればよかったと日陰の東屋の中で思う。
「どうしたら怖くなくなると思う?」
彼は顎に手を当てて少し考えている様子だった。眉根が寄っている。
そしてくるっとまたわたしを真っ直ぐに見ると、こう言った。
「上手く答えられない。俺も怖いんだ」
「遼くんが?」
彼は深く頷いた。
「怖いよ、なにもかも閉ざされていくのが。そうして俺は跡形もなくなくなって、みんなが悲しんで、思い出は少しずつ風化して、そうして最後にはなにもかも失われる。――生きてきた意味も、その軌跡も」
「そんなことない!」
「なんてね、カッコつけちゃった。ああ、ごめん、本気にしちゃったかな?」
「もう! からかわないでくださいよ」
「たまには真面目っぽいとこ見せておかないと、ただの馬鹿だと思われるかなって」
「今、思ってます!」
思ってる、さっき彼の言ったこと。同じことをいつも頭の中で⋯⋯。
「疲れちゃったでしょう? コーヒー飲んだら行こうか。どうやら水鳥たちも今日は不機嫌そうだし」
「そんなことわかるの?」
「めぐちゃんより長くいるからね」
今度はさみしそうな目をして笑った。
◇
350mlのコーヒーはあっという間に飲み終わって、帰りも彼は手を引いてくれたのでわたしはだんまりだった。
話をしなくてもなにか通じ合うものが、共通認識としてできていたし、話さなくても困ることはないことがわかった。
この人とは話さなくても大丈夫なんだと思うと、どこかホッとした。
彼は坂を登りきる手前でわたしの親指を悪戯に押さえて、1から10までのカウントをした。つまりまた負けてしまった。
「予告なしは狡くないですか?」
「いつなん時だって気を抜いたらいけないってこと」
「なにそれ? わけわかんないなぁ、もう」
「じゃあもう一戦やる?」
「そんな子供じみたことやりません!」というやり取りが既に子供っぽくて自然に顔が綻ぶ。気持ちが明るくなる。彼に感謝の気持ちを抱く。
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