第3話 心の鍵

「忍野! 忍野じゃないか! 元気だったか?」

 亨くんを見送るため外来エントランスに向かっていると、後ろから大きな声がかかった。

「ほら、武中だよ!」

「遼! お前、なんでこんなところにいるんだよ!」

「決まってるだろう! 恵夢ちゃんと同じ理由だよ」

 弾んでた空気が急に萎む。言葉の選び方ひとつで空気が変わってしまった。外では普通のやり取りなのに。

「変わりはないか?」

「ああ。『忍野』なんて珍しいからひょっとして、と思ってたんだけど、恵夢ちゃんと知り合って日が浅いからさ、もう少ししたら訊いてみようと思ってたんだ」

 そうだったんだ。それもあって遼くんは忍野に詳しかったのかもしれない。


「なんだよ、外資系とか、相変わらず格好いいな、お前」

「遼だって僕より成績良かったじゃないか」

「学校じゃ勉強しかすることなかったからだよ」

 ふたりは大声で笑った。こんなに自然な亨くんを見るのは初めてだった。

「なぁ、せっかく会ったんだからもう少しいろよ。食堂でお茶でもしよう」

「でもなぁ」

 時計は終バスの出る時間を示していた。

「ああ、下界に降りるにはバスが必要だもんな。また来るか?」

「勿論、また来るよ。めぐちゃんの顔を見るためにね」

「じゃあついででいいからその時寄っていけよ」

「わかった。じゃあ急ぐから」

 なんだか見送りはバタバタになってしまった。


 それもこれもみんな、この人のせいだ。


「忍野の従姉妹だったんだね」

「そうです」

「あんまり似てないかと思ってたけど、よく見ると切れ長の目が似てる」

「パッチリしてないから」

「おいおい、随分、喧嘩腰だなぁ」

 ため息をつく。

「他人のプライベートを乱して楽しいですか?」

「乱した? 俺が?」

 彼は本当に思い当たる節がないという顔をした。

 わたしとしては、残り僅かな時間の中で、あと何回亨くんに会えるのか、いつもハラハラしていた。

「ああ、ふたりきりの時間を邪魔して悪かった。そういうこと?」

「もう! 茶化すのはやめてください」


 その時、看護士の早坂さんが通りかかった。

「あら、いつの間に仲良くなったの? もうすぐ夕食よ」

「めぐちゃん、一緒に食べよう」

「わたし、部屋で食べることにしてて」

「早坂さん、まだ変更利く?」

「はいはい、言っておくからご自由に」

 まだ20代の早坂さんは、40代でボランティアの佐藤さんに比べると『仕事』という感じがなかなか抜けなかった。

 手をひらひら振って「ごゆっくり」と早坂さんは消えていった。


 ◇


 久しぶりの食堂での食事はなんだか居心地が悪かった。人混みは苦手だ。

 食堂ではメニューがある程度自由がきいたので、わたしは部屋ではあまり出ないスパゲッティを頼んだ。遼くんはハンバーグ。わたしのスパゲッティのトマトケチャップが、蛍光灯の明かりを反射した。

「食べないの? 冷めちゃうよ」

 いただきます、と言ってフォークを手にする。

 なんだか気乗りしない、と考えてみると、さっき大きなドーナツをふたつも食べたところだった。

「遼さんて、ドーナツすきですか?」

付けはやめようよ。敬語も。ここでは俺に敬語を使う人は滅多にいないよ。⋯⋯ドーナツだっけ?」

 こくん、と頷く。

「大すきだよ」

「じゃあ帰りに部屋に寄ってください。お裾分け」

「亨の持ってきた下界のだな。楽しみ」

 素直な人だ。喜怒哀楽が真っ直ぐ顔に出る。それは見ていて少し気持ちのいいものだった。


「恵夢ちゃんはドーナツすきなの?」

「いちばん、てわけじゃないけど、嫌いな人っているのかな? あんまり聞いたことないけど」

「なるほど、人並みにはすきなわけだ。じゃあお腹を少し空けておかないとね」

「すぐ食べなくてもいいんですよ?」

「お構いなく」

 その軽快なトークはわたしの心にいつの間にか壁を乗り越えてするりと滑り込んでいた。佐藤さんが「人気がある」と言った理由がわかる気がした。

 彼には人をワクワクさせる才能があった。

 わたしでさえ、次はなにを言うのかな、とワクワクした。

「そんなにこっちを見ても、なにも起きないよ」

「え? そんなつもりじゃないです!」

「みんな俺を見る時、そんな顔するんだよな」

 それにはガッカリだった。わたしはその他大勢の人と同じアクションしかしないのかと思うと、そのオリジナリティの無さにシュンとした。


「おいおい、そんなにシュンとするなよ。この後食べるドーナツが不味くなるだろう?」

「え? まさか」

「勿論、部屋でいただいていくよ」

 こんなことならお裾分けを言い出さなければよかった! 相手は拒絶しても簡単には降参しそうにないタイプだ。

「ねぇ、知り合って昨日の今日なのに」

「もっと前から知ってるような気がするんだ」

「亨くんが間に挟まってるからでしょう!」

 バレたか、と彼は悪びれず笑った。なんだか憎めない人。

 ここの居住者でこんな人は確かにこの人くらいだ。呆れるほど底抜けに明るい。

 その時だった。


「遼、話が違うじゃない」

 こっちのテーブルに向かって、茶髪のロングヘアの女の子がつかつか歩いてきた。見るからに怒っている。

清香さやかちゃん、落ち着いて」

「特定の女の子と仲良くしない約束じゃない」

「この子は親友の従姉妹だってことが今日わかって、それで」

「それで?」

「⋯⋯親睦を深めてたんだ」

 もう最低、と彼女はわたしを睨んだ。

「わかってるわよね?」

「はい?」

「遼を独り占めしたい女の子はたくさんいるんだよ。自分がそのひとりになれるなんて思わないことだね。心に留めておいて」

 それだけ言うと清香さんと呼ばれた女の子は行ってしまった。

「俺と君の間には亨がいるのに。だから亨が食事を一緒にしていけば誤解も生まれなかったんだよ」

 確かにそうだったかもしれない。

 でも清香さんの心配は杞憂だ。わたしは誰にも恋しないと決めているから――。


 その時が来たら思い出という名の重い荷物を持って、わたしは旅に出る。

 その時の荷物は少ない方がいいに決まってる、というのがわたしの信念だった。天国への荷物は軽い方がいい。

 思いは残さない。今、周りにいる人だけでわたしのカバンはパンパンだったから。

 と、前を見る。

 新しい顔だ。そうだ、油断したらいけない。この人とも一定の距離を置かないと。

「怖かった?」

「いいえ。――あの、ドーナツはやっぱり持って帰ってください」

 彼はわたしを真っ直ぐに見て、わたしの真意を測った。わたしは本気だった。

「わかった。知り合ったばかりの女の子の部屋に上がるなんて失礼だよね。亨の親戚だから新しくできた妹みたいな気がしちゃって」

「⋯⋯妹なんかじゃありませんよ」

 そう、どっちにとってもわたしは妹じゃない。

 心の鍵をしっかりかけること。これは非常に大事な事だ。

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