第2話 特別な人
池の水面には命を散らした落ち葉が、様々な色で浮かんでいた。水面を揺らすそよ風もなく、時折、どこかで水鳥が奇妙な鳴き声を上げてバサバサと飛んでいった。
「どう? 久しぶりの外の空気は」
「肺がピリピリする感じ。空気が新鮮すぎて」
「そうね。センターの中は空気まで清浄になっているけど、自然の空気の美しさには勝てないわねぇ」
遼くんたちの座っていたベンチに腰を下ろしたわたしたちはなにかを喋ることもなく、しばらく池を見ていた。自然はわたしになにかを語りかけるようで、それでいて沈黙を守っている。喋らなくても大いなる存在がそこにはあった。
「さて、行きましょう。いくら綺麗でもここにずっといたら冷えちゃうわ。風邪をひいたら大変、大変。わたし、怒られるだけじゃ済まないわ」
佐藤さんはわざと笑いのポイントを作ってそう言った。そういうところが、わたしが佐藤さんをすきな理由のひとつだった。
「足元に気をつけてね」
再度、注意を受けて、さっきふたりが登っていった小道をわたしたちも登る。気をつけているふりをしながら、あちこちを見る。熟して真っ赤なカラスウリの実。茎が萎れて枯れそうになっているヨウシュヤマゴボウの紫のブドウのような実、小さい頃に集めて遊んだ記憶が蘇る。
今のわたしには記憶でしかない。脳が死んだら消えてしまう思い出。
思い出は少ない方がいい。できるだけ。
でないとその時きっと、悲しみの量が増えるから。
◇
センター前に出ると、さっきの女性がタクシーに乗り込むところだった。
ここは小高い丘の上にあるので、バスの本数は極端に少ない。来客はタクシーを使うことが殆どだ。
タクシーは発車し、そこに残された遼くんはいつまでも見送って手を振っていた。なんだか痛々しい。
「遼くん!」
「佐藤さん、奇遇だね」
「見たわよ、綺麗な人だったじゃない?」
「ああ、
「お兄さん、なにやってる人?」
「公務員。お堅い仕事。俺には絶対向かない。兄弟なのに不思議だよなぁ」
わたしは思わずくすくす笑ってしまった。
とても笑える内容じゃなかったのに、将来のことをさも叶うかのように話す彼が新鮮だった。ここにはいない人種だ。
「紹介するわ。
「忍野? 富士山の方にある地名だよね」
「縁があるのか、実家は全然そっちとは関係ないのに『忍野』なんです」
「一度、行ったことがあるけど水が綺麗なところだよね」
「はい。わたしも一度しか行ってないんですけど、水が透明でとても冷たかったのを覚えています」
あの頃はまだ小学生で、まさかこんなことになるとは思ってみなかった。
みんなと一緒に大きくなって、わたしもいつか就職して、結婚するというモデルコースを歩くつもりでいた。
現実は残酷だ。
わたしの余命は3年。余命宣告されていても、
「恵夢ちゃんか。覚えた! これからよろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
相手の勢いに押されて、つい頭を下げてお辞儀をしてしまう。遼くんはそんなわたしを見てくすくす笑った。
「佐藤さん、じゃあね」
「あ、遼くん、走ったら⋯⋯行っちゃった。発作が起きたらどうするのよねぇ」
「発作ですか?」
「彼、度々起こしてて。ああやって無理するからだと思うんだけど、あんなに元気を持て余してるんですもの、止めるのも難しいのよね」
確かに彼からは命の輝きが感じられた。ここにいるたくさんの人たちの中でも、ひと際キラキラしている。その彼がそんなに身体が弱いなんて⋯⋯ここにいるんだから当たり前なんだけど、なんだかショックだった。
「遼くんは、家族の希望でここに入れられてきたの」
「え?」
「ここに来る前も何度か発作を起こしててね、ご家族も神経をすり減らしてたのよ。でもここならいつ倒れても安心じゃない? 24時間、医療スタッフもいることだし」
「⋯⋯そうかもしれないけど」
「外からはわからないけど、そういう事情のある子なの。仲良くしてあげて」
それには返事はしなかった。わたしは友達は作らない、そう決めてたから。
誰とも付き合わない。そうすることで自分を守れると信じていた。
ここで友達を作ると、わたしが先か、相手が先か失われる日が来る。それに耐えられる自信がなかった。
だから、遼くんともそれきりだと思っていた。
◇
トントントン。
軽快なノックが部屋のドアを叩く音がした。インターフォンで相手を確かめる。
「亨くん! 来るなんて言ってなかったじゃない!」
わたしは自室にいたので、楽な格好をしていた。着替えるからちょっと待って、と告げて慌てて着替える。
「もう! 連絡くらいしてくれたって」
「たまにはサプライズもいいかなと思ったんだよ。はい、これ」
亨くんの持っていた平たい箱には一面にドーナツが入っていた。
「ドーナツ!」
「すきだった?」
「うん、すごく。ここは自由なんだけど、なんでも手に入るわけじゃないからすごくうれしい」
「そんなに喜んでくれるならドーナツにして良かったよ」
「ネットでよく見るもん、ここのドーナツ。食べたいなぁってずっと思ってたの」
亨くんは自分の上着をハンガーにかけると、2人がけのダイニングチェアのひとつに腰を下ろした。
「元気だった?」
「相変わらずだよ」
「僕が来ない間に変わりはなかったってこと?」
「薬はよく効いてるし、痛みはないよ」
ならよかった、と彼は笑った。
亨くんは21。大学3年生のわたしの従兄弟のひとり。こうしてよく面会に来てくれる。確かにセンターに近い街に住んではいるんだけど、わたしとしてはうれしい。
そしていつも面会の度にわたしの喜びそうなものを買ってきてくれる。ケーキやドーナツやシュークリーム。
「ここで食べる?」
「うん! みんなに内緒でね」
「と言いつつ、佐藤さんたちに分けるでしょう?」
「⋯⋯お裾分けって言葉があるじゃない」
こんな小さな会話ひとつでも、わたしたちの間には笑いがある。それはわたしのなにもない毎日を彩ってくれるものだった。
「今日はなにをしてたの?」
「今日はね、下の池に散歩に出たの、佐藤さんと」
「散歩に? めぐが?」
「えへへ、珍しいでしょう」
「驚いたよ」
わたしは電気ケトルに水を入れてセットすると、マグカップをふたつ出した。そのマグカップは最近のお気に入りで外側は白くて、内側はそれぞれトマトの赤とパプリカの黄色。そこにアールグレイのティーパックをセットする。
彼の好みはシュガー3gが1本、ミルクなし。完璧。
それから、ドーナツを乗せるための白いプレートを2枚出した。
「そんなに気を遣わなくていいのに」
「ドーナツを美味しく食べるためだよ」とわたしは笑って誤魔化した。
いつからか、亨くんの前では完璧な自分を演じたいと思うようになった。亨くんは子供の頃から優秀で、今も外資系IT企業に内定が決まっている。
長身でスマート、小さな頭に端正な顔立ち。少しウェーブのかかった髪。
背が低くて痩せ型のわたしとは釣り合わない。似てるのは髪がストレートではないことくらいだ。
そのことで悲しくなったりはしないけど⋯⋯日常生活の中でこうしてたまにわたしを思い出して、会いに来てくれればそれでいい。それ以上は望みすぎだ。
カップの中の紅茶をかき混ぜながら彼を見ると、彼もわたしを見ていた。恥ずかしくなる。
「どうしたの? 黙っちゃって」
「どうしてわたしは亨くんみたいに優秀に生まれなかったのかなって」
今度は彼が黙る番だった。
「僕はめぐちゃんが思うほど優秀じゃないよ」と一言、ぼそっと呟いた。その言葉の真意はわからなかった。
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