第28話

 俺はこのまま帰るつもりだった。正直、今日一日でだいぶ疲れていたし、今すぐにでもベッドに倒れ込みたい気分だった。

 けれど、雄也に「まだ一緒にいたい」なんて言われたら、断れるわけがない。彼の小さな声での頼みは、それだけで強烈な力を持っていた。

 胸の奥からじんわりと広がる嬉しさ。思いがけない言葉に、疲れなんてどこかへ消えてしまう。顔に出さないようにしていたつもりだけど、無意識に口元が緩んでいたかもしれない。そんな自分に少し驚きながらも、雄也を支える手に力を込めた。

 夜風が二人の間をすり抜けていく。街灯の淡い光が、彼の横顔を照らしていた。その柔らかい表情を見るたびに、胸の奥に温かいものが満ちていく。こんなふうに頼られることが嬉しくて仕方なかった。

 雄也が俺を信頼してくれている。それが伝わるだけで、体の疲れも忘れさせてくれる。自分の存在が、彼にとって少しでも安心感になっているなら、どんなに疲れていても構わないと思えた。ほんのわずかな言葉が、こんなにも胸に響くなんて思ってもみなかった。

 ふと隣を見ると、雄也は眠たげな目をこすりながら、俺の袖を軽くつまんでいた。

 まるで「帰らないで」と言っているかのようで、なんとも愛らしい。その仕草が妙に胸に刺さる。俺がどう思っているかなんて、きっと雄也には分からないだろう。

 けれど、そんな無自覚な彼に振り回される自分も、悪くないと思ってしまう。



「良いの・・・・・・?」


「うん。寝よ」


 そう言うや否や、雄也は俺の腕をそっと掴み、意外と力強く引っ張った。気づけば、彼に導かれるまま部屋の中に足を踏み入れていた。玄関の扉が閉まる音が静かに響き、外の夜の喧騒が一瞬で遮断される。

 雄也は無言のまま、疲れた表情を見せながらも手早く服を脱ぎ、部屋着に着替え始めた。その仕草には何のためらいもなく、慣れた動作だった。俺は目のやり場に少し困りながらも、その光景をぼんやりと眺めてしまう。

 着替えを終えると、雄也はそのまま洗面所へと足を向けた。カラン、と水道の音が聞こえ、流れる水が微かに空気を揺らす。部屋の中に残された俺は、立ち尽くしたまま、彼の存在感を改めて感じていた。


「はい、これ。歯ブラシ、使って」


「あ、ありがと」


(いくら眠くても、歯磨きはきちんとするんだな)


 真面目な表情で歯磨きや洗顔を済ませていく雄也。その姿を横目に見ながら、俺はふと笑ってしまった。何も特別なことをしているわけじゃないのに、彼の一挙一動がどこか微笑ましく感じられる。こうして彼の家に来るのは初めてだ。

 部屋を見渡すと、本棚にはびっしりと本が並んでいた。ジャンルも様々で、整然と並べられた背表紙が、彼の几帳面さを物語っている。

 俺も本が好きだから、こういう空間には自然と心が落ち着く。図書館ともまた違う、個人的で温かみのある雰囲気だ。この部屋が雄也の居場所なのだと思うと、妙に心がざわついた。

 先に洗面所から戻った雄也は、ベッドに腰を下ろして俺をじっと見つめ、「待ってる」と一言だけ言った。俺はその言葉に少し戸惑いつつも、洗面所に向かい、自分も手早く歯磨きと洗顔を済ませた。

 ついでにスマホを取り出し、お母さんに「今日は友達の家に泊まる」という旨のメッセージを送っておいた。

 部屋に戻ると、雄也はふわりと笑顔を浮かべて俺を迎えた。その柔らかい表情に、なぜだか心がじんわりと温まる気がした。


「どうしたの? そんなにニコニコして」


「いや。陸人を部屋に誘ってみたかったの」


「え?」


「あ、そんな深く考えないでよ? 昔みたいに、俺の部屋でも寝たいし」


「なんだ。そういうことか」


「そうそう。あ、でも俺のベッド小さいから、陸人にはきついかな。あ、その前に」


 雄也は、何かを思い出したように手を叩いて、壁際のクローゼットを開けた。何かを取り出しているようだ。


「はいこれ」


「雄也の服?」


「着替え。俺のだけど、陸人も着られるよ」


「え?」


 よく見ると、サイズが俺でも着られるLLサイズだった。


「いや、実は陸人用に買ってあったの・・・・・・」


 なんで可愛いんだこいつは・・・・・・


「え、あ、ありがと・・・・・・」


「ほ、ほら! 早く着替えて!」


 そうは言うものの、雄也がずっとこちらを見ているから、着替えにくい。


「見てるの?」


「あ、恥ずかしい?」


「いや。あ、ちょっと恥ずいかも」


「あ、そう。じゃあ、あっち向いてるから着替えたら言って」


 雄也が背中を向けて、俺はその小さくて可愛らしい背中をじっと見つめた。昔から、何度も見てきた背中だけど、今は少しだけ違う気がする。

 頼りにしていた背中が、今はどこか柔らかくて、優しさが滲み出ているように感じる。

 そして、驚いたのは、雄也がしっかりと俺に合う服を用意してくれていたことだ。普段は服のことなんて気にしない俺に、まさかこんなことをしてくれるなんて。

 洋服が並んだクローゼットを見ると、俺でも着られるサイズの、少し大きめの服がいくつか整然と並べられていた。それだけで、少し嬉しさがこみ上げてきた。

 だけど、驚いたのは、雄也が選んだ服が俺の好みとは少し違うものだったことだ。可愛らしい系の服で、モコモコした上着と、短めのパンツ。

 どれも、俺が普段選ばないような、どこか柔らかくて愛らしいデザインばかりだった。着てみると、ふわりとした感触が心地よく、そして何よりも雄也の匂いが服に染みついていて、それがまた嬉しくて。


「終わったよ」


「うん。お、やっぱなんでも似合うな」


 雄也が軽く手で示すようにして、俺をベッドに寝転がらせた。言われるままに横になると、ふわっとした布団に包まれ、暖かさが心地よく広がった。雄也も隣に座り、静かな空気が部屋を満たす。


「あ、意外といけるか」


 雄也はベッドに横たわる俺を確認して、すぐにベッドに飛んできた。


「痛って。もう、ゆっくり入りなよ」


「ごめんごめん」


 雄也がニコニコと嬉しそうに俺の隣で寝転んでいる。

 その笑顔があまりにも可愛くて、何度この瞬間を迎えても、初めてのような新鮮な気持ちで胸が温かくなる。雄也はうつ伏せになり、スマホをいじりながら、時折、俺に視線を向けては微笑んでくれる。

 その小さな仕草が、なんだか心にしみる。何気ない一瞬が、どれも大切で、幸せな時間に感じられる。


「陸人」


「ん?」


 呼ばれて雄也の方を向くと、スマホのシャッターが降りる音がした。


「ちょ、なんで撮ってんの?」


「いいやん。陸人も俺のこと撮ってたし」


「そ、それはそうだけど・・・・・・」


「やっぱ、急に撮られてもかっけぇな陸人は」


「うるさい」


「だって本当だし。ほら」


 ついさっき撮られた写真を見て恥ずかしくなる。


「も、いいから。寝ないの?」


「もう寝るの?」


 ベッドに入ってからまだ五分も経っていないのに、すでに眠くなってきた。

 そして、静かな時間が流れる中で、ふとした瞬間に感じる温もりや、彼の存在がますます大切に思えてきた。

 もっと一緒にいられるといいな。

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