第29話

目が覚めた。外はまだ薄暗く、部屋の中には静寂が漂っていた。カーテンの隙間から僅かに漏れた朝の光が、柔らかい線を描きながら床を照らしている。完全に陽が昇ったわけではないが、地平線の向こうで確かに朝が訪れたのを感じさせる、穏やかな空気が流れていた。

 横を見ると、隣で雄也が静かに寝息を立てていた。規則的な呼吸音が耳に届き、その無防備な寝顔に目を奪われる。長いまつげが目元に影を落とし、柔らかな頬がほんのりと赤みを帯びている。彼の顔はいつも以上に幼く見え、その穏やかな表情が胸の奥をじんわりと温めた。

 気づけば、俺はそっと体を動かし、彼の顔へと顔を近づけていた。思わず、その愛らしい頬に唇を寄せる。唇はまだ奪えない。ふわりと触れた感触は驚くほど柔らかく、優しい温もりが唇に伝わってくる。それはまるで、触れる者の心を癒す力があるかのようだった。このままずっと触れていたい。 そんな衝動に駆られる。

 だが、軽く接吻しても、雄也は全く動く気配を見せない。寝息はそのままで、夢の中にいるのだろう。普段と変わらない穏やかさで、彼は無防備な姿をさらけ出していた。それが愛おしく、心の中に静かに広がる温かさを感じる。

 まだ朝とも言えない時間。空気はひんやりとしていて、部屋の中も静寂に包まれている。窓の外から微かに聞こえる鳥の声が、夜明けの静けさを際立たせていた。仕方ないな、と心の中で呟きながら、俺は再び横になることにした。

 そっと体をずらし、彼の腕を枕にする。柔らかい感触が心地よく、頭を預けると雄也の体温がじんわりと伝わってきた。その匂い、彼特有の優しい香りに包まれながら、自然と目を閉じる。彼の寝息に合わせるように、自分の呼吸もゆっくりと落ち着いていくのが分かる。

 この時間が永遠に続けばいいのに。そんな淡い願いを胸に、俺は再び夢の世界へと誘われていった。雄也の温もりと匂いに包まれながら、静かで穏やかな眠りの中へと沈んでいく。

 再び目を覚ました時、隣には雄也の姿がなかった。布団の端に残る微かな温もりだけが、彼がここにいた証を残している。少しぼんやりとした頭で部屋を見回すと、隣の部屋から微かな音が聞こえてきた。

 その音の正体が分からず、耳を澄ませてみる。ジリジリとした音が響いている。それは寝起きの頭には曖昧で、何かを焼いているようにも思える。ようやく意識がはっきりしてきて、これは料理をしている音なのだと気づく。

 俺は静かに起き上がり、そっと部屋を抜け出した。隣の部屋にあるキッチンからは、朝の穏やかな光が差し込んでいる。その中で、雄也が一生懸命料理をしていた。背中を少し丸めて、真剣な顔つきでフライパンを見つめている姿が妙に可愛らしくて、思わず微笑みがこぼれる。

 彼の真剣な仕草はどこか幼くもありながら、同時にどこか頼もしくもある。その様子をしばらく眺めていると、雄也がふと皿を取り出そうとしたタイミングで、こちらを振り返った。驚いたように少し目を見開き、次の瞬間、気まずそうに笑う。


「おはよう」と声をかける。

 

「うわ! びっくりした、起きてたの?」


 その表情がどこか恥ずかしそうで、朝の穏やかな空気の中、心が温かくなった。


「うん」


「いつからいた?」


「十分くらい前から」


「十分も?」


「うん」


「なんだよ、言えよ」


「だって可愛かったから隠れてみたかったもん」


「な、なんだそれ。顔洗った?」


「まだ」


「早く」


 雄也に促されるまま、洗面所に向かった。寝ぼけた頭のまま洗面台に立ち、水を手にすくう。冷たい感触が指先から顔全体に広がり、ぼんやりしていた意識が少しずつ冴えていく。


(やっぱ可愛かったな・・・・・・)


 さっきの雄也の驚いた姿とか料理をする姿を思い出しながら、無意識にそう考えていた。一生懸命に料理をしていた背中や、こちらを振り返ったときの表情が浮かんでくる。それがどうにも愛おしくて、自然と顔が緩むのを感じた。

 顔を拭いて身支度を整えると、リビングに戻るため洗面所を出た。すると、扉の前に雄也が静かに立っていた。目が合うと、ふわりと微笑んでみせた。その仕草がまた胸に響く。


「びっくりした!」


 部屋の中から漏れる朝の光が彼のシルエットを優しく照らしている。俺を待っていたのだろうか。


「びびった?」


「うん」


「仕返し」


 静かな空気の中、それ以上の言葉はなくても、その瞬間だけで何かが伝わるようだった。


「な、なんでだよ」


「いいやん、早くきて、冷めちゃう」


 机の上には、二人分の料理がきれいに並んでいた。いくつかの皿がテーブルを彩り、それぞれに丁寧に作られた料理が盛り付けられている。目玉焼きやサラダ、焼き魚など、朝食とは思えないほどの品数に驚いた。

 これだけの料理を、一人で作ったのかと思うと、雄也の頑張りが目に浮かぶ。普段の様子からは想像もつかないほど器用な一面を見せられて、胸の奥がじんわりと温かくなった。こんな朝を迎えるのは、なんだか特別な気分だった。


「これ全部雄也が作ったの?」


「そう。すごい?」


「すごい」


「でしょ、食べてみて」


 雄也に促されるまま、俺は目の前に置かれた味噌汁を一口すする。湯気とともに、優しい香りが鼻をくすぐる。その瞬間、口の中に広がったのは、しっかりと出汁の効いた深い味わいだった。

 

「めっちゃ美味い!」


 思わず言葉が漏れると、雄也は少し恥ずかしそうに微笑んだ。温かい味噌汁が、朝の少し冷えた体をじんわりと内側から温めていく。この味に込められた気持ちを思うと、胸の中までほっこりするようだった。


「だろ? 俺、料理は得意だから」


「へー、そうなんだ」


「なにその興味なさそうな返事」


「いや、なんか意外だなって思った」


「なんでだよ」


「いや。俺、毎日食べたいな」


 褒めたつもりで言った一言だったが、どうやら雄也はそれ以上に深く受け取ったのかもしれない。ふとした間の後、雄也が顔を赤らめながら、少し照れくさそうに口を開いた。


「じ、じゃあ、毎日来れば?」


 その表情がどこか可愛らしく、言葉を続ける彼の声は少し上ずっているようにも感じた。俺はその瞬間、何を言われるのか分からず、妙に胸がざわついた。

 こんな小さなことで、彼がどんなふうに解釈しているのか想像するだけで、微妙な緊張感が漂った。


「え?」


「食べたいんだろ? 毎日来れば?」


「それは、迷惑だろ?」


「め、迷惑じゃない・・・・・・来て欲しいから・・・・・・」


 聞き間違いかと思ったが、どうやらそうではないらしい。雄也の言葉が確かに耳に残っている。ふと彼に視線を向けると、案の定、照れくさそうに顔を伏せていた。その表情もなんとも言えず愛おしくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 普段はクールな一面を見せる彼が、こうして恥ずかしそうにしている姿は、まるで別人のよう。小さく揺れる肩や、赤くなった耳元に目が行ってしまう。それらすべてが、彼の無防備さを際立たせていて、たまらなく可愛い。

 この瞬間、雄也のこうした一面を見ることができた自分を少しだけ誇らしく感じた。言葉を返そうとするが、彼の可愛らしさに気圧されて、なぜか声にならない。


(本当にいいの?)


 ただ、その場で微笑むことしかできなかった。

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