第23話

 朝、目を覚ました時、頭の中はまだぼんやりとしたままだった。昨日の出来事が夢のように感じられ、少しの間その感覚に浸っていた。ふと横を見れば、雄也がまだ静かに眠っている。

 深い呼吸をして、まるで何も心配せずに安らかに眠っているその姿を見て、またしても少しだけ胸が締め付けられる思いがする。

 何度も目を閉じてはまた開け、夢か現実かを確かめるような感覚が続く。

 俺は眠っている雄也の顔を見つめながら、そっと体を起こし、できるだけ音を立てないように気をつけながら彼に近づく。

 どうしても触りたくて仕方がなかったのは、あの髪の毛だった。ふわふわとして、優しく太陽の光を反射して輝いているのがとても美しくて、手が自然に伸びていった。

 無意識に触れてみる。指先がその毛先をすり抜けて、心地よい感触が指に伝わる。

 もう一回。

 今度はしっかりと髪全体を撫でるように触れると、その柔らかさに改めて心が安らいだ。雄也の髪が光の中で艶やかに輝いているのを見て、胸の奥に何とも言えない温かい気持ちが広がる。

 ただ、ここで何をしているのか自分でもわからなくなるほど、彼の側にいることに心を奪われていった。顔を近づけたくても、これがただの幼馴染との関係でしかないことをわかっているから、そうしてしまうことができない。

 でも、どこかで今この瞬間に何かをしなければ後悔するかもしれないという気持ちが静かに心を支配していく。

 わずかな衝動が引き寄せたのか、俺はその決意を固めた。

 ゆっくりと雄也の綺麗な額に、ほんの一瞬だけ唇を当てる。それがどれだけ小さな行動でも、心臓は早鐘のように打ち始めた。

 雄也は動くことなく、ただそのまま眠り続けている。

 少しだけ胸を撫で下ろし、もう一度今度は長めに、そっと額にキスをする。

 それから手が自然に動いて、雄也の耳に触れる。昔から何度も触れていた耳たぶ。柔らかくて、温かくて、小さなその部分に指を滑らせると、懐かしい感覚が戻ってきた。

 心の中で、もうこの手が彼に触れることはないだろうと思っていたのに、今ここで触れているという事実が現実味を帯びてきて、胸の奥がギュッと締め付けられる。

 そんなことを繰り返しながら、ふと気づくと、雄也が微かに目を開けた。

 一瞬、時間が止まったような気がした。あまりにも静かな空間の中で、その小さな動きがまるで大きな変化のように感じられる。雄也が寝ぼけた様子で、少し驚いたように目を開けた。

 その瞬間、心臓が止まりそうなほどドキドキして、どうしていいかわからなかった。


「ん? なに?」


「あ、いや。おはよ」


「ん・・・・・・おはよ」


「よく眠れた?」


「うん。陸人のベッドフカフカで気持ちいい」


「そう、なら良かった」


 短い会話を終え、俺は先に立ち上がった。

 これ以上、雄也と一緒にいると、自分の理性が保てなくなりそうだからだ。心の中で必死に冷静さを取り戻し、少し離れないと・・・・・・


「先、下行ってる」


「え、じゃ俺も行く。待って」


 雄也もゆっくりと起き上がった。小さな体で、少し覚束ない足取りでドアに向かって歩いてくる。その姿が、どこか頼りなさげで、無防備に見えて、心がざわついた。

 だが、すぐに冷静さを取り戻すように自分に言い聞かせる。

 俺が廊下に足を踏み出そうとしたその時、突然、雄也が足を絡ませた。慌てて足元が崩れ、体が前に倒れかける。

 その瞬間、俺は反射的に雄也に手を伸ばし、素早くその体を支えた。


「あっ!」


 転びかけた雄也は、俺の体に抱きついてなんとか倒れることはなかった。けど・・・・・・


「だ、大丈夫・・・・・・?」


「う、うん。ごめん」


 俺と雄也は今、偶然ハグしているような形になっている。彼の体温が伝わり、肌の感触がはっきりと感じられる。

 心臓が鼓動を早め、全身の血液が一気に駆け巡るのがわかった。

 脳はその瞬間に覚醒し、冷静さを欠いた思考が浮かんでくる。こんなに近くにいるのは初めてで、意識が混乱してきた。雄也の息遣い、柔らかな体温、すべてが俺の感覚を刺激する。もちろん、俺の下半身も・・・・・・

 目を合わせないようにしても、どうしても彼を見たくなってしまう。


「ちょ、ちょっと。雄也・・・・・・」


「陸人、筋肉あるんだね」


「な、何言ってんだよ」


 俺は、ゆっくりと雄也の体から手を離し、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。胸の奥に、まだ残るさっきの鼓動がやけに大きく感じられる。

 ――今のは、やばいだろ・・・・・・

 心の中でそう呟きながら、慌ただしく階段を下りて洗面所へ向かった。家の中は、月曜の朝にもかかわらず静まり返っている。両親は早くから仕事へ出かけ、妹は高校の授業に向かったようだ。

 一方、俺と雄也の講義は昼から始まる。そのおかげで、こうして二人きりで過ごす時間がまだたっぷりと残されている。

 洗面所で顔を洗い、身支度を整えると、キッチンへ足を向けた。

 雄也は、苦いものが嫌い。だから、コーヒーよりも麦茶が好き。俺は、自然と雄也用に麦茶の準備を始める。やかんから注ぐ冷たい麦茶の音が、静けさを包む台所に響く。そんな中、洗面所から水を流す音が聞こえてきた。きっと雄也も顔を洗ったり、歯を磨いたりしているのだろう。

 少しして、雄也がキッチンへやってきた。その姿を視界にとらえながら、俺は冷蔵庫を開ける。母さんが作ってくれたらしい朝食が二つ、ラップに包まれてきちんと並んでいるのが目に入った。

 玉子焼きにウインナー、そして彩り豊かなサラダ。俺は、それを丁寧にテーブルへ運びながら炊飯器からご飯をよそい、朝の食卓を整える。雄也の視線がどこに向いているのか気になりながらも、なるべく自然に振る舞おうとする自分がいる。


「これ、陸人が作ったの?」


 洗顔してもまだ眠そうな雄也が、小さな声で訊いてきた。


「いや、お母さんが作ってくれてた」


「へー、そうなんだ。美味しそう」


「食べよ」


「うん」


 電子レンジで温めた朝食は、冷たくはないものの、出来立ての温かさとはどこか違う。ラップを外した瞬間に漂う香りも、どこか控えめだ。

 それでも、雄也と向かい合って食べるこの朝食は、他のどんな豪華な食事よりも心に染み渡る。玉子焼きを一口頬張りながら、雄也が何気なく口にする言葉や、ふと交わる視線さえが、この時間を特別なものに変えていく。

 温かさのわずかな違いさえ、今はどうでもよく思えてしまうくらい、俺にとっては贅沢な朝だ。


「ケチャップついてるよ」


「え、どこ?」


 俺は雄也の口元についたケチャップを取ってあげた。


「これ」


「あ、ほんまや」


 時折こぼれる雄也の関西弁が、妙に俺の胸を揺さぶる。昔は俺も同じように雄也と関西弁で話していたはずなのに、今となっては彼の言葉がどこか新鮮で、懐かしさと愛おしさを同時に呼び起こす。

 それにしても、雄也の関西弁はずるい。耳に心地よく響くその柔らかさに、不意打ちのように心を掴まれる。

 そんなふうに言われるたび、まるで指摘さえも優しく包まれる気がして、思わず照れ隠しにケチャップを指先で舐めた。


「え、舐めたん?」


「うん。嫌?」


「嫌じゃないけど、陸人は嫌じゃないの?」


「嫌じゃない」


 俺は、はっきりとした口調で言う。雄也は、それを聞いて微笑んだ。


「そっか。嬉しい」


 嬉しい? その言葉が雄也から返ってくるとは思わなかった。けれど、そんな感想を口にしてくれた彼に、俺も不思議と同じように嬉しさを感じる。

 自然と表情が柔らかくなるのを隠せないまま、朝食を終えると二人で隣のリビングへ移動した。

 今日の講義は経済学と労働法。どちらも一年生には少しハードルが高い分野だ。特に労働法なんて、覚えるべき法律や条文の多さに圧倒される。

 俺たちはテーブルに並んで座り、教科書を開いて予習を始めた。講義前に予習しておけと、教授にしっかり釘を刺されているのだ。雄也の真剣な横顔を盗み見ながら、俺も気を引き締める。


「三六協定? 訳わかんないな」


 雄也が半ば閉じた目をこすりながら呟いた。


「時間外労働の話らしいよ。俺らのバイトにも関係しそう」


「へー、そうなんだ」


 さして興味を引いた様子もなく返事をする雄也に、俺は思わず口角を上げた。相変わらず素っ気ない態度だけど、それも彼らしい。

 静かなリビングに漂う空気はどこか落ち着いていて、生活音はまるで聞こえてこない。耳に届くのは、遠くから聞こえる鳥や蝉の鳴き声、そしてたまに道路を走る車の音。それらと同じくらいはっきりと感じ取れるのが、隣にいる雄也の穏やかな息遣いだった。

 けれど、この空間があまりに静かすぎるせいで、なぜか俺の心は妙にそわそわしてしまう。予習なんて集中できるはずもない。仕方なく、空気を少し変えようとスピーカーに手を伸ばした。

 普段ならクラシック音楽を流すところだが、雄也があまり聴かなさそうなことは分かっている。だから、リビングにある洋楽のCDが並んだ棚から適当に一枚を手に取った。選んだのはワン・ダイレクションのアルバム。

 ランダム再生に設定すると、最初に流れたのは「Night Changes」だった。

 穏やかなメロディが静かに部屋に広がり、その音色が俺のざわつく心を少しだけ落ち着けてくれるような気がした。隣の雄也は、音楽に耳を傾ける様子もなく、相変わらず教科書を見つめている。

 けれど、この静かな曲調が、どこかこの場にぴったりのような気がした。


「あ、俺これ知ってるよ。1Dでしょ?」


「知ってるんだ」


「うん。たまにカラオケで歌うよ」


「え? カラオケ? よく行くの?」


「うん。友達と」


 雄也が友達とカラオケに行っているらしい。それ自体は何の不思議もない、普通のことだ。

 けれど、俺の胸には小さな棘が刺さったような嫉妬心が湧く。俺はまだ、雄也とカラオケに行ったことがないのだから。


「誰と?」


 堪らず口にしてしまう。いつもなら気にしないような些細なことなのに、雄也のこととなると抑えきれない。

 この胸のざわつきは何なのか、自分でも答えが出せないまま、ただ彼の言葉を待ってしまう。


「高校の時だけど」


 なんだ、高校時代の友達か。そう聞いて少し安心したけれど、それでも羨ましい気持ちは消えない。

 俺だって、雄也と一緒にカラオケに行きたい。

 そんな思いが、胸の中で静かに膨らんでいく。


「そっか。俺も行きたい」


「俺と? 行こうよ」


「本当? やった!」


「なんでそんなに喜んでるん」


 雄也が、少しだけ引き攣ったような笑顔を見せた。その表情に気づき、俺は少し恥ずかしくなった。

 確かに、ただ一緒にカラオケに行けるというだけで、ここまで喜ぶ人なんて普通いないだろう。

 でも、それが雄也となれば話は別だ。

 俺は、雄也が好きだ。その気持ちが胸の奥から溢れてしまって、抑えきれない。

 だからこそ、彼と何かを共有できると思っただけで、自然と顔が綻び、反射的に喜びを表してしまうのだ。こんな自分を、少し滑稽だとも思うけど。


「え、なんでだろうな」


「なんだよそれ」


 まだ、いつカラオケに行くかも決まっていない。でも、俺はそれだけで嬉しかった。雄也と一緒に行けるかもしれないという、その事実だけで、何だか胸が高鳴る。だが、ふと気づいた。雄也はどんな歌を歌うのだろうか?

 そんなことすら、俺は知らなかった。

 普段、雄也がどんな音楽を聴いているのかも、どれだけ深く知っているわけでもないから、急にそんなことが気になりだす。

 雄也の高校の友達に対して、何とも言えない嫉妬の気持ちが湧いてきた。彼らは雄也と一緒にどんなことをしてたんだ? どれくらい雄也のことを知っているんだ? 俺が知らない雄也の顔を、彼らはどれだけ見ているのか。

 それを想像するだけで、胸の奥がざわつく。

 こんな気持ちが生まれるのは、きっと無駄だと分かっている。俺が雄也と過ごした時間も、他の誰かに負けないくらい濃いって信じているし、雄也もきっとそんなことを気にするような人間じゃない。

 でも、それでも、この嫉妬心は止まらない。

 理性では分かっていても、心はどうしても冷静にはいられなかった。俺は、雄也ともっと多くの時間を共有したいと思うから、どうしても他の誰かと比べてしまう。そんな自分に、少しうんざりしながらも、どうしても気持ちは抑えきれないのだった。


「あ、そろそろ行く?」


 時計を見ると、十一時を過ぎた頃だった。家を出たあと、雄也の家に寄って、雄也の荷物を取ってこなければならない。その時間も加味して、もうすぐ出た方がいい。


「うん。そうだな。そろそろ行こう」


 急いで自分の部屋に戻り、服を着替える。外はまだ暑いから、半袖シャツをスラックスに入れて、シンプルなオールブラックにまとめた。軽く身支度を整えて、鏡の前で最後に一度自分を見直す。


「やっぱ何でも似合うな」


 こっそり、雄也が扉から覗いていた。

 雄也に言われると、本気でなくても嬉しくなる。


「ありがと。早く行こ」


 雄也の荷物をまとめ、俺は家を出る。手に取った鞄を、雄也の自転車のカゴにそっと入れる。昼前だというのに、すでに気温は三十度近くまで上がっている。外に一歩踏み出すと、あまりの暑さに思わず顔をしかめる。

 周りは、蝉の鳴き声で満ちていた。しきりに鳴き続けるその音は、まるで耳を責めるかのように響く。無意識に耳を塞ぎたくなるけれど、どうしてもその音が逃れられない。まるで、猛暑の中で必死に息をしているかのように、蝉たちは絶え間なく鳴き続ける。

 その音に混じって、風も少しだけ強くなったような気がする。熱気を少しでも和らげるかのように、風が頬を撫でるが、すぐにその温度に慣れてしまう。


「暑いね」


「うん」


 暑さのせいで、雄也とはほとんど会話がない。

 でも、変に気まずさは感じない。黙々と歩きながら、ただ時間が過ぎていく。雄也の家まで歩いて三十分ほど。

 ようやく家に着くと、雄也が急いで準備したのだろう、すぐに玄関から出てきた。顔には少し汗をかいている。


「鍵閉めた?」


「うん。大丈夫! 行こ!」


 二人で並んで駅に向かって歩く。こうして二人で登校するのは初めてだ。この時間がいつまでも続けばいいのにと思う。

 途中、雄也が自動販売機の前で立ち止まり、水を買った。

 久しぶりの水を飲むように、一気に半分ほどを飲み干す。

 その姿を見ていると、何だか嬉しくて、同時に喉の渇きが急に感じられた。


「飲む?」


 飲むところを見ていたのを気付かれたのか、それとも気を遣ってくれたのかはわからないが、その水を差し出してくれた。


「飲む」


 俺は、それ受け取って一口飲んだ。そして、雄也と間接キスをした。


「喉乾いてたんでしょ?」


 雄也が意地悪そうな顔をして、こちらを見ている。その表情に少し心が揺れたけど、どうしても気になるのは、彼が飲んだ水のことだった。

 確かに喉は乾いていたけれど、雄也の水だからこそ、飲みたかった・・・・・・

 それからしばらく歩いて、ようやく駅に到着した。駅

 はいつも混雑していて、三つの路線が交差する場所だから、いつも人が多い。朝のラッシュの中を歩くのは少し疲れるけれど、今日はそれでも気分が違う。

 だって、雄也がいるから。

 雄也と一緒にいるだけで、周りの喧騒や疲れも一瞬で消えて、何もかもが輝いて見える。

 大学に着くと、一気に冷たい空気が体を包む。外の暑さと打って変わって、室内の涼しさが身体に沁みる。それでも、あまりの温度差に体が少しやられそうな気がした。外の熱気と冷気のギャップに、一瞬だけ足が止まるけれど、すぐに雄也の姿を追って、また歩き出す。その時・・・・・・


「あ、おはよう!」


 誰かから声を掛けられた。雄也が。

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