第22話
「え、俺が好きなやつばっかだ!」
驚きと喜びを交えた声がダイニングに響く。彼の大きな瞳がさらに輝きを増し、無邪気な笑顔を浮かべる姿に目を奪われた。雄也のその明るさは、どんな光よりも眩しい。
お母さんは穏やかに微笑みながら言葉を返した。
「雄也くんが来てるなんて思わなかったから、急いで材料を買いに行ったのよ」
そのひと言に、雄也は目を丸くし、感謝の気持ちを全身で表現しているようだった。
「そうなんだ! ありがとうございます!」
俺はその声を聞きながら、少し遅れてダイニングへ足を運ぶ。そこには、満面の笑みを浮かべた雄也がいた。料理を前にして興奮気味だが、まだ手をつけていないのは、何かを待っている証だ。
食卓には雄也の好きな料理がずらりと並んでいた。湯気を立てるお皿たちが、彼の存在を歓迎するかのように煌めいている。
お母さんが、彼のために動いてくれたその心遣いが、静かに部屋を温めていた。
「あ、来たな。早く食べよ!」
彼の明るい声に、俺は頷きながら席につく。
「待ってたの?」
「うん。一緒に食べるって言っただろ?」
そしてその純粋な返答に、俺は視線をテーブルへと落とした。雄也は、約束を当たり前のように守り、その当たり前を全身で示してくれる。そんな彼の健気さが、俺の心を静かに揺さぶる。
それに比べて、俺はどうだ? たったいま、彼の明るさに浸っていたかと思えば、同じ彼を頭の中で欲望の対象にしている。彼の笑顔を見ていると、愛しさと同時に沸き上がる衝動に、自分自身が嫌になる。
この「好き」という感情は、一体どこまでが純粋なのだろうか。俺だけの一方的な思いなのか。それとも、彼も同じように心を寄せてくれているのだろうか。そんな不安が胸を支配するたびに、胸の奥が悲しみに染まる。しかし、ここで立ち止まってはいけないと、自分に言い聞かせる。
彼が振り向いてくれると信じて、自分の気持ちを伝える準備を進めるしかないのだ。雄也の笑顔を、もっと間近で、永遠に見ていたいという願いを胸に秘めて、俺は深く息を吸い込んだ。
「いただきまーす!」
雄也が手を合わせると、まるで待ちわびていたと言わんばかりの元気な声を上げた。彼の目はすでにテーブルの上のカレーに釘付けだ。雄也が好きなのは、俺たち家の特製カレー。隠し味に加えられたリンゴと蜂蜜が、辛さを抑えつつも豊かな甘みを引き出している。それが辛いものが苦手な雄也にはたまらないらしい。
スプーンを口に運ぶたび、彼の頬がふっくらと柔らかく膨らんだ。まるでケーキを食べていた時と同じような、あの愛らしいプニプニのほっぺが目の前に広がっている。
俺の中で思わず「天使だな」と呟きたくなる感情が湧き上がる。
食事を終え、部屋に戻ると、雄也は急に眠気を感じたのか、うとうとし始めた。柔らかな呼吸が聞こえ、俺は彼をそっと見守る。
「眠いの?」
「うん」
小さく呟く。少し掠れたように、喉も瞼と同じように閉じようとしている。
「風呂入る?」
「うん」
「先入る?」
「うん」
単調な会話しか交わせないほど眠たそうな雄也が、隣でベッドに腰を下ろしている。その可愛くて綺麗な横顔をぼんやりと眺めているうちに、もう目を逸らすことができなくなった。引き寄せられるように、そっと雄也に近づく。
ふわりと甘い香りが鼻先をかすめた。それは雄也の匂い。
昔から変わらない、この独特の優しい香りが俺は好きだった。いや、大好きだと言うべきか。今も、それは何ひとつ変わっていない。
お風呂に入らないといけないのはわかっている。それでも、このまま彼と一緒にこの時間を止めてしまいたいという衝動が抑えられない。
そっと手を伸ばし、雄也の髪に触れる。その薄い茶色の和毛は、まるで絹糸のようにサラサラしていて、手の中を軽やかにすり抜ける感覚が心地よい。まるで無邪気な子犬を撫でているようだ。
髪の感触を楽しんでいると、雄也がふいにゆっくりとこちらを向いた。その眠たげな瞳が俺を捉え、時間が止まるような錯覚に陥る。心臓が高鳴る音だけが耳に残った。
「ん? 何?」
「あ、いや。可愛かったから・・・・・・」
「なんだよそれ。俺、お風呂行っていい?」
「うん。場所、わかる?」
「わかんない」
「じゃあ、一緒に行くよ」
「ありがと」
着替えとタオルをカバンから取り出す雄也。その仕草を見届けながら、俺は階段へ向かう。すると、雄也が自然と俺の後をついてくる。
一軒家のこの家は、浴室が一階、俺の部屋は二階にある。
階段を降りる足音が控えめに響く中、ふと後ろを振り返れば、無邪気にこちらを見つめる雄也の姿があった。その表情に思わず胸が温かくなる。可愛い。
浴室へ向かう途中、母の声が急に耳に飛び込んできた。
「一緒に入るの?」
「違う。案内してるだけ」
「そう」
雄也を浴室へ案内し、俺は自分の部屋に戻った。ふと扉を閉めた瞬間、胸にぽっかりと空いたような寂しさを感じる。自分の家に雄也がいるというのに、少し距離が離れただけでこんな気持ちになるなんて。
ベッドに腰を下ろし、ため息をひとつついてからスマホを取り出す。画面を開くと、そこには雄也に隠れて撮った写真がいくつも並んでいた。
どれもこれも、ニコニコと笑顔を浮かべている雄也ばかり。
見れば見るほど、その無邪気な表情に心が溶かされる。すべてが可愛くて、思わず指が画面を滑り、写真を一枚ずつじっくり眺めてしまう。
「俺がこんなことをしてると知ったら、雄也はどう思うんだろう」
そう心の中で呟いてみる。写真を勝手に撮ること自体、きっと彼には隠しておくべきだろうな。
でも、この瞬間を切り取った宝物たちを手放せない。ずっとこのまま雄也を見つめていたい――そう思う気持ちが止まらない。
画面に映るのは、一緒にレストランに行ったときの写真。美味しそうにオムライスを頬張る姿だ。スプーンを持った手の動きが軽やかで、その目には幸福感が溢れている。食べ物を見るたび目を輝かせる雄也らしい一枚だ。
何度も見ているのに、癒される感覚が薄れることはない。この一瞬に収められた笑顔が、どれほど俺を救ってくれるだろう。
そんなふうに写真を眺めていると、扉がふいに開いた音がした。驚いて顔を上げると、そこには浴室から戻ってきた雄也が立っていた。
「あ・・・・・・」
思わず声にならない声を漏らしながら、慌ててスマホをポケットにしまう。雄也の目を避けるようにして、手近にあったクッションを掴むフリをする。
「座りな」
そう言いながら、手で近くの場所を軽く叩いて雄也を促した。雄也は何も疑わず、素直に俺の指示に従ってその場所に腰を下ろす。その無防備さに胸が少しだけ痛むが、それ以上に隣にいるという安心感が勝った。
「おかえり」
「うん! 陸人の家のお風呂めっちゃ広いね」
「そう? 毎日来ていいよ」
「それは家族の人に迷惑だろ」
雄也が俺の隣に腰を下ろす。さっき浴室で使ったシャンプーのせいだろうか、同じ柑橘系の香りがほのかに漂ってきた。けれど、雄也から感じる匂いはそれ以上に特別だ。
優しくて心地よく、誰よりもいい香りがする。それは昔から変わらない、俺にとっての安心の香りだった。
「なに?」
「いや、いい匂いだなって」
「いつも使ってるんだろ? 陸人も早く行けよ」
照れくさそうに見つめて、俺を肘で小突いてきた。
「行くよ。待ってて」
「うん。早くしろよ」
短いやり取りを終え、浴室へと足を運ぶ。もうすぐ、雄也と寝られる?
その瞬間をどれだけ待ち望んでいたのだろう。温かな湯に包まれながら、ふと考える。
いつか雄也と温泉旅行に行けたら、どんなに幸せだろう。
彼の無邪気な笑顔が浮かぶだけで、全身の緊張が解けていくようだった。
湯気の中で今日の出来事を思い返しながら、丁寧に身体を洗い流す。温かな水が肌を撫でるたび、一日の疲れが消えていき、心まで穏やかになっていく。このひとときの静けさが、どれほど贅沢なものか実感する。
お風呂から上がり、髪を軽く整えた後、タオルを肩に掛けたまま自分の部屋へ向かう。雄也は今、何をしているのだろうか。きっと、あの無邪気な顔で何かに夢中になっているに違いない。
扉をそっと開けると、雄也が驚いたようにこちらを振り返った。その瞳に映る自分の姿が、少しでも雄也にとって特別であればいい。そんな淡い期待が胸の奥で微かに弾んだ。
「どした?」
「いや、急に扉開けるから、ビビった」
「本読んでたの?」
「うん。暇だったし」
どうやら読書に夢中になっていたらしい。邪魔してしまったようだ。
「ごめんごめん、邪魔しちゃって」
「いや、大丈夫。ちょうど一章終わったとこ。もう寝る?」
「いや、まだ寝ない。ちょっと横になるだけ」
「そっか、じゃあ俺も」
そう言って、ベッドに横たわる俺の隣に、雄也も迷いなく入ってきた。その無邪気な行動に、心臓が跳ね上がる。
本当に純粋で無垢な姿に、どうしようもなく惹かれてしまう自分がいる。
雄也は横になったまま、じっと俺の顔を見つめている。その視線が熱を帯びているように感じて、恥ずかしくて視線を交わせない。けれど、その瞳が自分だけを見ている事実には、心が静かに高鳴ている。
「なに? なんかついてる?」
何か言わなければ、この沈黙が耐えられない。じっと見つめられるだけで、こんなにも胸がざわつくのは雄也だからだろうか。その純粋な瞳に、言葉が出てこない自分が悔しい。
「なんも。やっぱ陸人ってすげぇイケメンだな」
「何言ってんだよ。雄也も可愛いしかっこいいだろ」
「俺は別に。陸人は背も高いしモデルみたい」
「うるさい。雄也だって・・・・・・」
「俺だって何?」
「いや、なにもそろそろ寝る」
「そう。じゃおやすみ。俺も寝る」
「ここで?」
「ダメ?」
上目遣いで、ダメ? なんて訊かれると面映くて、下手すれば萌えて死んでしまう。
でも、俺が雄也のことを好きだなんてバレたら嫌われるかもしれないと思うと、怖い。
「別にいいけど・・・・・・」
「じゃあ、ここで寝る。おやすみ」
雄也は、両手を枕代わりにして、うつ伏せのままで静かに眠りについた。その姿はやはり無防備で、小さな子どものようだ。
俺は、こんな状況で眠れるわけがないと思っていた。
しかし、今日の出来事が次々と頭の中を巡り、心が少しずつ落ち着いていった。最初はこの距離感に緊張していたけれど、今はただその温もりが心地よく感じられた。
もっとこの瞬間を楽しみたかったけど、気づけば瞼が重くなり、眠気に抗えず、いつの間にか意識を手放していた。
朝になっても、この感覚が夢のように感じられないことを願いながら、最後に一度だけ、静かに息を吐いた。
そして、翌朝。
明くれば、金色に輝く朝焼けが俺たちを照らしていた。
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