第21話

 部屋の扉が静かに開いた。

 振り向くと、そこには雄也とお母さんの姿。二人の気配が、さっきまでの孤独な空気を一瞬で塗り替えた。


「大丈夫? 無理したんでしょ?」


「無理はしてない。もう大丈夫だから」


「暑いのに、あそこのケーキ屋さんまで走ったんでしょ?」


「え? ケーキ屋さん遠いの?」


 雄也が、俺のお母さんに訊いた。


「自転車で、三十分くらいかな」


「え! そんなとこまで行ってたの?」


(だって、雄也と食べたかったんだもん)


 心の奥底から湧き上がる独り言を、胸の中にそっと畳み込む。お母さんの前でそれを口にしたら、きっと軽く笑われてしまうだろう。

 雄也の前なら、まだ気持ちの逃げ場もあるが、お母さんにはそんな隙を与えたくない。だからこそ、本心は心の中に閉じ込めて、平然を装ったまま、静かに視線を下げた。


「食べたくなったから」


「そう。無理しないでよ。家帰ったら、雄也くんが慌てて泣いてるんだから、何があったのかって私も怖くなったのよ」


「え、そうなんだ。ごめん」


「ちょ、泣いてたとか言わないでよ!」


「ごめんごめん、じゃあゆっくり休むのよ」


 お母さんが部屋を出ていき、再び二人きりになった。途端に静まり返る空間に、少しだけ鼓動が早くなるのを感じる。

 恥ずかしさのせいで、まだ雄也の顔をまともに見られない。さっきからずっと視線は床に落ちたままだ。

 それでも、ちゃんとお礼と謝罪は伝えなければいけない。彼がどれだけ心配してくれたかを思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。それを言葉にするために、勇気を少しずつかき集めた。


「雄也・・・・・・迷惑かけてごめんな。ありがとう」


「な、何言ってんだよ。当たり前だろ」


 雄也の様子をそっと窺うと、どこか満更でもなさそうな表情を浮かべている。その穏やかな顔に、ふと胸がチクリと痛んだ。そして、目の周りが少し赤くなっていた。泣いていたのかどうか、どうしても気になってしまう。

 本当のところは知りたくてたまらないのか、それとも少し意地悪な気持ちが混じっているのか、自分でもよくわからなかった。それでも、このまま黙っていられず、意を決して問いかけることにした。

 その声が、ほんの少し震えていたことに、彼が気づいたかどうかはわからない。


「泣いてたの?」


「え、あ、いや、な、泣いてねぇーし。ちょっと焦っただけだし」


「フフッ」


「な、何笑ってんだよ!」


「ごめんごめん。雄也が可愛すぎて」


「か、可愛くねぇし!」


「ここ、座りなよ」


 俺は寝ているベッドの空いたスペースを軽くトントンと叩き、雄也にそこへ座るよう促した。すると、すぐ近くに雄也の背中があるのを感じる。

 ふと、その背中に触れたい衝動が湧き上がるのを止められなかった。躊躇いながらも右手を伸ばし、そっと彼の背中に触れる。指先でその温もりを確かめながら、優しく撫でるように摩った。その柔らかい感触に、心が少しずつ静まっていくのを感じた。


「なに?」


「いや、なんでも。ありがとうって意味を込めて」


「なんだよそれ」


 雄也はそう言うと、自然な動作で後ろに倒れ込むように横になった。その背中が俺のお腹の上にぴったりと重なり、瞬間、頭の中が真っ白になる。

 脳は必死にこの状況を解析しようとするが、身体は本能的に反応してしまう。抑えきれない高鳴りが下半身に現れ、焦りが胸を締めつけた。

 気づかれてはいけない。そう思った俺は、そっと雄也を起こし、自然なふりをして自分も体を起こす。布団を引き寄せ、目立たないように隠して、ただ静かに収まるのを待つ。その間も背中越しに残る彼の温もりが、何度も頭の中でリフレインしていた。


「どした?」


「いや、なんでもないよ。あ、そうだ。ご飯食べた?」


「まだー。陸人と食べようと思って」


 雄也が微笑みながらこちらを向いて言う。下半身が再び、鼓動を打ちはじめた。少し触って確認してみる。もう分かっているが、触って確認したかった。岩のように硬くなってしまっている。収まるまでしばらくかかるだろう。

 しかし、手はそれを上下に動かそうとしている。こんなところでは、ダメだと分かっているのに。

 必死に他のことを考える。

 しかし、雄也が隣にいてはダメだ。


「な、陸人の母さんがご飯作ってくれてるらしいからそろそろ行こ」


「あ、うん。ちょっと先行ってて」


「うん。分かった。早く来いよ」


 先に雄也が出ていった。一人になった俺。どうする。このまま行くか。それとも・・・・・・


 自らを律して、俺は雄也の後を追った。

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