第19話
心臓が高鳴る音が耳にまで響いてくる。抑えきれない喜びが、胸の奥で膨らんでいた。雄也から「泊まっていいか」と訊かれたのだ。あの頃のように。
浮き立つ気持ちを冷ますように、エアコンの温度を少し下げる。けれど、それでもこの熱が消えることはなかった。
むしろ雄也のために、と体が自然と動き出していた。自分の部屋を片付け始める。散らばったものを整え、要らないものは思い切って捨てる。
もともと物が多いほうではないが、それでも完璧を目指して整理整頓する。彼が心地よく過ごせる空間を作りたくて、掃除機を丁寧にかけた。
それにしても、まさか雄也から「泊まる」と言い出すとは思わなかった。
こちらから誘おうと何度も文字を入力しては消していた。怖かったのだ。断られるかもしれないという不安が、指先を鈍らせていた。
でも、こうして彼からその言葉が聞けたことが嬉しくてたまらなかった。
部屋の中はすっかり整い、心も準備万端。あとは彼が来るのを待つばかりだ。ふと窓の外に目をやると、夕暮れに近い空がやさしい薄橙色に染まっている。穏やかなその景色が、少しだけ気持ちを落ち着けてくれた。
しばらくして、玄関からインターホンの音が響く。ついに、彼が来たのだ。その音に胸がまた高鳴り始めた。
まだ雄也が来るまでには時間がある。
(ん? 誰だよ。こんな時に)
インターホンの画面を覗くと、雄也がそこに立っていた。まだ日が落ちきらない薄明かりの中、彼の姿が静かに浮かび上がる。思わず胸が高鳴る。もう来たんだ、と心の中で呟きながら、玄関へと急いだ。
扉を開けると、外の風がふっと室内に入り込む。その風に煽られ、彼の髪が無造作に揺れる。ふわりと広がった髪はまるで子犬のようで、野性味すら感じさせるけれど、その表情はどこまでも穏やかだった。
少しだけ息を切らした雄也が、軽く肩を上下させながら立っている。大きな瞳が真っ直ぐに俺を捉え、優しく微笑むような光を宿していた。
「あ、来たね」
言葉を発しながら、自然と笑みがこぼれる。言葉は少ないのに、その一瞬で全てを伝えられる気がした。彼もまた、微かに頷き、少し恥ずかしそうに視線を下げる。その何気ない仕草が、妙に愛おしい。
穏やかな風が二人の間を通り抜け、夏の匂いを運んでいった。
「早かったでしょ?」
息を切らしながら、柔らかく微笑む雄也の姿に、胸がぎゅっと締めつけられる。今すぐ抱きしめたい衝動に駆られたけれど、必死に理性を保ち、衝動を飲み込む。
心の中で抑えきれない想いが渦巻いているのに、表情はできるだけ穏やかに装った。静かに扉を開き、彼を迎え入れる。
「早いね。急いできたの?」
「いや、驚かせようと思った」
「なにそれ? ゆっくりでいいのに」
「えー、だって早く会いたかったし」
また胸の奥が鋭く痛んだ。それは苦しさではなく、込み上げる嬉しさや、雄也の何気ない仕草に惹かれる気持ちだった。女子が「胸キュンする」と言う感覚は、きっとこんな風なのだろうと思う。雄也を見ていると、そんな感情が自然と湧き上がる。
「早く会いたかった?」心の中で問いかける。俺も同じだよ、と答えを返しながら、視線は雄也に釘付けだ。
淹れてあげた麦茶を、美味しそうに飲む彼の姿。
そんな些細な瞬間さえ、愛おしい。
「あー、この味懐かしい」
「味なんて変わんないでしょ?」
「いや、この麦茶の味は、陸人のお母さんが作った味がする」
雄也が真剣な顔でそう言うのを聞いて、思わず笑ってしまった。なんでこんなに可愛いんだ、こいつは。
昔から、雄也はうちの麦茶をよく飲んでいたし、俺も雄也の家の麦茶を飲むことが多かった。お互いに、まるで交換するように。麦茶の味なんて、どれも大差ないはずなのに、不思議とそれぞれ違う気がした。
懐かしい記憶がふと蘇る。
あの夏の日差しの下で飲んだ麦茶の冷たさや、彼の部屋で過ごした夕暮れの穏やかな空気。
雄也が言う「違い」は、そんな時間や記憶の重なりなのかもしれない。
彼は何か特別なものを感じているのだろうか。そう思うと、妙に胸があたたかくなる。
「ケーキ食べる?」
「え! 食べる! 食べたい!」
ああ、この無邪気さが俺の弱点だ。雄也のそんな表情を見るたびに、胸の奥が甘く締めつけられる。この感情をどう処理すればいいのか、まだ答えは見つかっていない。
それでも理性をなんとか働かせ、冷静を装って冷蔵庫を開けた。中には、雄也が来る前に急いで買ってきたケーキが静かに並んでいる。雄也が一番好きなショートケーキとザッハトルテ。それに加えて、自分用の抹茶のケーキとチョコレートケーキも。
店員に「彼女さんと食べるんですか?」と聞かれた時、咄嗟に「そうです」と答えてしまったのを思い出して、少しだけ顔が熱くなる。本当のところ、雄也は彼女ではなく、でも彼女以上に特別な存在、そして、雄也と付き合いたいと心のどこかで思っている。それを言葉にする勇気はないけれど。
冷蔵庫の中をそっと確認すると、幸いケーキは崩れていなかった。ホッと胸を撫で下ろしながら、お皿に一つ一つ丁寧に移していく。甘い香りがふんわりと漂い、喜ぶ雄也の顔が脳裏に浮かぶ。そう思うだけで口元が緩むのを止められない。
ふと視線を感じて前を見ると、雄也がテーブルに両肘をつき、両手で頬を支えながらじっとこちらを見ていた。その無邪気な瞳がまっすぐ俺に向けられている。なんて可愛いんだよ、と心の中で呟き、顔に熱が上るのを感じた。
その視線に気づいた瞬間、なぜか緊張してしまう。さっきエアコンの温度を下げたばかりなのに、また暑く感じるのは気のせいじゃない。息を整えながら、慎重にケーキの乗った皿を手に取り、雄也の前にそっと差し出した。
「はい、雄也の好きなやつ」
自分の声が少しだけ震えていたのは、彼の瞳があまりにも純粋だったから。
「うおー! ショートケーキだ! ありがとう陸人!」
この喜び方――これが、俺にとって一番大事なもの。雄也が目を輝かせながら、上目遣いでこちらを見つめてくる。その無邪気さに、もう限界だと思う瞬間は何度目だろう。
しかし、俺の理性は相変わらずしぶとい。衝動を抑え、深呼吸して落ち着く。
俺は雄也の向かいに腰を下ろし、ケーキの写真を撮る彼の姿を眺める。その集中した表情さえ愛おしく思える。
そして、待ちきれない様子で一口食べた彼の頬が、笑顔とともにふっくらと膨らんだ。そのプニプニしたほっぺを思わず触りたくなるけど、今はもうそんな軽い冗談は通じない気がして、手を引っ込める。
昔なら、何も気にせず触れていた。けれど今、俺たちの間にあるのはあの頃と同じ空気ではない。時間が過ぎるということは、こうして関係性を変えてしまうんだろうか――その思いが胸を締めつける。
「食べないの?」
「え、食べるよ」
しまった。気づけば、雄也の顔をぼんやりと眺めてしまっていた。時間の感覚がすっかり麻痺していたようだ。ふと目をやると、雄也はすでに一つ目のケーキを食べ終わっている。
フォークを置き、満足そうに微笑むその顔に、また心を奪われる。こんなふうに時を忘れてしまうのは、きっと彼のせいだ。
「うわ! このザッハトルテうま!」
雄也の瞳が一段と輝きを増した。その無邪気な表情に、胸が高鳴る。
まるで子供のように喜ぶ姿が眩しくて、思わず目をそらしそうになるが、やはりその視線に引き込まれてしまう。
「本当? それは良かった」
「陸人も食べる? ほら」
雄也は器用にザッハトルテを一口より少し大きめに切り分けると、それをフォークに乗せて俺の方に差し出した。ふと目の前にいる彼の真剣な眼差しに気づく。
まるで、絶対に断らせないという意思が込められているようで、俺は抵抗する間もなく彼の行動に引き込まれてしまう。
「はい。あーん」
その一言に、胸の奥が熱くなった。どうしようもなく高鳴る鼓動を抑えながら、雄也に導かれるまま口を開ける。フォークがそっと口元に触れ、濃厚なチョコレートの甘さが一瞬で広がった。
その甘美な味わいよりも、雄也の無邪気な笑顔が何倍も心に響いてくる。
彼の「はい、どうぞ」と言わんばかりの仕草が、昔から何も変わっていない気がして安心する一方で、こうして特別扱いされていることが嬉しくて、恥ずかしさを誤魔化すようにザッハトルテの味に集中しようとする自分がいる。
そんなひとときが、どれほど続いたのか分からない。気づけば空の色は暗く染まり、静寂が辺りを包んでいた。部屋の灯りが柔らかく辺りを照らしているのが分かった。
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