第17話

 雄也と別れ、家に戻ると、妙に静かな空気が広がっていた。両親は遅くまで用事があるらしいし、妹は友達と出かけている。高校二年生なのに、もっと勉強に集中すればいいのに、なんて思うけれど、わざわざ口にする気にもなれない。つまり、今日は完全に一人きりだった。


 居間に入ると、父のステレオスピーカーが目に留まった。父は昔からクラシック音楽が好きで、大量のCDを丁寧に棚に並べている。その影響で、俺も自然とクラシックに親しむようになった。


 目を引いたのは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。何度も聴いたこの曲は、まるで昔からの友人のように安心感を与えてくれる。


 スピーカーにディスクをセットし、再生ボタンを押すと、静寂を切り裂くように、優雅で力強くも儚い旋律が部屋を満たし始めた。弦が奏でる音色が空気を震わせ、次第に俺の心にも広がっていく。少し音量を上げ、ソファに体を沈めた。ヴァイオリンが力強く駆け抜ける第一楽章。まるで生きている音楽の流れに身を任せているうちに、いつの間にか目蓋が重くなり、そのまま浅い眠りに落ちていた。


 目が覚めたとき、外は少し暗くなっていて、音楽はすでに途切れていた。時計を見ると、二十分ほど眠っていたらしい。静寂に包まれた部屋はどこか落ち着かなく感じられ、ふいに胸がざわつく。雄也のことを思い出して、自然とスマホを手に取っていた。


「ねー、今暇?」


 送る直前、ふと迷いがよぎる。このメッセージを送ってもいいのだろうかと。


 けれど、特におかしな内容でもないし、考えすぎだろうと自分に言い聞かせ、送信ボタンを押した。メッセージが送られた瞬間、スマホの画面をすぐにスリープさせる。妙に心臓が速くなるのを感じながら、音楽の部屋で静かに待った。


 彼からの返事を待つ間、ふと今日のことを思い出す。ほんの数時間前、隣で歩いていた彼の横顔。湿った風が肌にまとわりつく帰り道で、彼はどこか涼しげで、どんな暑ささえ寄せつけないように見えた。その姿が、今も鮮明に心に焼き付いている。


 静けさに包まれた部屋で、スマホの画面をちらりと見てはまた伏せる。その時間さえ、彼とどこかで繋がっているような気がして、胸の奥がじんわりと温かくなるのだった。


 あとは、返信が来るまで音楽を聴くだけ。


 外はもう暗いが、蝉の鳴き声が聞こえてくる。雑音でしかない鳴き声を遮断するため、スピーカーの音量を上げる。マンションなら大音量では聴けないが、一軒家なのでお構いなし。

 第三楽章に入り、少し過ぎた頃、スマホが震えた。すぐに確認する。雄也からだ。


『暇ー。どしたん?』


 暇だと聞いて、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。なぜだろう、ただその言葉だけで嬉しくなる。


 けれど、どうしたのかと問われても、答えるべき理由が思い浮かばない。ただ手持ち無沙汰に、スマホを握りしめるだけだ。返信したいのに、言葉が見つからない。


 そんな時、不意に昔の記憶が蘇る。そういえば、あの頃はお互いの家をよく行き来していた。ゲームをしたり、宿題を広げてふざけたり、たまには喧嘩だってした。


 何でもないような、だけど確かに輝いていた日々。


 あの時間が、こうして遠くから手を振るように浮かび上がってきた。


 今も同じようにできるだろうか。年を重ねた分、少しぎこちなくなるだろうか。それとも、あの頃の続きみたいに、また自然に笑い合えるのだろうか。


 そんなことを思いながら、画面を見つめていた。気づけば、無意識に指が動いていた。


「俺ん家こない?」


 言葉が送信された瞬間、後悔と期待が同時に胸を満たす。この一言がどんな反応を呼ぶのかを思うと、心臓が少しだけ早くなった。返事を待ちながら、画面の明かりが薄暗い部屋の中にほんのりと色をつける。


 その間も、スピーカーからはヴァイオリン協奏曲が流れている。美しい旋律が部屋の空気を震わせ、優雅に音を紡いでいく。第一楽章の終わりが近づくにつれ、演奏は次第に高まり、最後には力強い和音で締めくくられる。曲の終わりが告げる一瞬の静寂に、胸のざわめきが余計に大きく感じられた。


「情けないな、今日は」と、独りごちる。

 意味もなく焦ったり、何かに期待したり。


 そんな一日を過ごしている自分が少し恥ずかしくなった。そして、家を飛び出して、近所のケーキ屋さんに向かっていた。来るかどうかもわからない状態で、駆けている。


 だけど、この情けなさの中にある微かな温かさを、手放したくないと思う自分もいるのだった。

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